2012年1月19日 (木)

人を幸せにするのは「もっともっと」という成長感覚

朝日のオピニオン欄、興味をそそられる人の登場が続く。18日付、経済学者ダニエル・コーエンのインタビュー、「経済成長という麻薬」。

人はどんなときに「幸せ」「快感」を感じるのか、という問題について、ユニークな一つの見解を示してもらったことが収穫だった。

「快感は成長が加速する時に得られるだけだ。(中略)人を幸せな気分にするのは成長であって、豊かさそのものではない。到達点がどこかは重要ではない。重要なのは、『もっと、もっと』という感覚だ」

「だから、大きな幸福感を得るときというのは、大変残念ながら日本も経験したように、すべてを破壊する戦争などのあとだ。とても大きな苦しみの後、30年にわたって幸せを感じることができる」

中国に活気があるのも、同じ理由から、と。

経済成長という、中毒症状を起こす麻薬のようなものから抜け出すには?

「自分たちの欲望を操っている法則を理解し、行動しなければならない。ただ残念ながら、人間がそうした法則を理解するのはいつも時代が次に移ってからだ」

経済成長が無理なら、代替を探さねばならないわけだが。

「たとえば知識の成長だったり、医療の成長だったり……。いずれにしても物質的ではない成長だ」

経済成長そのものが麻薬的な快楽であって、それがムリとわかっていても求めてしまうのは禁断症状。…ってなかなか過激な見方。これに代わる「もっともっと」という成長を、国家レベルでも個人レベルでも探さなくてはいけない時代にきているようだ。

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2012年1月18日 (水)

「ぬるい。」

朝日新聞のオピニオン欄、刺激的なインタビューが続いている。17日付の村上隆、「世界でトップをとる」も強烈だった。

「『クール・ジャパンなんて外国では誰も言っていません。うそ、流言です。日本人が自尊心を満たすために勝手にでっちあげているだけで、広告会社の公的資金の受け皿としてのキャッチコピーに過ぎない」

ファッションも含むコンテンツ産業の奨励に対しても厳しい。

「広告会社など一部の人間の金儲けになるだけ。アーティストには還元されませんし、税金の無駄遣いです。(中略)クリエーターの報酬もきわめて低いうえ、作業を海外に下請けに出すから、人材も育たない。地盤沈下まっただ中です」

必要なのは、著作権の整備である、という力説。

「映像化権などさまざまな権利も海外に取得されてしまい、日本側の収益につながらない。そんな状態でクールジャパンなどと浮かれていていいのか。もっとアーティストに利益が還元されるように、著作権をはじめとする法制度の整備が急務です。それなのに、日本政府はビジネスの現状も知らず、国際的な著作権の動向に関してはアメリカに主導権をとられてしまい、右往左往して何も有効な手が打てない」

ジャーナリズムにも問題アリ、と。

「ジャーナリズムは印象批評に偏っており、マーケットを蔑視している」

教育にはもっと問題アリ。

「美術大学は無根拠な自由ばかりを尊重して、学生に何らの方向性も示さない。芸術には鍛錬や修業が必要なのに、その指導もできない。(中略)あいさつさえまともにできず、独りよがりの稚拙な作品しかつくれない学生ばかりが世に送り出される。先鋭的なものは何も生まれてこない。だから、世界に出ていって通用する芸術家が日本にはほとんどいないんです」

日本がトップをとれない理由は。

「国内でそこそこ楽してやっていけるから、安心しちゃってる。地方自治体が街おこしにアートを利用するから、アーティストが結構楽にやっていけるので、海外に目が向かないし、無根拠にもの作りを推奨しすぎる。ぬるい」

ずばずばと真実をつく物言いに、圧倒されたり快哉を叫んだりしている場合ではないのだが。がつんと叱られた気分。マーケットは蔑視しているつもりはなくても、それをビジネスの観点から分析・研究して戦略を立てるという点が、自分の立場には、決定的に欠けていることをあらためて認識する。

エネルギッシュな言葉の数々、重たく受け止めた。

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2011年9月14日 (水)

「フェイスブックは、高齢者にこそふさわしい」

<FB研究その1> ここ半年ほど、フェイスブックから大きな影響を受けている。それで、この変化はいったいどういう性質のものなのかと思って、関連記事をチェックしつつ、自分の実感とも比べ合わせながらつらつらと考えていたのだが。その途中経過。とくに気になった記事を、おいおいメモしていきたい。.古い(といってもせいぜい2か月ほど前なのだが。今はスピードが速い)記事はリンクを張りづらいのでタイトルと記者名にとどめる。

◇英「インデペンデント」8月1日付。Science of the social network.  by Nick Harding.

sign01フェイスブックは若者のツール、というイメージがあるが、実は高齢者にふさわしいテクノロジー。いろんな理由で実際に友人や知人に会いづらくなった高齢者にとって、希望がある。

これはUnivesity College of London の人類学の教授、Daniel Millerの説。ミラー教授は人類学的な視点からフェイスブック研究をなさっている方。そのミラー説からさらに。

sign01フェイスブックはヴァーチャルな空間なので、現実の人間関係が空疎になるのではというイメージがあるが、調査によると、フェイスブックはむしろ現実の人間関係をより強化することに貢献している。

sign01フェイスブックは「家庭を壊す」イメージがある。実際、小中学校、高校時代に憧れだった人、なんぞに簡単に連絡をとれてしまうし。しかし調査によれば、むしろ、フェイスブックは「アフェア」を減らすことに貢献している。ユーザーが、アフェアをさらされたりすることに対してより用心深くなっているから。

sign01フェイスブックはパブリックとプライベートの関係を変容させたばかりでなく、ここ半世紀ほどの間に急速に失われていっていた「コミュニティ」の概念をアップデートした。

sign01フェイスブックは、「弔い」の形式を変えている。FB以前は、人を弔うことはフォーマルな宗教的な儀式においておこなわれていたが、いまはインフォーマルなプラットフォームで、慣習にしばられずに個人個人が弔いの意を表することができるようになっている。

FB上での弔いというのをまだ見たことはないが、他の国ではそこまで進んでいるのか…。

たしかに、パブリックとプライベートという概念は、FBの以前と以後ではまったく変容している。前にも書いたかもしれないが、私の実感としては、パブリックにしてよいプライベート、という意味で、その両方であるような「第三の空間」。

現実の人間関係が強化される、という点は、まさしく実感しているところ。仕事上で、「表面的な」顔しか見せなかった人の、意外な「第三の顔」がわかることで、コミュニケーションが格段とスムーズになり、仕事の上によい影響が及んでいることを実感する。ただ、現実でもどこでもそうだと思うが、「なにもせず、ただ籍をおいている」だけでは、何の変化も起こらない。何らかの発信をすれば予期せぬ収穫が得られることもある。

FB研究の途中経過、次回に続く。

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2011年8月24日 (水)

「心のガラクタは、捨ててはいけません」

「再読してみてやっぱり重要」メモ、もう一つ追加。朝日8月3日付、オピニオン欄、「『断捨離』『すっきり』はリスクが高い」の森永卓郎さんの話。ブームにさえなっている断捨離や片づけに対する、B級コレクターからの異議。

「物を捨てて何かが生まれる、ということはありません。無から有は生まれないですから。新しいアイディアも感性も、異質なものが融合したときに生まれています。学問だって過去の論文の蓄積の上に新しい論文ができます」

「心のガラクタは必要なんです。捨ててはいけません。だって、すべての発想や豊かさの源ですから。新しい物や考えというのは無駄の中からしか生まれないんですよ。それを不要だと捨ててしまうのは、自分で自分の可能性を捨てているのと同じです」

なぜ人は物を減らすことにひかれるのか、という質問に対し、森永氏の答え。「デフレの産物ですね。本来は豊かになればもっと大きな家に住めばいいわけだが、デフレのためにできない。だから物を捨て、狭い家を効率的に使う、おしゃれな暮らしを求める。物を買わないからさらにデフレが進む。経済全体では縮小均衡とリスク増大をもたらしているわけです。それと、こんなことを言うと怒られるかもしれませんが、私は陰謀だと思っています。国民を都合のいい労働力として飼いならすための」

陰謀、についてのより詳しい説明。「都会に住み、通勤時間が短くて、物を持たなくて、趣味もあまりないという人が、企業から見たら使いやすい労働力なんですよ。通勤コストは少ないし、疲れないし、無駄を切り詰めて最小限の物しか持たないから、ライフスタイルが規格化というか同じようになって、ブームが起きやすい。企業にとってはおいしい国民なんですね。ライススタイルが多様化すると、すごくコストがかかるんです。みんなが同じような衣類を求め、同じスイーツを喜び、同じ食事をしてくれるのが、一番効率がいいんですね」

ここしばらくの断捨離ブームのうさんくささを、自己啓発ブームの延長のように見ていたので、この喝破はかなり痛快だった。

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専門家の誠実さ & 文明批評が成り立たない時代

切り抜きの山の中から、再読して「やっぱり重要」と思った記事2つのメモ。大部分は、そのときには盛り上がっても、2~3週間後に読むと「流してもいいかもしれない話」になっている。だからこそ逆に、後者のほうがあとから貴重度が増してくるかもしれないので、やはりその都度、何かあとで参照できるようにしといたほうがよいのだとは思うが。時間と体力・気力とのせめぎあい。

◇朝日新聞7月31日付、ザ・コラム 「災害と専門家 『敗北』にたちすくまずに」 by 山中季広

イタリアの地震において、地震学者の権威が、直前に安全宣言を出したことで過失致死罪に問われたことをめぐるコラム。

訴えられたのは、国立地球物理学火山学研究所長エンゾ・ボスキ氏ほか。

経緯は、こう。ラクイラで群発地震が半年ほど続き、在野の研究家が、地下水の観測をもとに「大地震が来る」と断言。市民の不安をしずめ、観光客を遠のかせないため、政府は安全宣言のお墨付きをほしがり、学者7人を現地に招いて討議させる。何人かが「安心してよい」と宣言した。

その6日後に、本震が起き、住民309人が犠牲となる。学者7人全員が起訴された。

告発は、正しく予知できなかったという理由によるものではない。予兆か、たんなる群発か、見極められないなら、そのようにありのままに語ることこそが誠実な態度であるはずなのに、あまりにもその誠実さを欠いていた、というのが理由。

関東大震災の時にも、同じような論争があったことが、コラムでは記される。「大災害には至りません」と告げるのが役どころだった地震学者の権威、大森房吉という人がいたそうである。群発地震に市民がおびえても、「大地震は来ない」を繰り返し、翌年、関東を巨大地震が襲った。大森は、責任を感じ、病気を悪化させて2か月後に亡くなる。

山中さんの締め。「共通するのは、市民が不安を訴えたこと、専門家は安全だと言ったこと、そして専門家の判断が間違っていたことだ。専門家の敗北としては、あえなく崩れた原発の安全神話も同じだろう。

思うに、これまで何世紀もの間、専門家の仕事は『解明できたこと』を語ることに尽きた。しかし東日本大震災を境に、期待される仕事は一変した。いま人々が渇望しているのは、専門知識をもってしても解明できないことを率直に語る誠実さだろう」

◇もう一つは、過去からの予言シリーズ、第1回。筒井康隆の小説『霊長類、南へ』(1969年)をめぐる筒井へのインタビュー。朝日8月22日付。

70年代には滅亡論がさかんだったけど、その後、文明批評色の強いSFは潮が引き、「文明が滅んだ後の暴力と荒廃の世界だとか、剣と魔法のヒロイックファンタジーだとかになっていく」。

なぜ、文明批評は消えたのかという問いに対し、筒井の答え。「設定やアイディアは書き尽くしたし、冷戦構造が壊れて批評の足場がなくなったし、若い人が本を読まず、大状況を書いたり読んだりする能力を失った。誰もが原発からエネルギーを享受し、グローバル資本主義に浸って生きています。そうしなければ生きていけない時代に文明批評を書いたってしかたがない」

今後、革命的な転回が起こる可能性は、との問いに、筒井の答え。「ないでしょうね。マルクスが予言したように、資本主義は世界を支配したとたんに自壊を始めて、すでに破綻していますし、フクシマの事故があっても原発は地球からなくせない。このふたつは車の両輪ですからね。こんな巨大な自走するシステムは、動き始めると止められないんです。人類の叡智を駆使しても、せいぜいあと数百年でしょう」

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2011年6月30日 (木)

原発事故があぶりだす、労働問題とムラ問題と政界

◇斎藤美奈子のタンカにしびれる。朝日新聞29日付「文芸時評」、「完結しない世界がある」。

「文学者の原発責任」について書いた斎藤氏のコラムを、ある執筆者(相馬悠々)が<ナイーブな発言である>と批判したことへの、反論。

相手の批判を要約して、次のように紹介。

「責められるべきは国と東電で国民は被害者だ、とする意見は<戦争責任を軍国主義者に押し付け、国民はだまされた被害者という戦後の図式と酷似している>という。原発が危険だという情報は溢れていたのに<多くの人は楽観視し、スルーしたのだ。そのことを自らの問題として考えないのは誠実ではない>と。」

それに対し、「いかにナイーブな斎藤でも自分に責任がないとは思ってないよ」とお断りしたあとに、さすがの貫録で斬り返す。

「ただ『自らの責任を問うことこそ誠実』とする相馬悠々の意見は『敗戦の責任は国民に等しくある』とした敗戦直後の『一億総懺悔』を思い出させる。それも<いつか来た道>じゃないのか。『責任』は自分にも問うけど外にも問わなければならない。そこを曖昧にしたら私たちはまた同じ轍を踏むことになる。だからみんな、それぞれの場所で格闘しているんでしょうが」。

きっちり批判を受けとめて、堂々と斬り返す。かっこい~。

でもその後に紹介される作品のなかには、読んでみて「ハズレ」と感じるものが多いのだ……。純粋に、文学的な嗜好の問題だとは思うのだが。

◇高橋源一郎も、やはり濃密な情報量と鋭い考察で、はずさない。朝日新聞30日付「論壇時評」の「原発と社会構造 真実見つめ上を向こう」

労働組合運動がなくなったことで、労働者が企業内で統合されてしまい、それが新しい格差を生んで原発事故の原因ともなったという木下武男の指摘の紹介には、衝撃を受ける。

「『労使癒着』によって『チェック機能の完全喪失』が生じたのである」

「『労働者』は『カイシャイン』になったのである。この『企業主義的統合』は、やがて新しい『格差』を産む。正社員は中間層として、下請け労働者を管理する存在となる。木下は、東電のある社員の『ラドウェイ作業(廃棄物処理)は、被ばく量が多いので請負化してほしい』ということばに、『企業内統合』の行き着く先を見ている」

それを受けての今野晴貴の「現代労働問題の縮図としての原発」という論の紹介。

「(もっとも危険な作業をする)下請け作業員は『農村や都市スラムから動員される』のだ。そして、彼らの姿は、『電力の消費地帯としての東京』からは見えないのである」

さらに、開沼博のフクシマ論を紹介することで、議論を<中央とムラ>の問題にまで、おし進める。

「確かに原発は一時の繁栄を『ムラ』に与えた。だが、結局は、『ムラ』を『原発依存症』にしただけではなかったか。気づいた時には、もう他の選択肢はなかった。ぼくたちに、そんな『原子力ムラ』のほんとうの姿は見えなかったのだ」。

最後の表現に、不謹慎だったら申し訳ないが、アヘンを中国に与えたイギリスの図、というのを連想してしまった。「気づいた時には、もう他の選択肢はなかった」―原発依存症は、アヘン依存症と似ているところがあるのだろうか。

ネット上の話題だったという宮崎駿の「菅首相へのメッセージ」、小熊栄二の原発デモでの挨拶、矢作俊彦の「鼻をつまんで菅を支持する」もそれぞれ見てみたが、各自の日ごろの立ち位置からの骨太なメッセージで、強い説得力をもって迫ってくる。とりわけ、矢作俊彦のツイッターには、多くのことに気付かされた。

http://togetter.com/li/153442

これだけのたっぷりな情報を整理し、それを読者にわかりやすく道案内するのはたいへんな作業だと思う。高橋氏に感謝。

にしても、「ネット上で話題になったこと」とされる話題が、いつも知らなかったことばっかりだ(苦笑)。

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2011年4月30日 (土)

学者生命をかけた訴え

内閣官房参与の小佐古敏荘・東大大学院教授が、政府の原発対応に抗議して、29日、辞任した。会見の全文を、以下のNHK科学文化部のブログで読む。

http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/200/80519.html

政府の原発外交が健全に機能していないこと。政府の対応が「もぐらたたき」のような場当たり的なもので、国際基準にも法にものっとってはいないこと。隠し事ばかりであることを強く批判。

とりわけ、小学校などの校庭利用における、放射線の年間被ばく量20ミリシーベルトという屋外活動制限基準を「とんでもなく高い数値であり、容認すれば学者生命は終わり。自分の子供をそんな目にあわせるのは絶対いやだ」と、涙ながらに訴える。

一専門家が、学者生命をかけて、ヒューマニズムをかけて、国民に訴えている。これを重く、うけとめるべきではないか。

なのにこの期に及んでまだ首相は「場当たり対応ではない」とか、文部科学省の高木義明が「国際放射線防護委員会の勧告を踏まえた。この方針で心配ない」とか、しゃあしゃあと言っている。子供の安全よりも経済優先なのか。想定外に備えて、危険をより少なくする方針をとるにこしたことはない、という教訓を、なんにも学んでないのか。福島の子供たちは、日本国民の、私たちの子供だ。心の底から怒りと悲しみを感じる。

さらに、政府が、仮設住宅を中国や韓国などから輸入することを決定した、という報道もあったが、

http://www.asahi.com/business/update/0425/TKY201104250420.html

これ、素人考えかもしれないが、国内の建設業者に発注して国の経済を発展させるチャンスをみすみす失っていることになるんじゃないか? 雇用のチャンスも失ってるんじないか? 復興のための資金が、海外に流れていいのか? 2階建てコンテナ仮設をスピーディーに作る。日本の優秀な建築業者ならいくらでもすぐに学んで、さくさくとやってくれるだろうに。 

こういう不可解な方針の連続で国民を不安と疑惑の渦に陥れているようにしか見えないトップがいるかぎり、希望がまったく見えてこない。私は決して政治的な人間ではないが、あまりにも目に余る現状に、「革命」起こせないもんだろうか、と真剣に考えてしまう。

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2011年2月 1日 (火)

パキスタン初のファッションウィーク

2011年の「ファッション事件」として記録されるべきイベント。パキスタンのイスラマバードで、はじめての4日間にわたるファッションショウが開催された。英「ガーディアン」1月24日付に関係者取材のリポートあり。印象に残った抜粋をメモ。

主催者側のひとり、カムラン・サニのことば。「イスラマバード・ファッション・ウィークは、人々のパキスタンに対する見方を変えるでしょう。モダンで、世俗的で、進歩的な明るい側面が、パキスタンにはあります。人々はタリバンや、爆撃や、貧困や、洪水のことばかり話題にしたがりますが。でもパキスタンは元気で勢いがあり、今こうして、ファッション産業がグローバルに発信する時が訪れたのです。西洋のみなさんは驚く必要はありません。グローバルカルチュアはパキスタンに十分に浸透しており、ファッションデザイナーもすばらしい力をもっています」

いくつかの写真を見ると、メイクもスタイリングもまだどこか野暮ったくて、装飾過剰な印象もぬぐえない。でも、貧困や宗教的な問題ばかりが報じられていたパキスタンで、ファッションウィークが無事に開催されるというニュース、勢いがあるデザイナーもモデルもジャーナリストもこんなにもたくさんいるというニュースは、パキスタンの変化の兆しを世界に向かって伝えるだけの力がある。たとえそれがごく一部の富裕層の誕生の結果でしかないものだとしても。

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2009年9月17日 (木)

ヴェストが姿を消していた理由

◇昨日の「スリーピース復活」の話題を、従業員から社長さんまで三つ揃いで決めている高橋洋服店@銀座のタカハシ社長に、他の用事ついでにお知らせしたところ。

「第二次大戦中、節約のために既製服の三ツ揃が禁止になって、
そのまま背広が上下になってしまっただけという経緯があります。
背広は本来、上中下の物なので、
スーツにチョッキが付いてるのは当然と言えば当然なんです」

というお話を教えていただいた。「節約のための三つ揃い禁止」! そういうことがあったとは。

◇薬物で逮捕・保釈された女優の謝罪会見。薬物に手を出したという行為については、法で裁きを受けることになるだろうから、何も言うことはないし、その心の弱さや社会的無責任を糾弾したりする資格も私にはない。彼女に対するスタンスとしてはファンでもアンチでもなく、逮捕されて初めて顔と名前が一致したほどだった。

そういうわけで、とりわけ強い思い入れも偏見もなく、行為の善悪を問題にするつもりもまったくなく、ただ、謝罪会見中、ずっとアップで映し出されていた顔を淡々と眺めていたのである。するとちょっとした発見があった。

「大粒の涙」の美しい落とし方である。

あれだけの量の涙をぼろぼろ流せば、ふつう、ファンデは落ちるわアイメイクはにじむわで、顔は汚くなるものなのだが、彼女はその点を難なくクリアしていた。ウォータープルーフのマスカラを上下にたっぷり、は当然としても、ポイントは、下まつ毛である。うるうるうると涙があふれてきたと思ったら、涙の粒は、長い下まつ毛を通って、ぽたっと丸い「滴」となって、顔にふれることなく、下に落ちたのである。下まつ毛の長さが足りなければ、こうはいかない。

顔を伏せる角度も絶妙であった。正面から見れば、長く濃い上まつ毛が影をおとし、その影から、涙の粒が、はらり、はらりと落ちる。横から見れば、下まつ毛のカーブを通って、涙滴が落ちて行く。顔を汚すことなく。それこそ「マンガのように」涙の粒がきれいに落ちていた。

それが左右各5,6滴ぐらい。あとは顔をあげて話しながら涙を流していたので、ふつうに顔の上に「流れて」いったが、そのときはすでに目元やファンデの崩れよりもむしろ、つやつやのリップグロスを施された口元のほうに目を奪われている。

計算ずくのことなのかどうかは私の目にはわからない。何も意識しなくても、人を魅了するふるまいが自然にできる天性の女優なのかもしれない。結果的に、美しい涙の落とし方というものを具体的に見せてもらった一場面になった。

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2009年9月15日 (火)

王室とビジネス

◇英国のチャールズ皇太子が、自身のオーガニックブランド「ダッチイ・オリジナルズ」を、スーパーマーケットの「ウェイトローズ」で独占的に販売する契約をした、というニュース。

今後、ダッチィーズのブランド名は「ダッチイ・オリジナルズ・フロム・ウェイトローズ」という風に変わるそう。チャールズ皇太子としては、収益を自身のチャリティ基金のほうへ、より安定した形で回したいという思いがあったようだが。母のエリザベス女王ならけっしてロイヤルブランドを収益目的で使うようなことはしなかっただろう、という批判的な意見もちらほら。今後どういう展開になるのか、見守っていきたい。

◇パトリック・スウェイジの訃報にショックを受ける。日本では「『ゴースト』の相手役俳優」というような位置づけで伝えるメディアが多かったが、アメリカとイギリスの新聞の多くは「ダーティーダンシング」のスターとして報じていた。いずれにせよ、作品名を挙げただけで世界中の多くの人がその顔を思い浮かべることができる出演作品が少なくともひとつある、ということは俳優として幸せなことのようにも見える。でも57歳というのは、あまりにも若すぎる・・・・・・。ご冥福を祈ります。

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