◇斎藤美奈子のタンカにしびれる。朝日新聞29日付「文芸時評」、「完結しない世界がある」。
「文学者の原発責任」について書いた斎藤氏のコラムを、ある執筆者(相馬悠々)が<ナイーブな発言である>と批判したことへの、反論。
相手の批判を要約して、次のように紹介。
「責められるべきは国と東電で国民は被害者だ、とする意見は<戦争責任を軍国主義者に押し付け、国民はだまされた被害者という戦後の図式と酷似している>という。原発が危険だという情報は溢れていたのに<多くの人は楽観視し、スルーしたのだ。そのことを自らの問題として考えないのは誠実ではない>と。」
それに対し、「いかにナイーブな斎藤でも自分に責任がないとは思ってないよ」とお断りしたあとに、さすがの貫録で斬り返す。
「ただ『自らの責任を問うことこそ誠実』とする相馬悠々の意見は『敗戦の責任は国民に等しくある』とした敗戦直後の『一億総懺悔』を思い出させる。それも<いつか来た道>じゃないのか。『責任』は自分にも問うけど外にも問わなければならない。そこを曖昧にしたら私たちはまた同じ轍を踏むことになる。だからみんな、それぞれの場所で格闘しているんでしょうが」。
きっちり批判を受けとめて、堂々と斬り返す。かっこい~。
でもその後に紹介される作品のなかには、読んでみて「ハズレ」と感じるものが多いのだ……。純粋に、文学的な嗜好の問題だとは思うのだが。
◇高橋源一郎も、やはり濃密な情報量と鋭い考察で、はずさない。朝日新聞30日付「論壇時評」の「原発と社会構造 真実見つめ上を向こう」
労働組合運動がなくなったことで、労働者が企業内で統合されてしまい、それが新しい格差を生んで原発事故の原因ともなったという木下武男の指摘の紹介には、衝撃を受ける。
「『労使癒着』によって『チェック機能の完全喪失』が生じたのである」
「『労働者』は『カイシャイン』になったのである。この『企業主義的統合』は、やがて新しい『格差』を産む。正社員は中間層として、下請け労働者を管理する存在となる。木下は、東電のある社員の『ラドウェイ作業(廃棄物処理)は、被ばく量が多いので請負化してほしい』ということばに、『企業内統合』の行き着く先を見ている」
それを受けての今野晴貴の「現代労働問題の縮図としての原発」という論の紹介。
「(もっとも危険な作業をする)下請け作業員は『農村や都市スラムから動員される』のだ。そして、彼らの姿は、『電力の消費地帯としての東京』からは見えないのである」
さらに、開沼博のフクシマ論を紹介することで、議論を<中央とムラ>の問題にまで、おし進める。
「確かに原発は一時の繁栄を『ムラ』に与えた。だが、結局は、『ムラ』を『原発依存症』にしただけではなかったか。気づいた時には、もう他の選択肢はなかった。ぼくたちに、そんな『原子力ムラ』のほんとうの姿は見えなかったのだ」。
最後の表現に、不謹慎だったら申し訳ないが、アヘンを中国に与えたイギリスの図、というのを連想してしまった。「気づいた時には、もう他の選択肢はなかった」―原発依存症は、アヘン依存症と似ているところがあるのだろうか。
ネット上の話題だったという宮崎駿の「菅首相へのメッセージ」、小熊栄二の原発デモでの挨拶、矢作俊彦の「鼻をつまんで菅を支持する」もそれぞれ見てみたが、各自の日ごろの立ち位置からの骨太なメッセージで、強い説得力をもって迫ってくる。とりわけ、矢作俊彦のツイッターには、多くのことに気付かされた。
http://togetter.com/li/153442
これだけのたっぷりな情報を整理し、それを読者にわかりやすく道案内するのはたいへんな作業だと思う。高橋氏に感謝。
にしても、「ネット上で話題になったこと」とされる話題が、いつも知らなかったことばっかりだ(苦笑)。