天空に浮かぶカクレクマノミ
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金沢ついでに、妙立寺を見学。別名、忍者寺として名高いお寺。前田利常が、1643年に、金沢城近くから移築建立したお寺で、戦火にもあわず、今に姿を残している。
外見は、二階建てのふつうのお寺。しかし、内部がすばらしいというか、複雑で、仕掛けに満ちて、無条件にワクワクさせられた。
4階建て7層構造にもなっており、階段の数、なんと29。迷路のように、各部屋から意外な場所へと結びついていて、フツーの部屋がない……。屋内に、風流な「太鼓橋」まで。人知の限りをつくした(?)隠し階段や落とし穴など、どこもかしこも楽しすぎる。
木のゆがみを生かした巨大な梁も見ごたえあり。このゆがみこそが、雪の重みを分散させる働きをし、寺を支えてきた、という解説にも感心する。17世紀の人のほうが、現代人より賢かったんじゃないだろうか、とさえ思わされる工夫が、いたるところにたっぷり。
それにしても、この内部の風景、夢に2度ほど出てきたことがある。おなじ風景を、はっきりと覚えている気がする。不思議な既視感。いつかの前世、ここで隠れたり祈願したりしていたことがあったんだろうか?
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◇リビアのカダフィ大佐の息子や孫たちが殺された報道に続き、ビンラディン容疑者「殺害」でアメリカ中が「祝福」「狂喜」という報道。なにか間違っているとしか思えない。不寛容と復讐の連鎖が、さらなるひどい状況を生むことは、歴史がすでに教えているのに。
◇国立新美術館で「シュルレアリスム展」。シュルレアリストたちは、戦争へと向かうきなくさい時代に、活発に創作している。今回はとりわけ、激動の現実社会と、芸術家たちはどうやって折り合いをつけたのか?というギモンをもって観たのだが。
1918年、第一次世界大戦のさなか、ルーマニア出身のツァラが「ダダ宣言」を書く。戦争をもたらした近代文明やそれを支えた人間のモラルを呪い、全否定するような、「何も意味しない」という挑発的な宣言。(原発の状況が一向によくならない今、これに加えてアメリカとイスラム世界の対立が世界大戦に発展するような悪夢が万一起きたら……などと想像してしまうと、この宣言にも共感がもてるところがある)
「全否定」ばかりでは持続しない、それでも芸術家は人間の可能性を追求しよう、という動きが起きる。それがほからなぬ、1924年のアンドレ・ブルトンによるシュルレアリスム宣言だった。
「心の純粋な自動現象(オートマティスム)であり、それにもとづいて口述、記述、そのほかあらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気遣いからもはなれた思考の書き取り」。
オートマティスムによるイメージ奔流を流れるままに描きとめる、というような技法をはじめ、さまざまな技法によるシュルレアリスムが出尽くすころ、また時代がきな臭くなる。
1929年(ヒトラーが政権を獲得したのが1930年)、プルトンが発表した「シュルレアリスム第2宣言」がまさに現実社会の変革を視野に入れた運動だった。
「どう考えても、生と死、現実と想像、過去と未来、伝達可能と伝達不可能なもの、高いものと低いものとが、そこから見るともはやたがいに矛盾しては感じられなくなるような、精神の一点が存在するはずである」
乖離するふたつの世界を昇華して、統合するような芸術、それが第二次大戦直前のシュルレアリスムということか。
このあたりの時代に活躍した作家として、ヴィクトル・ブローネルがフィーチャーされていたが、このひとの作品を見たのは初めてで、ユニークで強い印象を残した。目鼻がとびだして伸び、筆になってカンヴァスになにか描いている「モティーフについて」とか、人から魂を吸い取っているような「光る地虫」とか、オオカミとテーブルが合体したオブジェとか、夢に出てきそうだ……(笑)。
おどろおどろしさ寸前の作品も多く、それらに比べたルネ・マグリットやピカソのなんと上品なこと!マグリットが出てきたらほっとするほどだった。
1918年のダダ宣言から、1960年終わりごろにポップアートすれすれになるまでの、シュルレアリスム運動の流れが理解できた。時代との関連がよくわかったのが収穫。点数が多い上に、1つ1つが強いエネルギーを発しているので、かなり疲れたけど。
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大平貴之プロデュースのスカイ・プラネタリウム@六本木ヒルズ 森アーツセンターギャラリー。世界初の3Dウォークスルー型プラネタリウムというのはどんなものか?と興味津々で。昨夕訪問。
来館者のほとんどがカップルで、大混雑していたが、科学とアートと遊園地が一体化したような、幻想的な体感空間を楽しむ。よくぞこういう精緻な空間をつくりあげたもの。星座がアイデンティファイできる眼力があればもっと楽しめたであろう。
宇宙の中の地球がどのくらいの大きさでどの程度の位置づけかというのも映像で実感できた。地球なんて宇宙全体から見ればほんとに砂粒よりもはるかに微細。そんな小さなところで狭量な欲や恨みや怒りで頭をいっぱいにして殺し合ったり破壊し合ったりしている愚。
森美術館のほうでは、小谷元彦による「幽体の知覚 Phantom Limb」。実体のない存在や形にできない現象、「幽体」の視覚化を試みる、という野心的な彫刻や体感型インスタレーションの数々。
Dying Slave というコンセプトが印象に残る。人間は同じことを繰り返しながら死に向かっていく奴隷である、というような。巨大などくろがくしざしにされて、ぐるぐるぐると回転している。あとから調べてみたら、先駆者があり、ミケランジェロが「Dying Slave」という彫刻を彫っていた。腕と胸を拘束されて、のけぞっている男の彫刻。瀕死の奴隷、といったイメージ。ルーブルにあるそう。小谷さんはミケランジェロとは違う意図で、Dying Slaveを解釈しなおしたようだ。
おどろおどろしくもあり、不可解なところもある、白日夢のような世界だったが、見えないものの存在を考えることで逆に現実の生を見つめなおせ!というメッセージは伝わってきた気がする。
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渡辺敬子さんによるクリスマスコンサート@青葉台フォーラム。ピアノ演奏の合間に、曲にまつわるトークがさしはさまれる。あたたかな雰囲気につつまれたサロン形式のコンサートだった。
異教徒も祝うクリスマスは、愛を祝う日でもある、ということで、さまざまな「愛」の物語を秘める曲が奏でられる。
☆シューマン「蝶々」作品2、「幻想小曲集」作品12より「夕べに」「飛翔」
クララと出会ったころのシューマンの、若々しい情熱的な思いがあふれだすような音楽。
☆ブラームス「6つのピアノ曲 作品118より第2曲」
クララに思いを寄せながらついに愛をかなえることができなかったブラームスが、60歳ぐらいの頃に作曲したという作品。そうしたエピソードをあらかじめ聴くことで、曲に対するイメージが広がり、音楽を通して作曲家の心に近づくことができたような気になる。シューマン夫妻とブラームスの関係は、映画「クララ・シューマン」のなかでも情緒たっぷりに描かれていたので、映画のシーンを思い出しながら聴き入った。
☆シューベルト「即興曲」D935より第2曲
純粋な人間愛や、隣人愛があふれる音楽。友人から愛され、友人のために曲を書いていたような、彼の誠実で優しい人間性を感じることのできる曲だそう。言われてみると、なるほどそんな温かでおだやかなイメージ。
☆ショパン バラード第1番 作品23、ノクターン「遺作」 嬰ハ短調、ポロネーズ「英雄」 作品53。
作曲家のなかには、霊感が強く、作った曲によって運命を引き寄せてしまうようなことが起きる人が多い、と敬子さん。「死」をイメージした曲を作ったとたんにあの世へ旅立ってしまう、ということも起きるのだとか。ショパンも霊感が強い一人で、バラード第一番を作曲したのち、まるで曲のイメージそのもののように、ある女性との熱烈な出会いと別れを経験することになったという。ポロネーズ「英雄」は、祖国愛に満ちた作品で、祖国ポーランドのダンスのリズムが挿入されているとのこと。
「知る」ことで、感性もより深く研ぎ澄まされることを実感。ツンと超然と聞こえていたクラシック音楽にも、誕生の背景には、ヒューマンでウェットな「愛」があったのだ……と生々しく知ることで、音楽に親近感を抱いてしまうからゲンキンなもの(笑)。
知性と愛にあふれた音楽を堪能したクリスマスシーズンのひとときでした。写真は渡辺敬子さん。すてきな演奏とトークをありがとうございました!
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ゼミ・小人数クラスの学生とともに「その名は蔦屋重三郎」展@ミッドタウン内サントリー美術館。
TSUTAYAの創業者があこがれて、その名にあやかろうとしたという江戸の敏腕プロデューサーにして版元、蔦屋重三郎をめぐるネットワークに焦点をあてた、ユニークな視点の展示。
吉原遊郭のガイドブックである吉原細見、喜多川歌麿による美人画に美人大首画(なかでも青楼十二時)、狂歌連と狂歌絵本、十か月だけ活躍した謎の絵師、写楽。点々でぼんやりと知っていただけの江戸文化の象徴が、蔦屋重三郎というメディアプロデューサーを通じて有機的につながっていく。
個人的には、歌麿画&宿屋飯盛撰の「画本虫撰」が、意外な拾いものだった。へび&とかげ、せみ&くもなど、虫(爬虫類系の生き物をふくむ)を詠題にした、狂歌合。詠まれる歌があまりにも粋で、あとからカタログでじっくり読みなおそうと思ったのに、豪華なカタログには肝心の狂歌が書かれていない(会場では、江戸文字の現代語訳を書いたパネルが展示してあった)。不親切。なんのための高価なカタログなの。
美人大首絵、すなわち美女のクローズアップは、歌麿が考案した構図で、これによって美女の表情や内面にまで迫った……ことになっているが、正直言って、現代の目からは表情どころか、美女たちの顔の違いもよく判別できない。300年後の日本人が、キャンキャンモデルたちの顔の違いを判別できないようなものか。
その点、写楽の絵は、キャラがしっかり立った顔を描いていて、もっとも親しみやすかった。当時の日本人にはウケが悪かったそうだが、西洋人の視点からは、写楽は世界三大肖像画家の一人(あとの二人はレンブラント、ベラスケス)。
視点をちょっと変えて「プロデューサー」に焦点をあてるだけで、江戸文化もこれまでになかった新鮮な見方でとらえなおすことが可能、と教えられる。
蔦重は47歳で亡くなっている。その若さで、これだけの仕事の質と量。石川雅望が撰した蔦重墓碑銘:「其の巧思妙算、他人の能く及ぶ所にあらざるなり・・・(以後略)」。
◇「25ans」1月号発売です。「カルチャー美容液」のコーナーで、「姫になれるドラマと映画」を紹介しています。ちっちゃい欄ですが、機会がありましたらご笑覧ください。
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昨日訪れた、ドガ展@横浜美術館。「サライ」読者のみなさまとともに、学芸員のレクチャーを20分ほど聴いたあとでの鑑賞。
第1章「古典主義からの出発」、第2章「実験と革新の時代」、そして第3章「総合とさらなる展開」という三部構成になっている。基本をきわめ、実験と革新に入り、晩年にはそれらすべてを総合する表現へ、と昇華していった芸術家の道筋がわかる。
有名な「エトワール」(意外と小さな絵であることに驚き)はじめ、「バレエの授業」、メンズファッションの本に必ず出てくる「綿花取引所の人々」などは、すべて第2章の時期に。
「エトワール」だけが他の絵とは距離をおかれ、別格扱いされていた。初来日とあって、この絵の前にはとりわけ人だかり。チュチュ(踊り子のスカート部分)から光を受けて透ける足のなまめかしい美しさに、見入る。「綿花取引所の人々」は、1873年当時のメンズファッションの「実例」としてしばしば引用される絵なのだが、ゴミ箱に捨てられた紙屑の細部、新聞のレイアウトにいたるまで、細かい仕事がなされていることがわかり、あらためて感心。
第2章では踊り子ばかりを描いていたようにも見えるドガは、第3章では執拗なほどに「浴女」を描く。見られていることをまったく意識していない、無防備に体を洗ったり拭いたりしている裸の女の後姿。「浴後(身体を拭く裸婦)」にいたっては、マニエリスムがいきすぎて頭部がどうなってるのかわからない(その異様なクネクネが魅力になっている)。
晩年は視力が落ちて、彫刻をたくさん作っていたということもはじめて知る。まとまった数のドガの彫刻が、一部屋分。
遺品の展示も含めて、132点。オルセイ美術館からは46点。素描の展示がやや多すぎる感もあったが、「古典」→「実験・革新」→「総合」にいたる芸術家の軌跡は、示唆に富む。女嫌いで独身を通した、というドガの顔の変遷も味わい深く。
20年ぶり、というかなり久々のドガ回顧展になるが、それは顔料が繊細なパステルだから。輸送中にパラパラと落ちるので、海外の美術館はなかなか貸与してくれないのだ。ということを学芸員の話から知る。
乾いて澄み切った冷気がほどよく心地よい、みなとみらい。冬の兆しの気配。
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ガーデンプレイスついでに、東京都写真美術館に立ち寄る。2階で「ラヴズ・ボディ 生と性をめぐる表現」展、3階で「二十世紀肖像」展。
前者の方はメディアでもとりあげられていて、期待が大きかったものの、点数が思ったよりも少ない。とはいえ、衝撃とともに「生と死」を考えさせられる写真と出会う。
ポスターにも使われている「転げ落ちるバッファロー」。デイヴィッド・ヴォイナロヴィッチの作品。生と死の境界にいる、というか死へ転がり落ちていくバッファローの姿が、どこか白日夢のようでもありながら、荘厳な印象。死ぬときはこんなふうに、ふわり、くるり、なんだろうか・・・とか、とりとめなく想像が続いていく。
ウィリアム・ヤンの「独白劇(悲しみ)より<アラン>」という一連の写真も、凄絶。エイズで死んでいく一人の若い男アランの顔の変化を、1988年10月から1990年7月まで、撮り続けたもの。各写真の下に手書きの覚書あり。
「エイズよりも自己憐憫で人は死ぬ」。
死の直前の昏睡状態の顔と、死んでしまった直後の顔も並べられる。「まるで死人のようだと思ったけれど、昏睡状態にあっても生きているアランと、死んでしまったアランとでは、その落差は言葉に尽くせないほど大きかった」。
目をそむけたくなる写真も少なくなかったが、死を考えていると、大なり小なりつきまとう現世の諸問題はいくらか軽減していくのがわかる。他人の理不尽な評価はじめ、慣例にふりまわされるだけのつきあい、自分がもたない美や富に対する羨望、虚栄でしかない体裁づくろいなど、「どうでもいいこと」がはっきりとわかって、ほんとうにどうでもよくなってラクになる。逆に大事なことも、見えてくる。
「二十世紀肖像」のほうは、好みどまんなかの展示。二十世紀初頭から現在までに撮られてきたさまざまなポートレイト写真を通して、時代の美意識や、社会に通底していた感覚、個人の内面までもが、容赦なく浮き上がってくる。太宰治、チャーチル、坂口安吾、桜田淳子、寺山修二&天井桟敷など、時間が経っているからこそ「わかる~」と感無量になる肖像写真も多数。
「ポートレイトとは、今ここを生きる人間の似姿を、オブジェとして所有しようという願望」が生んだフェティッシュなもの、という解説に感心。
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◇「大人のロック!」特別編集「永遠のクイーン」(日経BPムック)発売です。来年度のカレンダー付き。フレディ・マーキュリーのファッションについて語っております。機会がありましたら、ご笑覧ください。
◇ゼミ生とともに、「きらめく装いの美 香水瓶の世界」展@東京都庭園美術館。
古代から現代まで、年代を追って香水と香水瓶の歴史がよくわかる、秀逸な展示。香水の歴史そのものには親しんでいたが、本物のボトルコレクションをこれだけまとまった形で見るのははじめてのことで、新しい発見が多かった。
1981年のキャロンのバカラ社製の「フォンテーヌ・ア・パルファン」には驚く。香水を生ビールのようにディスペンサーから量り売りするための巨大なボトル。
1990年にエルメスが天皇陛下御即位記念香水瓶として作った、ティアードスカートのような三重の塔のような荘厳なボトル。サン・ルイ社製。
1940年のランヴァン、「プレテクスト(口実)」の、なぜか雪だるま型香水瓶。1938年のスキャパレリ、「スリーピング(おやすみなさい)」はユーモラスなキャンドル型。
19世紀の卵型香水キャビネット(卵が開くと中には数種類の香水ボトルが収められている)。などなど。ボトルの形、素材、装飾、そしてネーミングに、あらゆる想像力が駆使されている。ルネ・ラリックの「キャトル・シガル(4匹のセミ)」、やはりラリックの「エピーヌ(棘=トゲ)」。なぜに、セミ(笑)。
アールデコ様式の旧朝香宮邸=庭園美術館の入口で出迎えてくれる、巨大な「香水塔」からはほのかによい香りが漂う。噴水塔の上部の照明部分に香水をたらし、照明の熱で気化させ芳香を漂わせたという「塔」。気化させた香りであるためか、アロマデフューザーなどで放たれるフレグランスよりもまろやかな印象。
図録もずしりと厚く、香水の歴史の本として読み応えがある。巻頭序文には、監修者でもあるマルティーヌ・シャザルによる力強いことば。「限界を乗り越え、美を刷新し、創造する能力を示す人間の最大の美点がそこに発揮されていることがわかるでしょう」
「限界を乗り越えようとする力」。ファッション史に惹かれるのは、まさにそんな力が見え隠れするからだ。理屈ではどうにもできなくなった現状を突破できるような新しい美というエネルギー。嗅覚に直接働きかける香水にも、そんなパワーが確実にある。
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