2011年12月17日 (土)

「深刻な事態から目を背けるために栄光に溺れる、そこまで堕落したのか」

13日(火)におこなわれた、宮内淑子さん主催の第134回次世代産業ナビゲーターズフォーラムのメモ。この日の講師は、藤原帰一さん。東京大学法学部・大学院法学政治学研究科教授。

テーマは「リスク管理のパラドクス テロ対策から原発事故まで」。具体例をまじえてのぎっしり充実の60分(+30分の質疑応答)。なにせ話の内容が理路整然としているうえに盛りだくさん。20ページ以上にわたりノートをとっているのだけれども、量が多すぎてどこからどうまとめていいのかわからない。かといって放置しとくともっともったいないことに。私のような(専門的知識を欠く)素人の心が動いた事柄だけでも、とりあえず記録しておきます。

リスク管理(事故が起きる前の管理)と危機管理(事故が起きてからの管理)には、とかくパラドクスがつきものだということを、原発事故と9.11の事例から学ばせていただいたことが、大きな収穫の一つ。

なかでも、原発事故が起きた時の菅元総理の話が興味深かった。マスコミはリーダーシップの不在を問うていたが、実は、菅さんはリーダーシップを発揮しており、それを発揮すればするほど経産省とぶつかり、事態の収拾を遅らせてしまっていた…誰が権限を握っているのかわからないまま、どんどん事態が悪化していった…というのが真実、という指摘にショックを受けた。亀井静香さんの「日本の総理大臣は、閣議の司会をやっていればいいんだよ」という発言が的を射ている、と聞いて、が~んとくる。

危機管理に立った場合、日本の制度はきわめて不適応。日本においては「課長のハンコの数だけ政府があり」、権限が分散してしまっているので、非常時にすみやかな対応ができない。決定の一元化をはかることが、極めて困難になるのだ。

では、アメリカのように、非常時には首相官邸だけに権限を集中すれば話が早いのかというと、必ずしもそうではない。

アメリカでは、大統領府の権限が圧倒的に強く、非常時においては権限はすべて大統領府にゆだねられる。9.11のとき、情報のシャットアウトがきわめて迅速におこなわれ、イラク戦争開戦の決定は、ごく少数の人間によっておこなわれた。それが実は誤った決定であったことを、あとから私たちは知ることになる。大統領府に決定の権限が集中すると、チェック&バランスの機能が働かなくなり、愚かな決定が行われる危険が高まるというパラドックスがある。

そうしたパラドクスも理解したうえで、危機発生の前に、超法規的権限をもつ非常時体制をつくっておくべき、というのが藤原先生の主張のひとつ。

また、リスク管理の優先順位をはかるときに、確率とコストによって、トータルの損害額が多い方から対策がとられがちであったりするのだが、数字は人を思考停止させるものでもあり、確率の低いリスクも決して放置してはならない、とも。

レクチャー中の藤原先生は、上の話を含むさまざまな理論を整然と理知的に語られていて、どちらかといえばクールな印象だったのだが、質疑応答の時間になって、がらりと一変し、感情をほとばしらせる熱い口調になることがあり、そのギャップがとても人間的で、共感を覚えた。

そもそもなんで藤原先生がこんな問題を扱っているのか?といえば、義理の弟さんに対する強いコンパッションがあるから。福島で高校教師をなさっている義弟の方は、「パレスチナ人の気持ちがわかる」と言うそうだ。共感をもってもらえず、見捨てられている…という深い絶望。藤原さんは悔やんだ。「重大なリスクが先送りされる危険を知っていたのに、なんでこの事態を避けることができなかったのか」と。その悔しさがあるからこそ、このような研究をしているのだ、と。

社会問題になったAERAの表紙。ガスマスクをかぶった男の写真があって、「放射能がくる」とコピーがついていた、あれ。藤原さんの怒りは、ガスマスクによって読者を脅かした点に向けられるわけではない。「放射能がくる」という他人事意識まるだしの表現に向けられるのだ。放射能は、福島にはすでにたくさん出ている。「くる」という表現は、首都圏の人たちの、距離を置いた「他人事」視線からしか生まれない。その当事者意識の欠如に対し、藤原さんは怒るのである。

震災後、「日本はすばらしい国だ」と各国がホメたことをメディアは自慢してたりするが、それに対しても、藤原先生は怒る。「深刻な事態から目をそむけるために栄光に溺れる、そこまで堕落したのか」と。火事でまさに燃え上がっている家を「すばらしい家だった」と称えるようなことをして、いったいどうするのか。今は先に手をうつことを考えねばならないのに、そんな褒め言葉に酔ってる場合か、と。

「なんとかなっちゃった経済」のままずるずるきている今の日本、問題を洗い出し、とにかくすぐに具体的に問題に手をつけていかなくてはならないのだ!

…というような話をはじめ、話題は多岐に及んだのだが、強く印象として残ったのは、高度に専門的な問題を扱う学者にとっても、やはり個人的な感情としっかり向き合うことが正しい出発点になるということ。藤原先生の悔しさ、怒り、義憤、共感、愛情…。そのような基本的でまっとうな感情がベースになって、人を動かす学問が積み上げられていくということ。理路整然としたお話に説得力と共感を与えていたのは、結局、そういった感情の品格だった。

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2011年12月 5日 (月)

「星が見えていることに気づくこと」

朝日新聞天声人語に引用されていた、吉野弘さんの「星」という詩。孫引きになるが、あまりにも忘れがたいので。

「有能であるよりほかに 

ありようのない

サラリーマンの一人は

職場で

心を

無用な心を

昼の星のようにかくして

一日を耐える」

星のアナロジーついでに、本橋信宏さんの本に紹介されていた、代々忠監督の言葉。これも孫引きで失礼。

「星は見えているんだけど見ていない。生きていくことは星が見えていることに気づくこと」

そこにあるものに、気づくこと。見ようとすること。先入観や既成概念が邪魔になって、見えてるはずなのに見えてないものって、けっこうある。

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2011年11月26日 (土)

叶わぬ想いは成仏させる

岡田斗司夫の順番がめぐってきた「悩みのるつぼ」、朝日新聞26日付。27歳主婦(結婚3年目)の相談。初恋の人がいまだに忘れられず、気持ち悪いほどの思いをいまだに持ち続けているという悩みである。

岡田さんは、それは恋愛ではなく信仰である、と。彼への思いを芸術家として表現するのがいいが、それができぬ常識家であれば、叶わぬ想いは成仏させて信仰としましょう、と。

「毎日この仏像を、彼だと思って拝みましょう。今日を感謝し、大好きです、見守ってください、と祈りましょう。もっとすてきな女性になります、と誓いましょう。自分の子も他人の子も全部『彼の子供』と思って愛しましょう」。

このような信仰と、現実世界の愛は両立する、と。

叶わぬ想いがすべてこういう方向にシフトすれば、すてきな人だらけの平和な世の中になりそうな、迷解答…。

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2011年11月13日 (日)

「クリエーションは違いを目立たせることから始まる」

まっさきに開いたのが、コシノジュンコさんの「仕事力」3回目が載っている頁。朝日新聞13日付。やっぱりかっこよい人にはかっこよい考え方があるわ~。

「クリエーションというのは、この、自分が見つけたドキドキや美しさを徹底していって、それを多くの人に還元することだと思います。自分という入口は、本当は同じ時代を生きる人の感覚とつながっている。まだ人が気づいていないその感覚を、あなたが見つけてくるのだと言い換えられるかも知れません。そのために気持ちは自由にしておく。仕事が忙しくても、自分らしさの源となる心には、遊ぶスペースをいつも持っていなくてはと思います」

目立ってナンボ、という発想の肯定にも、説得力がある。

「浮いてしまうのが怖いと考えるのは、今自分の位置を確保した集団からはじかれるのが怖いからですね。でも、クリエーションは違いを目立たせることから始まります。サービス業でも、製造業でも同じだと思いますが、『こいつは何か違う』と言われる人は、エッジが立っています。周囲の色に全部染まっていたら、いつだってその人の代わりは利く。

浮いていることを認め、気持ちの中に自分だけの遊びのスペースを持っておくこと。あなたの感受性は、コンピューターの情報の中などにはないのですから」

ただ自己主張したい一心というのが透けて見えるから浮いている人と、心に豊かな遊びのスペースがあるからこそかっこよく浮いている人、の違いは一目瞭然。前回も書いたけど、後者になるには、心のタフネスと勇気が必要。決心するのは簡単だけど、実行し続けるには相当なエネルギーが要る。浮いていることを認めて、愛してくれる近しい人の存在は不可欠だと思う。ジュンコさんの場合はお母様はじめ姉妹がそうだったのかな。幸運で、幸福な仕事人生を邁進している方だなあ、とあらためて敬意を覚える。

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2011年11月 6日 (日)

「その時、その場で伝えるべき魂を知っている」

楽しみにしていた、コシノジュンコさんの「仕事力」2回目。「センスとは、状況判断である」(朝日新聞6日付)。

どんな分野であれ頭角を現すために必須のセンス。そんなセンスとは磨くことができる能力である、という前提のもと、では何がセンスで、どうやったら磨くことができるか、という話を、具体例を添えて。

「センスは4つの意味を含んでいると思います。『感覚的』『経験がある』、それについての『知識を持っている』。そして瞬時にどうすべきかの『状況判断ができる』。

「手に触れたものが何で出来ているのか、今見たダンスになぜ感動したのか、どんなことでも自分のセンサーにかかったらつかまえて、私のセンスの引き出しに蓄えているのです。意識してそれを続けることですね」

キューバ大使夫人から送られた銀のフォークのブレスレットのエピソードを紹介して。「多くの困難な体験をしていらしたと思います。それでも虚勢を張ったり、何かで間に合わせたりするのではなく、その時、その場で伝えるべき魂を知っていることのすごさ。センスとは、つまり見た目がどうこうというのではなく、人間の総合力なのです」

日ごろからぼんやり感じていたことをきちんと言葉にしていただいたような印象。日々、偏見なくセンサーを張り巡らせていると、「この人、センスがいい!」とか「この店のセンスが抜群!」というような出会いには恵まれるもの。それを「どうしてそう思うのか?」と自分で消化していく作業を繰り返すことで、センスは磨かれていくはず……と信じて努力を続けてはいても、意外とできないのが、「状況に応じた伝え方」。理由はただひとつ、「勇気がないから」。あるいは「失敗を怖れすぎて臆してしまうから」。その時、その場の魂を瞬時に判断して過不足なく伝えられる。これはもう、行動力の問題で、現場体験を(恥をかきながら)重ねていくしかないのだろうなあ。

そういう場に臨んでも、「できたことだけが自分の能力のすべて」と考え、(もっとうまくできたのに、などと悔やんだりして)決して落ち込まないことが大事。今後の課題ですな。

センスの良しあし、テイストの良しあしが決して表層的な問題ではない、ということを言っている人は、イギリスの作家にもいる。たとえばヘンリー・フィールディング。ときどき読み返している名言の一つ。

A truly elegant taste is generally accompanied with excellency of heart. (真にエレガントなセンスは、おしなべてすぐれた心をともなっているものだ)

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2011年10月30日 (日)

「素の自分が分かれば、折れない」

◇朝日新聞30日付「仕事力」。コシノジュンコさんの巻。「素の自分が分かれば、折れない」。

コシノジュンコさんの力強い迫力は尊敬の的。あの落ち着きとかっこよさの秘密は何かといつも思っていたのだが。ここに答えが。

岸和田弁がコンプレックスだったが、その悔しさのおかげで強さを得ることができた、と。「コンプレックスは、人には分からない非常に強い感情なので、自分のオリジナリティーを内側から支える利点を持っているのです。だから逆にはっきりと意識したほうがいい」。

背が高く美しいモデルたちの中に入って仕事をすることも、臆してしまいそうだが、そうではない、と。「コシノジュンコは身長で勝負しているわけではないし、容姿で勝負しているわけでもない。だから私は私、クリエーションが勝負の場所だからと平気な顔ができるのです」。

……これ、理屈ではわかっていても、実際に平気な顔をするのは、けっこうたいへんな精神力が要るのだ。美しすぎる人の谷間に入っていって、すっかり自分を見失ってしまった経験は、何度もある(笑)。やっぱり、ジュンコさんは強い。

そして最後、出会うための直観力について。「憧れを持って生きていると、アンテナが鋭敏になっていき、出会った人にハッとする瞬間があります。『ああ、業界で名の知れた方ね』ではなくて、『自分が会いたかった人だ』と直感するようになる。こういうピンとくる、ハッとするという体験が、ぼんやりとしか分からない『自分らしさ』にスイッチを入れ、自分の知らない自分の目を覚まさせてくれます」。

……これはとてもよくわかる。アンテナを日々鋭くしておくことで、出会ったときにわかる、というか、出会うべくして出会った、というような幸運に恵まれる。それが「運命」と感じられるのは、実はその後しばらく交流が続いたあとで、まさしく、「自分の知らない自分の目を覚まさせてくれる」感覚が走る体験を何度か経たあと、ではないかと思う。

◇友人が、金曜に書いた「マヤ暦最後の日」の話を読んで、「『いまを生きる』という映画を思い出した」とメールを送ってくれた。

そういえば、あの映画のモットーが「Carpe Diem (時をつかめ)」であったことを思い出す。公開時は、Carpe Diemといわれても、理解はできるけれども実感がわかなかったのだが、あの「旧暦最後の日」を経てみた今なら少しわかるような気になってきた。義務を放りだして楽しい夢を追いかけたりすることなど許されない身には、「丁寧さ2割増し、集中度2割増し、のつもりで任務を遂行すること」。地味だけど、これが義務まみれの身にとってのCarpe Diemの具体的方法のひとつ。

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2011年10月19日 (水)

「組織の不在と政策の空白は、裏表の関係」

◇興味をひかれた記事のメモ。18日付朝日新聞朝刊、「イケメン色々 バディ映画」。イケメン若手俳優二人が主役となるバディ(相棒)映画が邦画界で目立つ、という話。

妻夫木聡×松山ケンイチ、松山ケンイチ×瑛太、松田龍平×瑛太、松田龍平×大泉洋。

以下引用。

mapleイケメン大量戦略。精神科医の斎藤環さんはそれを「男ソファもの」と言い換える。「イケメンバディ映画に求められているものは、『男ソファ』の安定感。優しくてイケメンな複数の男性に、ソファに静かに身をゆだねて癒されたい、という現代女性の無意識を満たしています」。イケメンの真のニーズとは、恋愛や性愛の対象ではないのだろうか。「セクシュアルなものをとり除いた癒しとしての安定感ではありませんか」maple

男ソファ、という表現が、言いえて妙かもしれないだけに、大声で言うのもはばかられるような感じ。

◇もうひとつ、同紙同日夕刊の「時事小言」。藤原帰一氏による「組織不在の21世紀革命」。

アメリカのウォールストリートを占拠する運動が、当初、主要メディアから黙殺されていたという話から始まる。事態が大きくなるにつれて、まずはアメリカ国外のメディアが注目し、最後にアメリカのメディアも大きくとりあげ、世界に反響が広がっていき、10月15日には、ロンドン、メルボルン、東京でも集会が開かれ、ローマでは暴動。ツイッターやユーチューブで集会の模様が同時中継される、という経緯。「世界同時多発革命を目撃するような」気持ちでそれを拾い読みしていた、と。

チュニジア、エジプトで起こった政権崩壊でも似た展開だった。

日本でも、尖閣諸島問題をめぐる街頭デモ、原子力発電の全廃を求める街頭デモ、政治的立場ではおよそ逆のこの二つのデモが、主流メディアの報道からは無視された。これはいったい何だ?

中心となる政治勢力が存在しない。エジプト革命でもウォールストリート占拠運動でも、現在の経済社会と政治社会への告発であって、目的を実現するために誰に権力を委ねるのか、その具体的な政治的選択は見えてこない。

以下、ラストの締めの引用。

maple組織の不在と政策の空白は裏表の関係にあると私は思う。(中略)インターネットを経由して結ばれた社会連帯の中心は空白なのである。

国境を横断して、膨大な数に上る人々が、現代資本主義経済に異議を申し立てる。まさに世界革命のような事態が起こっているというのに、それがつくりだす政治の形は、まるで見えてこない。そこで明らかなのは、議会制民主主義をとる諸国においても、既成の政治が吸収していない膨大な不安と不満が鬱積していることだ。その危うさ、恐ろしさだけは政治家の皆さんに見ていただきたいmaple

不平不満はあちこちで大声で表明されているが、であれば、こういう社会、こういう理想を実現したいのだ、というその先の具体案が同時に語られてもよさそうなものだが、それは(膨大なデモの数に比べれば)あまり語られていないように見える。現状でさえなければなんでも(誰かがなんとかして)、のような抗議の仕方には、確かに危ういものを感じる。こういう「大きな、逆らい難い空気の流れ」ができあがってしまうようなときこそ、あえて慎重になってみることも必要なのかもしれない。

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2011年8月31日 (水)

「文化を傷つけない」ために

山下達郎さんの「仕事力」の4回目、朝日新聞28日付。「文化を傷つけない」。誇大宣伝とバッシングの両方が、行き過ぎではないか?と思うことしばしばだった最近の風潮を、やさしい声でたしなめてもらったような感じ。

「過大な称賛と不必要な批判が錯綜し対立するたびに、文化は傷つき、人の気持ちもすさむように思えます」

周囲の雑音に負けずに仕事をすることがとても難しい時代、というのにも同感。今はかんたんに理不尽な批判(というかたんなる感情的な罵倒)をネットでまきちらすことができる。クリエイターにはそのことばが届いてしまうのだ。

「厄介なことに人間は、千の賛辞の中の一つの罵倒をすごく気にする動物なので、その中で冷静に自分の仕事を自己評価することは至難です。まして、自己の克己心だけでその苦しさを乗り越えていくことはさらに難しい」

で、大人たるもの、感情を超えて、「文化を傷つけない」ためにふるまおう、という達郎さまからの直球のメッセージ。

「だからこそ職種を問わず、仕事人になったら、好き嫌いと良しあしをきちんと区切って、他者の作品や仕事への敬意を払わねばなりません。一つの作品が形になるまでに費やす時間や労力は半端なものではありません。良しあしや好き嫌いがあるのは当然ですが、度を超した評価や批判は、文化自体をも曇らせていくものです」

今年の夏に、結局、気がついてみればいちばんよく聞いていた邦楽(というと、ちがうジャンルに聞こえるが)はといえば、達郎さん新作のアルバムからの「La Vie en Rose 」に加えて、10年以上も定番の「高気圧ガール」(発表は1983年)。流行り廃りの著しい音楽界にあって、「古くならない」作品を生み出すなんて、なかなか、できることではない。

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2011年8月26日 (金)

「欲を出したら途端に自分の浅さを見破られる」

◇朝日新聞から3つ、面白いと思った記事の記録。ランダムな書きっぱなしで申し訳ないが、引っ掛かりだけでも書いておくと、いくばくかの時間がたったときに、「あ、そういうことだったのか」と、意外なことがらと結びつくことがある。というわけで、まずは25日付、論壇時評。高橋源一郎の「伝えたいこと、ありますか」。

ジプリの小冊子「熱風」表紙になった、宮崎駿による「NO!原発」のひとりデモ、についてのコメントである。

「この面白さは、この写真が醸しだす『柔らかさ』から来ている、とぼくは思った。『柔らかさ』があるとは、いろんな意味にとれるということだ。ぼくたちは、このたった一枚の写真から、『反原発』への強い意志も、そういう姿勢は孤独に見えるよという意味も、どんなメッセージも日常から離れてはいけないよという示唆も、でも社会的メッセージを出すって客観的に見ると滑稽だよねという溜め息も、同時に感じとることができる。

なぜ、そんなことをしたのか。それは、どうしてもあることを伝えたいと考えたからだ。そして、なにかを伝えようとするなら、ただ、いいたいことをいうだけでは、ダメなんだ。それを伝えたい相手に、そのことを徹底して考えてもらえる空間をも届けなければならない。それが『柔らかさ』の秘密なのである」。

◇次は24日付、美の季想。高階秀爾先生による「日本美術の傑作 根底に『鑑賞の美学』」。

西洋の傑作は、芸術家の優れた才能によって生み出されるマスターピース、「創造の美学」であるのに対し、日本では「名」が関わってくる、というお話。

「名所」とは、多くの人が訪れ、歌に詠み、絵に描くなどした場所。「その先人たちの記憶の遺産が『名所』を『名所』たらしめるのである」

「広重晩年の名作『名所江戸百景』では、自然景に加えて、七夕祭りや両国の花火などの年中行事が大きな役割を果たしている。年中行事もまた、繰り返されることで人々を過去の記憶と結びつけ、また参加をうながす。日本人の美意識の根底には、西欧の『創造の美学』に対して、『鑑賞の美学』ないしは『参加の美学』とも呼ぶべきものが根強く横たわっているのである」

……深く納得。語られ、描かれ、繰り返されること。それによって、「名」がつく。

◇最後は、26日夕刊のHeroes File Vol. 57。俳優の柄本時生による「父のマネも演じる僕のもの」。

「街で『かっこよかったですよ』と声をかけられたらめちゃくちゃうれしいですが、『かっこよく映りたい』と思いながら演じていたら、それはすごく恥ずかしいこと。でも、気づくとお金がほしい、こんなふうに見られたいという欲が、年齢と主に以前よりも強くなっている自分がいて」

「欲を出したら途端に自分の浅さを見破られる」

……無心で、邪心なく、人前に立つこと。そのむずかしさ、とてもよくわかる。自分以外のものを演じようとしたり、「よく見られたい」という意識がちらついたりしたら、人はとたんに浅はかに、みっともなく見える。文においても同じなのだ、結局。21歳の若者とはいえ、あの柄本明の背中を見て育った息子。ひときわ説得力をもつ。

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2011年4月27日 (水)

「勇気の伝染」

◇「25ans」6月号発売です。ロイヤル婚特集にて、歴代の英王室のロイヤルウーマン5人分のラブストーリーと総論、「スローニー」ファッション特集にて扉の解説コラムを書いています。合計7本分のエッセイ&コラムですが、心血注いで書いてます。機会がありましたら、ぜひご笑覧ください。

◇朝日新聞27日付朝刊、斎藤美奈子の文芸時評。「原子力村と文学村 勇気を試される表現者」。さすが斎藤氏、他の「村」の人々にも訴えかける、タイムリーな問題提起をしていた。

伊坂幸太郎の「PK」を論じての結び。

「誘惑や脅しに屈しただれかの諦めと妥協と挫折の結果がたとえば戦争であり、原発事故ではなかったのか。先の戦争の後、『文学者の戦争責任』が取りざたされた時期があった。ならば『文学者の原発責任』だって発生しよう。安全神話に加担した責任。スルーした責任」。

続いて、川村湊が『福島原発人災記』を出したその態度を褒めたあとの結び。

「今月の文芸誌にも震災をめぐる作家の言葉が多少は載ったが、高橋源一郎が連載小説の丸々一回分を費やしてこの震災と先の戦争との薄気味悪いほどの類似を語ったのが目についたくらいで、多くはモゴモゴとした『文学的』な内省を語るのみ。文学の人は文学だけを追求してりゃいいんだよ、という態度は、『文学村』の内部の言語である点において、『原子力村』と同質ではないか?」

最後に、「PK」のフレーズを引用し、文学村に向けてハッパをかける。

「『臆病は伝染する。そして、勇気も伝染する』。ほとんど少年漫画のせりふである。でも『つながろう日本』よりはずっといい。(中略)いま必要なのは、『勇気の伝染』なのではないか。文学村から放たれるシュートを待ちたい」。

「文学村」ばかりではなく、ほかのさまざまな「村」からのシュートも待たれている(自戒をこめて)。

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