2010年7月30日 (金)

「それにもかかわらず!」と言い切る自信

29日(木)に、佐藤優氏の講座、「マックス・ヴェーバー『職業としての政治』(岩波文庫)を読む@衆議院第一議員会館」に参加したときの、メモ。公的な記録はあとから書籍にまとまるそうなので、そちらで。ここでは、政治的知識に関しては「ど」素人の、ひょっとしたらどこか誤解もまじっているかもしれない、あくまで個人的に印象に残ったことがらの備忘録。

参加者が順番にテキストを音読しながら、佐藤氏が解説を加えていく。中学校以来の、テキスト音読+先生の解説、という講義形式。新鮮で、あっという間に過ぎた、濃い二時間だった。

佐藤氏の知識の質・量がともかく圧倒的に膨大で、ヴェーバーのテキストもそうだが、佐藤氏のお話も、「当然、知っておくべき教養ないし前提」のレベルがおそろしく高い(というか私のレベルが低すぎるのだろう)。だから正直、お話の内容の半分は十全に理解できていなかったのではないかと思う。でも、わからないなりに、テキストと話の、表層の迫力そのものに引き込まれた。そんなことって、あるのだ。以下、整理できたことのなかから、面白いと感じたこと(の一部)をランダムに。

・二種類の政治家がいる。平和を掲げ、格差や貧困をなくすことを目指す、理想追求型の政治家。鳩山さん、阿部さんが、このタイプ。一方、夢やユートピアを政治に持ち込むのはおかしい、政治家は現実的にやれることだけやるべきで、最小不幸社会の実現を目指す、と考えるタイプ。ゲーテでいえばメフィストフェレス。菅さんはこちらのタイプ。

・負の感情の連帯で、民族はまとまる。「ドイツ国民に告ぐ」のフィヒテ、ナショナリズムの父と呼ばれたフィヒテが、この手法でドイツの民族感情をあおった。悪く扱われた点だけを羅列していって、負の感情をあおり、民族を連帯に導いた。一種の、いんちき。(今でも健在ですね・・・・・・負の感情をあおって、連帯を呼びかけるやり方は)

・世界に悪はあるのかどうか?に関して、考え方は二つある。悪は善の欠如にすぎず、したがって悪は根絶できる、という考え方。一方、悪はそれ自身として自立している、という見方。

・プロレタリアートという言葉に関し、日本では誤解がある。正確には、生産手段をもたず、労働力のみによって生活の糧を得ていくのがプロレタリアート。したがって、高給取りであっても、労働力しかもたないサラリーマンであれば、それはプロレタリア。資本主義の構造にとって、プロレタリアートは「装置として必要」。

・心情倫理と責任倫理がある。心情倫理とは、「正しいことをしている」という純粋な心の中の価値基準にのっとった発想。その倫理に従った結果、どうなろうと、天命を待つばかり。一方の責任倫理とは、行動の結果を予測して、最善の結果をもたらすために今どういう行動をとるべきかを考えること。後者のほうが、成熟した政治家に求められる倫理とも見えるが、ケース・バイ・ケースで、どちらがいいとも悪いとも言い切れないところがある。ただヴェーバーは、こんなふうに書いている―「心情倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく、むしろ両々相俟って『政治への天職』をもちうる真の人間をつくり出すのである」。

・ヴェーバー、最後の締めに力強い名文。「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ不可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。(中略) 人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう。自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場から見て―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても『それにもかかわらず!』と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への『天職』をもつ」。

一週間前に完成したばかりという衆議院議員会館の、議員の部屋も見せていただく。ひとりあたり100平米と広く、セキュリティも万全。ライトアップされた国会議事堂を見下ろす眺望もすばらしい。でも家具は一律、支給品だそうで、秘書の方は「刑務所で使われているものと同じで、ちょっと安っぽい」と不満そうでもあった。税金が使われているので、国民の反感を買わないためには、そのあたりのバランスをとることも大事なんだろう。

くしくも同じ時間、民主党の両院議員総会がおこなわれていた。ヴェーバーの最後の文章を議員の皆様に届けたかった。

ガラス越しなのでちょっとぼんやりした写真だけど、眼下に議事堂。

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2010年5月 7日 (金)

「程よく威圧しながら、好意を見せる」

「クレア」6月号、齋藤薫さんによる小泉進次郎の異常人気の分析が面白かった。最初は「顔だけで充分」だったはずが、いまや「8割の女が『いい!』と言う」ほどまでの人気を獲得。その秘密を美容的見地から分析している。

「目は何だかハンターの目のように鋭いのに、じつはこの人いつも口もとが少し笑っている。いつも心もち口角が上がっている。このバランスがまず見事。相手を程よく威圧しながらも、好意を見せる。硬軟を巧みに使い分けて人に対していくから、すっかり相手はコントロールされてしまう。男の好感度はこうして生まれるのだという見本みたいに。

そして迫力いっぱいに声を張り上げるのに決して熱くならない。怒らない。まったくもって冷静」

なるほど! こんな硬軟のバランスのいいルックス・声の魅力に加えて、血筋のよさ。臨機応変がきく頭の回転の早さや演説のうまさも見せつけるんだものなあ。女たちは、おじいさん世代の新党のゆくえなど眼中にないが、進次郎氏の成長ぶりは楽しみに見守っているようだ。

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2010年3月29日 (月)

仕事は、おいしいあめ玉作り

◇朝日新聞28日付、「仕事力」、押井守さんの4回目「味わってもらう技術がいる」より。

「自分の企画で頭でっかちになっていた僕に、彼(プロデューサー)は、『君の思想とかには何の興味もない。映画というのは口に入れた時においしい味がして、最後まで飽きないことが大切なんだ。その中に思想として薬や毒を隠し入れるのは自由にやればいいさ』と言い切った。中に何を入れてもいいから、観客がおいしいというあめ玉として丸めて見せろ、と。その時にやっと僕はわかったんです。世の中が言う才能とは、ちゃんとあめ玉を形作り、最後まで味わわせる才能なんだと」。

それを鍛えていくには、現場に入って、泣いたり笑ったりしながら経験を積んでいくことしかない、と。

仕事に対するイメージを抱きやすい、いいたとえだな、と思ったので、メモ。

◇川端康成『眠れる美女』を、移動の合間に、オーディオブックで聞いている。満員電車でも、脳内はたちまちゆったりとした別空間になる。前半終了。

強制的に眠らされた裸のうら若い美女の隣で、もう人生の先があまりない老人が一緒に寝て、においをかいだり触ったりしながら、これまでの官能的経験を思い出したり、死を想ったりする、退廃的なヘンタイ話のはずなんだけど、使われる言葉がとても高貴で、まったく下品な印象を与えないどころか、人の心の深淵の真実を赤々と見せて陶然と酔わせてくれる。これも、中味はなんであれ上質な「あめ玉」のひとつでしょうか。

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2010年3月21日 (日)

「畳の目のように物事はすすむ」

◇20日付朝日新聞、磯田道史の「この人、その言葉」。落語の大名人、古今亭志ん生の巻。

「本気で辛抱してりゃ、自分の目には見えなくても、畳の目のように物事はすすんでるんですよ」

辛抱+楽天+ずぶとさ、が必要と磯田先生は説く。

力づけられるとともに、がんばってもがんばっても先が見えないと、そういう気力を維持する体力がなくなってくることを痛感する。「畳の目」は数えないことが、生き抜いていくコツであろうなあ、と気が遠くなる。

◇半年前にボックス買いしておいたDVD「マッドメン」、1巻だけようやく見始める。会う人ごとに見ろ見ろとすすめられていて、いったいどんな面白さなのだ?と期待先行。

60年代の広告業界の話で、登場する人は、男も女もみんな煙草をスパスパ。会議ではウィスキー。女性秘書は「母親とウェイトレス」のような立場で、不倫、セクハラなんでもありの欲望全開、出てくる誰もがどろくさい印象。女優もまったくあかぬけない。60年代の雰囲気をだすための、あえての演出だろう。クリーンでスタイリッシュ、倫理的にも正しい映像を競うような雰囲気のなかにあって、この「異」な感じはたしかに刺激的ではある。実際、人が会議しながら煙草を吸う姿というのを久しぶりに見た気がした(笑)。

それにしてもボックス買いDVDにせよ、大人買いマンガにせよ、「買った!」だけで達成感があって、なかなか手をつけられないものである。「エマ」も大人買いして半年になるのにまだ手をつけられないまま・・・・・・。

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2010年2月 6日 (土)

騙されるのは、楽になる道

朝日新聞6日付、「悩みのるつぼ」、「妻が新興宗教に凝ってます」の質問に対する車屋長吉さんの回答が重い。

「大多数の新興宗教は『金取り』を目的としています。私の母などは、金を差し出すことによって、精神的には少し気が楽になっていたようです。つまり、騙されて楽になっていたのです。この世に人間として生まれて来たことの不幸から、少しでも救われたいと思う人は、文学・芸術・哲学の道に進む以外に道はないのですが、この道に進むことはきわめて困難なことです。まず貧乏に耐え、勉強をする決心が必要です。その決心は大部分の人には出来ません。従って手っ取り早くは、新興宗教以外に道はないのです」

この方の回答はいつも、ガーンと頭をなぐられ、沈黙させられるような破壊力をもっていて、暗く絶望的な気持ちになることのほうが多いのだが、それが不快ではなくずっと心に重りのようにひっかかっている。

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2010年1月 7日 (木)

最高の「アグリ―」

◇活字原稿から惜しくもこぼれおちたネタをメモしておきます。マンハッタンのデザインチーム「アヴロコ」に関するフィナンシャルタイムズの1月2日付け記事。

20年前、カーネギーメロン大学で知り合った4人が、2000年に設立したデザイン会社で、数々のモダンで斬新なレストランの内装で業績をのばし、大きな賞も受賞している。

過去の仕事の一部は「ベスト・アグリー(Best Ugly)」というハーパー・コリンズから出ている大型本でも見られる。彼らの仕事の特徴は、オフビートでひねくれた、ちょっとわかりにくい美しさ。エレガントな表層に、ブッチャーの包丁がかけられていたりとか。洗練のなかに、気持ちをちょっとざらつかせるごつごつした何かがある、というのが彼らのスタイルであるようだ。

「ベスト・アグリ―」というアイディアは、チームで紅一点のクリスティーナ・オニールがアジアに旅行した際、中国の庭園を見てインスピレーションを得て生まれたという。中国の庭園では、1つの醜い植物が、周囲の美しさをより印象深くする働きをしている。

アヴロコの仕事はアメリカのみならず、タイ、香港、シンガポール、インドでも。

アヴロコの仕事をいくつか写真で追ってみて、「今」の感覚がまさしくこれだなあ、と感じたのであった。これでもかという王道美や、スキのない洗練美を「どうだ」とおしつけるのではなく、最先端の洗練のなかに、ちょっと気持ちにひっかかりをつくるような、ひねりのある「醜」なるなにかをとけこませる。そうすることで、奥深い余韻のある美しさが生まれる。これが今の感覚になじむ。

◇NAVI休刊のニュースにしばらく言葉が出なかった。「スーツの神話」のもとになった連載「スタイリッシュ・カリズマ」を掲載してくれたのが、ほかならぬNAVIであった。当時は鈴木正文さん(現ENGINE編集長)が編集長で、ユナイテッド・アローズの栗野宏文さんと3人で鼎談する(撮影用にドリス・ヴァン・ノッテンのスーツを着せられたりした・・・)など、鍛えられることが多かった思い出深い雑誌だった。ありがとう、NAVI。時代がよくなったらぜひ復刊を。

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2009年12月28日 (月)

ポジションを、世界中で、取りに行く

「WWD」vol.1560合併号、FORECAST2010特集に掲載の、ファーストリテイリング会長兼社長の柳井正さんの話。強いインパクトあり。

プライスも国もキワがなくなり平準化したグローバル時代の到来に際して、どのような心構えで行くべきか? 

WWDの「業界は良くなるか?」の質問に対して、柳井氏は答える。

「企業次第だ。業界全体が良くなるから自分のところも良くなるなんてことはない。今だってヒットしているのは既存の需要を食ったのではなく、新しい需要を造ったところだ。新しい需要や付加価値を造れたところは今後も成長し、そうでないところはダメ。ファッション業界の一番悪い癖は後追いばかりということ。他人が作った付加価値とか新規事業をコピーしようとするばかり。服のトレンドと経営とを勘違いしていると思う」。

グローバルで生き残らない限り日本でもダメ、と考える柳井さんは、「マーケティングやコミュニケーション能力がより重要になる?」というWWDの質問に対し、こう言い切る。

「その前に、自社はどういう会社で、過去に何をやってきて現状はどうで、将来どちらの方向を目指すのか、その方向感覚が正確でないといけない。ポジションをとらないとダメだ。お客さまに認知され、『こういう企業でこういうことに期待できる』というポジションを世界中で取りに行く時代だ」。

ほかの仕事においても適用されるべき発想と感じさせるあたりが、やはり一流の経営者であるなあ、と。新しい需要を造る。付加価値を造る。ポジションを明確に発信し、自分から、取りに行く。そのぐらいやる気概と行動力がないと、生き残れない時代が到来しているのを感じる。

ま、とりあえずは正月休みが終わってから気合を入れるということで(とのんびり先延ばししていると永遠に出口のなさそうなドメスティックの閉塞のなかに取り残されるのである・・・ああ・・・)。

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2009年12月19日 (土)

「クリスマス・ファシズム」

19日付朝日新聞「うたの旅人」。山下達郎の「クリスマス・イブ」をめぐる話。

堀井憲一郎さんの『若者殺しの時代』が指摘している点として、

・日本でクリスマスが「恋人たちのもの」と宣言されたのが、1983年。日本で初めてシティーホテルで過ごすイブの夜を提案したのが、83年12月に出た「アンアン」の「クリスマス特集」。

・男性誌がクリスマスのイベント化で騒ぎ始めたのが、88年。同じ年に流れたJR東海のCM第一作が、クリスマス・イブを再定義し、いわば「認可」した。この夜は大切な恋人と過ごしていいのだ、と。

というような話が挙げられていた。

現在、バブル期のクリスマスはこうだった、という話を大学生にしても「えーっ、うそみたい」と笑われる。「おうちで過ごす」のが現代の定番らしい。いずれにせよ、「ひとりだとさびしい」ということにされる「クリスマス・ファシズム」(堀井)はあまり変化していないようだ。

JR東海CMヒットの原因を分析する電通の三浦武彦さんのコメントのなかに、印象深いことばがあった。「横溢するバブル気分は一皮むけば不安で覆われていて、その中心にぽっかりあいた穴があった。多くの人の気持ちはバブルと逆で、むしろむなしさや寂しさに近かった」。

景況にかかわらず、この時期になるとむなしさや寂しさをより強く感じる人というのが、実は大多数なのかもしれないなあ、と達郎の歌を聴きながら思う。

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2009年12月17日 (木)

「40年続けること」

◇17日付け朝日新聞、由美かおるさんのインタビュー記事「若さは鍛錬の積み重ね」。

「気持ちのしわは努力と工夫で減らせる」というその秘訣。

「『相手のミスを責めない』『見返りを求めない』『遅刻しない』『新しいことに挑戦する』『思いたったらスタートを切る』などを次々とあげた。どれも平凡な内容だと思っていると、最後に『それらを40年続けること』と付け加えた」。

続けた成果のあまりのうるわしさに、しみじみ見入る。

◇同17日付け、「創設40年 コムデギャルソン川久保玲に聞く」。

ハッとするような企画を次々と打ち出していることを聞かれて。

「何かいつも、新しいこと、強いものを思っていて、それを続けていないと次が生まれてこないのです。自分が活動的に何か新しいものを生み出せば、それについて何かを感じたり、元気が出たりする方もいらっしゃるでしょうし、それがこの世の中を変えていくことに少しでもつながるならと思うからです」。

才能あってもつぶれていくデザイナーも少なくないファッション業界の前衛を、40年続ける。偉大、ということばでは到底たりない。

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2009年12月13日 (日)

「読み書きそろばん、ボケ、ツッコミ」

朝日新聞13日付「仕事力」、木村政雄さんの第3回「非常識から花が咲く」。

「現代の日本はツッコミばかりがまかり通り、当たり前のことや建前がきまじめに語られすぎていると思います。クレームを恐れて当たり障りのない意見が並び、メディアにも柔軟性がありません。だから窮屈だし、誰もが閉塞感を抱き元気がなくなっているのではないでしょうか。本音を言ってみる、笑われるかも知れない提案をしてみる。そこから空気の流れが変わり、思わぬ花が咲くこともあると思います」

ボケの非常識な視点をぶつけ、それを取り入れていくことで、スタンスを軽やかに変えながらやっていくことが、結局、仕事人としても長く愛されることにつながる、という指摘。

うまくボケるのって、頭がほんとによくないと難しいんですよね。「読み書きそろばん、ボケ、ツッコミを必須課目に(笑)」という指摘、半ば本気で共感してしまう(その生真面目さがいかん、とおっしゃっているのだが)。

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