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2011年5月

2011年5月27日 (金)

「オタクの逆襲」シャツ

◇「ソーシャルネットワーク」DVDで。フェイスブックの始まりから、それが社会現象になるほど巨大化していくまでを、マーク・ザッカーバーグの人物像を中心に描く。デイヴィッド・フィンチャー監督。早口で放たれる大量のセリフ。早い展開。で、IT世界の話。

フィクションとはいえ、ザッカーバーグが酷薄でコミュニケーション能力を欠いたオタクな天才として描かれる。フェイスブックのそもそもの始まりが、自分を振ったGF(振られるのも当然というふるまいをすればなあ)に対する腹いせまじりの学内の女の子たちの品定めだった、というのが衝撃だったし、そのシステムも学内のボート部の学生がやっていたもののパクリだったというのが複雑。

フェイスブックが巨大化して金がからんでくる過程では、親友さえも裏切る。どっちかというと、「マークは、情に薄くて、人間的に欠陥をかかえたやつ」という印象が強く残る。

そんなこんなの二重の訴訟も、すべて金で解決したというあたり、さらにショック。

とはいえ、このサイトはすでにザッカーバーグうんぬんを離れて、中東で革命を起こすほどの化け物になっている。現実とフィクションと、ネット上のSNS(これは「現実」なのか、それとも「なんちゃって現実」なのか)が不可分になって、そらおそろしい新たな世界を生んでいる……という思いがうっすらブキミに残る。

◇オタクつながりで、かつてオタクっぽかった半袖タックインシャツが復活しているという記事。「ウォールストリートジャーナル」5月19日付。記者は、レイ・A・スミス。

1960年代のNASAのエンジニアのユニフォームで、「リヴェンジ・オブ・ザ・ナード」(オタクの逆襲)のオタクが着ていたような半袖シャツ。レトロおたくから、春夏シックへと変貌とのこと。以下、かなりおおざっぱな概要。

アップデートされた半袖シャツは、ドルチェ&ガッバーナのD&Gライン、ジル・サンダー、マイケル・コース、Jクルーなどから。

特徴は、最近のプレッピールックとかアウトドアカジュアルで着られていた半袖シャツとはまったく対照的なものであること。NASAのエンジニアがオフィスでタイをつけ、タックインして着ていた半袖シャツの、現代版であること。スリムフィットで、袖は細め、ややボディコンシャス。

半袖シャツがもっとも着られていたのは、50年代と60年代。第二次大戦後、軍需工場などで働いていた労働者が、機械に袖を巻き込まれると危険なので半袖を着ていた。それが外でも着られるようになっていった。戦後は、マドラスの半袖シャツをあざやかな色のトラウザーズにタックインして着るのが、カントリークラブ・ルックとして流行。

半袖シャツの復活には「マッドメン」の影響もある、と。60年代にはドレスシャツとしてプレスされたきちんと感あるシャツが着られていた。ただ、これは70年代の始まりとともに下火になっていた。

現在、春夏のモードなトレンドになっているとはいえ、オフィスにふさわしいものとはまだみなされていない。

以上はアメリカでの話。日本のスーパークールビズではこういう「モードな」半袖シャツも登場するんだろうか。

スライドショウには「半袖シャツ now&then」の写真も12枚。ご笑覧。

http://online.wsj.com/article/SB10001424052748703421204576331413096197244.html

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2011年5月26日 (木)

プロトコルは要求する、「国歌演奏中は…」

オバマ米大統領夫妻が、イギリスを訪れている。「バーベキュー外交」(庭園内でバーベキューのランチ)とか「ピンポン外交」(上着を脱いで卓球)とかすでにフォトジェニックなさまざまな外交パフォーマンスがおこなわれていて、たしかに椅子に座って「会談」しているだけの光景よりも目をひきつけるものであるなあ、と感心。

パフォーマンスもさることながら、今のところいちばん揶揄されているのが、オバマ大統領による、晩餐会での乾杯ミス。女王陛下に乾杯をしようとしてスピーチするが、その最中にオーケストラがイギリス国歌の演奏を始める。オバマ大統領、かまわずスピーチをつづけ、「みなさん、私と一緒に乾杯を」というが、会場はシーン。となりの女王様も、無視。痛い、大統領…。

それもそのはず、プロトコルにおいては、「国歌が演奏されている最中は、立ってそこに注意を向けること」という決まりがあって、そもそも'God Save the Queen'が演奏され始めた時点で大統領はスピーチをいったん中止しなくてはいけなかった。スピーチの途中で勘違いして演奏をはじめたオーケストラもまずかったのかもしれないが。でも'To Her Majety, the Queen'と言われればそれを合図として演奏を始めるのはオーケストラの仕事だ。そのセリフを先に言った後に延々とスピーチを始めた大統領も大統領であった。以下「テレグラフ」に動画と解説あり。

http://www.telegraph.co.uk/news/worldnews/barackobama/8534947/Barack-Obama-suffers-royal-toast-mishap-at-Queens-banquet.html

ま、過ぎたことは過ぎたこと。単なる社交上のちょっとしたミスとして、オバマ大統領も笑い飛ばしているというし。

でも服装以外のプロトコルを脳裏に叩き込むためのいいきっかけになった。「国歌が演奏されたり斉唱されたりしている間は、ほかのことをせず、立ち上がって注意をそこに向けること」!

大統領のおかげ。Thank you.

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2011年5月24日 (火)

人の能動性を引き出す技術開発やデザイン

◇「RED」をDVDで。ブルース・ウィリス、ジョン・マルコビッチ、ヘレン・ミレン、モーガン・フリーマンがRetired Extremely Dangerous(引退した超危険な)スパイとして、自分たちを消そうとしている現役CIA相手にたたかう。俳優たちがそれぞれ自分のパロディを余裕で演じているような楽しさが見もののアクションコメディ。フラワーアレンジメントなんぞしているあの「クイーン」が突如バズーカを放つ。「観客がその人のキャリアをよく知っている」ことから生まれる笑い。

モーガン・フリーマンを撃ったのは誰だ?と最後までわからなかった。IMDBの掲示板を見てみたらやはりわからなかった人がいたみたいで話題に上っていた。回答の中に「たぶんサラ・ペイリンが関わっている」というのがあって、ゆるく笑う。

とはいえ、難しいお話はぜんぜんなく、そういう細部の疑問をはじめ、ブルース・ウィリスのお相手が若すぎる凡庸な女というのはどうなんだという疑問さえもどうでもよくなる類の、スカッと気が晴れるストレートな面白さ。

◇鷲田清一・石黒浩の対談集『生きるってなんやろか?』(毎日新聞社)。密な対談というよりも、おしゃべりに近いのだが、それだけに読みやすい。でもざっくり作った感が否めず、誤字・脱字が目に余る。校正がかなり雑。

……に目をつぶり、なるほどと思った指摘をメモ。

・鷲田「哲学というものは、実は普通の人の生き方や日常の振る舞いの中にあるものであって、人間の力や知恵というのは、発明ではなく、むしろ発見するもの」

・鷲田「哲学がすべきことは、その人たちの仕事を言葉に翻訳することやないかなと思ったの。服を着ることをの意味を服で考えている人、食べること、あるいは料理することの意味を料理で突き詰めようとしている人、そういう彼らの横で必死に見て考えて翻訳する―ひょっとしたらこれが哲学の仕事かもしれない」

・鷲田(80年代のファッションを論じて)「(60~70年代)当時は政治の季節と言われて、70年代安保とか右翼とか、とにかく政治が騒がれていた。そんな時代に3人(川久保玲、三宅一生、山本耀司)は、表現活動としての服作りを徹底的にやりだした。だからまわりからは、『おまえ、時代がこんな大きな問題に直面しているときに服作りかよ』ってバカにされた。ところが20年経った80年代、今度はファッションの季節だと言われるようになった。今振り返ってわかるのは、彼らの服作りの方が、大がかりな政治運動や思想運動よりも、はるかに時代を表現するメディアになっていったということ」

・鷲田(技術開発には、人を受け身にして、想像力を働かないようにしてしまうところがある、という議論の流れで)「そこで鍵になるのが、弱いもの、できの悪いものの存在。赤ちゃんや介護ロボットは、人を能動的にするんですよ。ハイハイする赤ん坊がころびそうになると、こっちが身を起こして助けにいくでしょう。『私がいないと、この子危なっかしくて』とか言ってね。この、『私がいないと』の<わたし>の存在理由というのは、弱いものを目の前にすると急に出てくるものなんです。だからなんて言うのかな、技術開発やデザインというのは、人のある種の能動性を引きずり出すことを大事に考えないといかんというのが、僕の考え方なんですけどね」

・鷲田(ズーラシアの象が、飼育係に喜んでもらうことがうれしくて絵を描いていた、という話をうけて)「喜びっていうのは、みんな自分が気持ち良くなることだと考えるけど、本当は、人を心地よくさせたり、人を楽しませるから、自分もうれしくなるんですね」

・鷲田(シュウカツのトレーニングに疑問を呈して)「自分が働いてみたいと思う企業になぜ直接、アプローチしないのかな、ということ。商店街や繁華街を歩いていて、ここで働いている人かっこええなあとか、働いてみたいなあ、っていうところを見つけたら、その場で『社長さんいはりますか?僕ここに就職したいんですけど』って直接アプローチするという就職の仕方をなぜまったく考えないのか、僕は不思議で仕方がないの」

・石黒(「スタートレック」のボーグが、全員コンピューターネットワークで密につながっていて、意識は集団で一つしかないというシステムであるという話に続けて)「ひるがえって現代の携帯電話とかコンピューターを考えてみると、これらも情報交換を異様なまでに密にしてしまうので、本来は土地とか空間とか時間で分けてたものを無理矢理つないでしまってますよね。そういうツールにあまりに毒されるというか、依存しすぎると、性行為みたいな原始的なつながり方にはあんまり興味を示さなくなったり、必要としなくなるのかもしれない」

クリスティーナ・ヘンドリックス(「マッドメン」の女優)が、「フェイスブックはセクシーではない」という名言を放っていたが、それに通じる考え方。SNSやTwitterは便利なことも多いが、あまりにもそれに毒されてしまうと、石黒先生が指摘しているような状況になるのかもしれない。これから次第に明らかになっていくとは思うが。

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奥深き扇子の世界

「サライ」連載記事のため、銀座の宮脇賣扇庵へ扇子の取材。本店は京都にあって、天井画まで描かれた美術館みたいな建物らしいが、銀座店は明るくすっきりとした店舗。店長の増渕さんに扇子をめぐるさまざまなお話をうかがう。

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骨木や紙の形と組み合わせで無限のバリエーションがあるばかりか、思ってもみなかったあらゆる用途があることを知る。変わり種も多様。鉄の軍扇(刀を受けられるほど重く強い)とか、講談用の「張扇」(なんちゃって扇みたいな小物)、ありがたいお言葉と定規機能とフックみたいな飛び道具がついた「三得扇」などなど。お殿様があごをのせるための「あごのせ」みたいな小物にも驚く。ひとつひとつ扇子を開いてみては、「おお!」と感嘆。楽しく取材をさせていただいた宮脇賣扇庵のスタッフのみなさま、ありがとうございました。 詳しくは7月発売の本誌にて。

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2011年5月22日 (日)

「白人は、みんなが同じ顔になるように、わたしたちを丸めこむ」

ナンシー・ウッド『今日は死ぬのにもってこいの日』(めるくまーる)。ネイティブ・アメリカンの思想とファッションについて書く必要が出てきたので、読んだ資料。宇宙的な時間の流れの中で「自然の一部」として淡々と堂々と生き、祝祭のように死んで次代へと命をつないでいくネイティブ・アメリカンの考え方が、「詩」のような形式でつづられる。

原発事故のような、人のおごりが招いたとしか思えない災害が身近にあるいま、いっそう彼らのことばが説得力をもってくる。

「白人がわたしたちにすることには、一定のパターンがある。まず初めに彼らは、わたしたちが必要としない贈り物を持ってやって来る。それから彼らは、売ろうにも、もともとわたしたちの土地ではない土地を買いたいと申し出る。

土地はそもそも誰のものでもない。それはただ、感謝して、優しく使ってもらうためにここに置かれているだけなのだ。土地はそれ自身に属しているわけで、その点、空の月や星と同じことだ」

「彼らはずいぶん前から、わたしたちのところへやって来ては、みんなが同じ顔になるように、わたしたちを丸めこんで白い顔にしようと懸命だった。わたしたちは、このわたしたちを変えようとする彼らの固定観念、わたしたちの土地を、『利用』と呼ばれる言葉で割り切ろうとする彼らの固定観念が、よく理解できなかった。そしてもうひとつ、わたしたちのものではない考え方に沿って、わたしたちにもものを考えさせようとする固定観念、これも同じくわたしたちの理解を超えていた」

「口を開けば白人は、わたしたちにはもっと物が必要だと言う。しかし物を持てば、わたしたちはその代償として、自分の魂を売らねばならない」

がーんとやられるような、でも静かで深い衝撃。大地や宇宙の流れの中で完全に自然と一体となった生き方をしているからこその、「今日は死ぬのにもってこいの日」。歴史は円環的にくりかえしているし、万物は一度死ぬことによって、生を取り戻している。その死生観に裏付けられている、大きくて穏やかな思想に、洗われる。

「冬はなぜ必要なの? するとわたしは答えるだろう。新しい葉を生み出すためさと。(中略) 夏が終わらなきゃいけないわけは? わたしは答える、葉っぱどもがみな死んでいけるようにさ」

こういうふうに考えることもできる、と知ることで、逆に心を穏やかに保っていくことができる。

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2011年5月21日 (土)

神戸のみなさま、ありがとう!

神戸ブランメル倶楽部の催しの一環として、メンズスーツの歴史に関する講演をさせていただく@神戸ファッション美術館。

100名ほどの来場者の9割ほどが男性で、さすがテーマに関心をもってくださるだけあって、ドレスアップしたおしゃれな方が多い。スリーピース、パナマハット、蝶ネクタイ、ポケットチーフ、麻のスーツなど、難度の高そうなアイテムをさりげなく着こなしている方がずらり。

女性もスタイリッシュだったりたおやかにフェミニンだったりと洗練されていて、神戸ファッションの底力に感嘆。女性向けにと思って、終りの20分ばかり、英国つながりでロイヤルウェディングドレスの話もちょこっとさせていただく。

初夏を思わせる土曜日の午後に、ファッショナブルで意識の高い聴衆を前にお話しするという、貴重な機会に恵まれました。主催者のみなさま(ファッション美術館の百々さん、石田洋服店の石田原さん、花事務所の河合男爵)、そしてご来場くださいましたすてきな方々、ありがとうございました。10年ほど前に横浜から神戸に引っ越したママ友の幸枝さんも、サプライズで来てくれて、感激。ありがとうね。

講演後、本の売り場で読者の方とお話しをする機会ももてました。たくさんの方に買っていただき、感謝です。お会いできてよかった。

ブランメル倶楽部スタッフブログ21日付に、講演中の会場の様子がちょこっと載っています。

http://www.kobe-bc-blog.com/?eid=15

美術館でやっていた展覧会も目の保養に。

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1960年代から2000年代までのコレクション作品の展示。 学芸員の浜田さんは濃密で過剰な展示をすることで知られる方で、やはり今回の迫力の展示にも、さりげなく浜田さんの影を感じる(笑)。

<0㎝、360度>で作品に接近できるように工夫されている。

ぜひお宝のマリンコレクション(世界の海軍の制服)を活かす展覧会もしていただきたい、と強く希望。

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2011年5月18日 (水)

「潔いかたちを趣旨としてすべてを整える」

◇日生劇場での「ガブリエル・シャネル」。5月14日から28日まで。大地真央&今井翼・出演。公演パンフレット(←かなり豪華)に、ココ・シャネルに学ぶ自由と自立について、エッセイを書いています。機会がありましたら、ご笑覧ください。

◇「エクウス」(乗馬誌)6月号、砂漠の女王ガートルード・ベルを紹介しています。機会がありましたら、ご笑覧ください。

・・・・・・って、劇場も乗馬も縁がねえんだよって毒づかれますが。すいません。私自身も、実生活ではまったく縁がないのですが。

◇伊集院静『大人の流儀』(講談社)。ギャンブルの敗北もどん底も最愛の人の死も経験しつくした感のある「大人」によるエッセイ。

「ゆとり教育では子規は生まれなかった」という提言に深く共感。子規の母は4時半に息子を起こし、子供にはわけがわからないまま素読をさせる。このときの素養こそが、のちの力となった。

「日本の調理人の味が落ちた。週休二日で修業の職人までが休みはじめた」

一日休めば腕が落ちる、というか、カンを取り戻すのにちょっと時間がかかるのは、どのプロ分野でも同じだ。ましてや二日休みとか。

身嗜み論も、至極まっとう。

「身嗜みでまず必要なのは、体調だ。体調を整えておかなくては、その席で相手に気がかりを与える顔色をしていては失礼だからだ」

「服装、髪型、態度は何を基準にするか。それは清い容姿である。潔いかたちを趣旨としてすべてを整える。それで充分」。

「潔く」なる。これが意外と難しいのだけれど。

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2011年5月16日 (月)

「被災地じゃねえ正念場だ。」

19世紀に大英帝国の拡大とともに世界に広がったのが、英語とスーツとジェントルマン理念。その余波が今に及ぶ。スーパークールビズを考えるときには、「ではそもそもなぜいったい亜熱帯に住むわれわれまでが、寒いヨーロッパで生まれたスーツを着ているのだ?」という原点から見直してみなくてはならないと思うんだが。

英語とスーツとジェントルマン理念のように、言葉と衣装と理念は、完璧と思える三位一体になると、強い影響力を及ぼすことがある。

ここで引き合いに出すのはヒンシュクものと感じる人がいるかもしれないが、「言葉と衣装と理念」が一体になった強力なメッセージとしても心打たれた、盛岡の広告マンらによる「復興の狼煙」プロジェクト。力強いことば、服と表情、そして「被災地じゃねえ正念場だ。」の心意気。被災地に対するウェットな感情を飛び越え、アート作品としても敬意を捧げたくなる。

http://fukkou-noroshi.jp/

ポスターを買えば、義援金となる。

また、ここで一緒にしたら狼煙プロジェクトには申し訳ないかもしれないが、この名(迷)コピーと服とスピリットも、つきぬけている。FBで山口淳さんに教えてもらったもの。メンズナックルなどでやっていたアレが、さらにバージョンアップした感じの、ホストナックル編。

http://matome.naver.jp/odai/2125566699177299415

服+パワフル(すぎる)言葉+スピリットで、無敵なヒトたち。ホストだって生き残りをかけて闘わなくてはならない。中途ハンパでは誰も見向きもしない。「これが人間を超越した先にある奇跡の世界だ」「神の視点でしかオレを理解できないぜ」……た、たしかに。

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2011年5月14日 (土)

メン・オン・ショウ

あちこちの美術館でメンズファッションの展示がおこなわれている、というニュース。英ファイナンシャルタイムズ、13日付。

淡々とした黒っぽいスーツばかりが並んでいてもつまんないのではないか? という懸念をふきとばすカギは「コンテンツとコンテクスト」、だそう。たしかに、メンズファッションには、女性のモードのように一点ずつ見て目を奪われる、というような楽しみ方とは別の楽しみ方がある。「連続性とコンテクストを理解して享受する」という知的な楽しみ方が。広い視野とか知識が必要になるかもしれないが。

ファイナンシャルタイムズは、一部課金制になっていて、ここでリンクをはっても見られない可能性もあるので、以下に同紙のサイトが紹介する展覧会を。

☆"Tommy Nutter: Rebel on the Row"、ロンドンのファッション&テキスタイル美術館にて。 5月20日から10月22日まで。

www.ftmlondon.org

   (トミー・ナッターは70年代に活躍したサヴィルロウのテイラーで、ミック・ジャガーやエルトン・ジョン、アンドリュー・ロイド・ウェーバーなどのスーツを作っている)

☆"Walter Van Beirendonck: Dream the World Awake"、アントワープのMoMu(ファッション美術館)にて。9月14日から2012年2月19日まで。

www.momu.be

(Walter Van Birendonck はベルギーの前衛的なスーパースター)

☆"Dandy"、スウェーデンのNordiska Museet にて。5月末まで。また、同美術館で、"Men in Bathing Suits" 9月18日まで。

www.nordiskamuseet.se

☆"The Peacock Male"、フィラデルフィア・ミュージアム・オブ・アートにて。7月まで。また、同美術館で、"Tailoring Philadelphia"、夏の終わりまで。

www.philamuseum.org

☆"Yohji Yamamoto" 、ロンドンのヴィクトリア&アルバート美術館にて、7月10日まで。

www.vam.ac.uk

以上、メンズファッションの展覧会情報でした。

蛇足ながら、講演会の案内です。来週21日(土)、13:00~14:30、神戸ファッション美術館にて「スーツの原型ができるまで <男らしさ>の表現の変遷」というテーマでお話をします。神戸ブランメル倶楽部のイベントの一環ですが、女性の方ももちろん大歓迎。おまけとして、女性のお客様の関心を意識して、ロイヤルウェディングにまつわるストーリーもちょこっと解説する予定です。入場無料。お申込みは、こちらから。

http://www.kobe-bc.jp/event/event.html

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2011年5月13日 (金)

対象に「なり潰れる」

あの「PRESIDENT」誌が「幸せになる練習」特集。それほどいま「不幸」感を抱えている人があふれているということの反映か。実際、自分も思わず反応して買ってしまったし(苦笑)。

「困難がつらくない」「ピンチでもうろたえない」「お金の苦労が消える」「最愛の人を失ったあと、どう心を立て直すか」「おひとりさまは最期まで幸せといえるか」などなど、目次だけおっていても、今こういう問題を抱えている人がいかに多いか、逆に浮き彫りになってくる。

災難や苦労が次々に押し寄せてくるときに、心を克服するにはどうしたよいのか? 臨済宗老師の井上さんの話をプレジデント誌記者は紹介する。「三昧」に入れ、と。

「例えば難しい仕事や、大震災のような恐ろしい対象と”一つになる”のは容易ではない。しかし、三昧に入るためには、苦しくとも逃げずに仕事や災厄とひたひたと同化し、自己を忘却することです。台風を恐れず、飛び込んでその目に至る、といえばわかりやすいでしょう。災難に遭うときは災難に遭うがよろしく候。己が対象に”なり潰れた”とき、そこに災難はないんです」

苦悩や災難との同一化。いろいろ考えても逃げてもダメだというとき、やはりそういうふうに実践するしか道はなさそうだ……。「真の幸福の泉もここにある」と井上氏は言うが、そこまでの境地というのは。

そんなこんなのメンタルの整え方も多様に紹介されていたが、もっとも印象に残ったのが、帝国ホテル山本一郎チーフデューティマネージャーのインタビュー記事。帝国ホテルは、あの震災の日、なんと帰宅難民2000人を無料収容し、水やパンや毛布を用意したばかりか、温かい野菜スープまでふるまったとのこと。近隣の外資系ホテルではドアも開けなかったのに。その裏話というか、ホテルマンの使命感がすばらしく、やはり危機のときこそ企業なり人なりの本質が浮き出るものだなあ、と。

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2011年5月11日 (水)

「知性に肺活量をつける」

鷲田清一『わかりやすいはわかりにくい?―臨床哲学講座』(ちくま新書)。これまで読んできた鷲田先生の本と重複する部分も多々ありながら、やっぱり「知性の王道」だなあ、と思わせる言葉と思想。

ほんとうに大事なことには、「答えがない」。政治上の駆け引き、地域や家族間のもめごと、介護をめぐる問題、子育てをめぐる問題、死、自分は誰かという問い、などなど。答えがないまま、それにどのように「正確に対処するか」が智恵、という前提のもと、その智恵を鍛えるためのさまざまな視点が示される。

白黒はっきり、とか、とりあえず「ベストアンサー」(最大多数の感情)を知って、叩かれないようにそれに従っておこう、とかの薄っぺらい風潮に対し、「それは違う」と大人の立場で諭してくれるこういう方がいるのは心強い。

「大事なことは、困難な問題に直面したときに、すぐに結論を出さないで、問題が自分のなかで立体的に見えてくるまでいわば潜水し続けるということなのだ。それが、知性に肺活量をつけるということだ。目の前にある二者択一、あるいは二項対立にさらされつづけること、対立を前にして考え込み、考えに考えてやがてその外へ出ること、それが思考の原型なのに、そうした対立をあらかじめ削除しておく、均しておくというのが、現代、ひとびとの思考の趨勢であるように思われてならない」。

「わたしたちがとるべきでないのは、周囲(つまりはマジョリティ)の意向を斟酌しあうというかたちで互いに同調を強いる、そういう行動である。それよりもむしろ、自分と他人とがすぐには同調できないという事実、同調できないひとたちがあちこちにいるという事実から出発して、それらをどう摺り合わせてゆくのかという智恵と対話の技量が、何より求められるものである。そういうおのれの瘡蓋をめくるような痛い経験を繰り返すなかでしか、ほんとうの意味での<民主主義>の社会などというものは生まれようがない」。

震災前に書かれた本だが、震災後にいっそう強くなっている「同調圧力」に警告を鳴らし、一面的な「正しい」イデオロギー支配に疑問をさしはさむという点でも、耳を傾けるに値する言葉。

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2011年5月10日 (火)

「やりたいことではなく、与えられた仕事を全うする」

「サライ」6月号発売です。連載「紳士のものえらび」でカガミクリスタルのグラスについて書いています。機会がありましたらご笑覧ください。

本誌今月号が「森」特集。癒されそうな美しい緑の写真がふんだんに。行ってみたい。とはいえ現実にそんな余裕もチャンスもないので、せめて脳内旅行。

西福寺住職の豊原大成(だいじょう)さん、80歳のインタビューが強い印象を残す。

「毎朝、本堂でお勤めをしますが、20人ぐらい集まる門徒の中には、遠くから電車に乗ってやってくる人もいる。雨が降ろうとも自転車でやってくる人もいる。どちらが苦労しているかといったら私ではないわけです。確かに、仏教の知識はこちらの方がある。偉そうに講義もします。でも本当に偉いのは門徒の人たちだという思いは、ここ70年、僧侶になってからずっと思い続けていることですね」

この謙虚さ。こういう思いが、門徒の人をして「雨が降ろうとも自転車で」通わしめるのだろう。

阪神・淡路大震災のとき、父・妻・娘を失ったという豊原氏の話は、かなりの重みをもってひと言ひと言迫ってくる。

「4人家族からひとりになった寂しさはどうしようもありませんでした。何か思っても話す相手がいない。今まで頼らずに生きてきたと思っていましたが、いわばこれまでの人生は父や妻、娘に守られた4輪の自動車のようなものだったんです」

同じようにつらい思いをしている人たちが、今たくさんいる……。

「天命とは」という問いに対する答え。

「自分がやりたいことではなく、ただひたすら人から与えられた仕事を全うしてきました。それだけです。受け止めることしか、私たちにはできないのです」。

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2011年5月 9日 (月)

サヴェッジ・ビューティー

キャサリン妃がウェディングドレスに選んだことで再評価の機運も高まっているブランド、アレクサンダー・マックイーン。NYのメトロポリタン・ミュージアム・オブ・アートで創始者の故アレクサンダー・マックイーンの作品の回顧展が行われている。NYタイムズにスージー・メンケスの記事(5月2日付)と、ほんの少しの作品だが、スライド写真あり。

http://www.nytimes.com/slideshow/2011/05/02/fashion/fmet03.html

死のイメージ、血、野蛮、SM、闇、プリミティズムなどの、ダークなロマンティシズムを洗練の「美」に昇華して、気持ちをざわめかせたり、苦くて甘美な感情をかきたてたり、思考を促したりしてくれる。

悪名高い「バムスター」(下げ履きパンツの元祖になった)が、サヴィルローのテイラードの技術があったからこそ可能だったという指摘に、なるほど、と。基礎的な力量ががっちりあるからこそ、想像を自由にカタチにできるのだ、たぶん。

ガリアーノのほうは、現在、裁判がおこなわれている。数週間前に弁護士を「解雇」していたりと、あまりはかばかしい進展ではないようだ。(ともにイギリス出身のマックイーンとガリアーノは、同じめまぐるしいモードのシステムの犠牲になったデザイナーではないかと思い、ついセットにして考えてしまっている)。

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2011年5月 8日 (日)

「誰からも叩かれない」ことを美徳とする社会の反映?

「豆腐小僧」3Dで。タラちゃんみたいなしゃべり方をする落ちこぼれの妖怪、豆腐小僧が存在意義を求めて21世紀の人間界へ。

予定調和的なお話が、のんびりまったりとすすむ。出てくる人(&妖怪)たちはみんなあっさりとしていて、ほどほどに「いいヒト」で(死神さえ)、悪役までも毒があんまりない。「欲にとりつかれ、自然をおそれなくなった」人間への批判も、ありきたりなモラルにのっとっているという印象。現代のSNS社会で漂っているような、希薄なムードをそのまま反映しているような感じがした。こういうことをやっていれば、誰からも叩かれない。かわいいことはかわいいし。

たぬき役のはるな愛の声はすぐにわかった。類似の声の持ち主が全くいないという点で、幸せな声だと感じる。

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2011年5月 6日 (金)

「辛抱すべきときはMの権化に」

◇団鬼六先生、旅立たれる。エッセイも作品も、破天荒で痛快で、正直で潔く、観察が鋭くて懐が深く、読後、人間の幅はどこまで広くなるような楽観を与えてもらった。

「長い人生、がむしゃらに攻撃するときにはSの権化になり、辛抱して受けて廻るときはМの権化になり、それを快感を得て演じられるようになれば、人生もまた楽しくなる筈である」

鬼六先生の名言のひとつ。会社をつぶしたときも、借金に追われて逃げる時も、女と逃げる時も、どこか楽しそうなのだ。どん底の状態でも、Mを演じているつもりで楽しめとの教えに、どれほど救われたか。

他界されても、本はずっとともにある。心から感謝するとともに、天国でも快楽主義で過ごされることを祈ります。

◇「こりとるん」の繁盛ぶりを見て、「心のこりとるん」のビジネスもあるのではないかと。「泣ける肩」貸し。30分2000円、ドリンク付き、とか。

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2011年5月 5日 (木)

「そう考えることが、美しい」と思われることの、「ほんまかいな」

田辺聖子『欲しがりません勝つまでは』(ポプラ文庫)。1977年に刊行されたものが、2009年にポプラ文庫になった版。第二世界大戦の前夜からその最中、終りまでを、「文学少女」だった田辺聖子の正直な視点から見つめた、半自伝のような物語だが、異常な時代の雰囲気がよく伝わってくる。前半は乙女チックでコミカルにのんびりと進んでいくので、途中で読むのやめようかと思ったほどだが、戦争が始まってからの後半が生々しく、現在の状況とも通じるところがあって、がぜん面白くなる。

戦争に勝つ予感がどこをどう押してもでてこなくなりながらも、負けるとは信じられなかった時の、国民の不思議な高揚。

「悲壮感にはしゃいでいるのかもしれない」。

「憂国の至情」にかられてハイテンションな言動をしてしまう同級生ら。震災直後の、なにか「ポジティブな言動をしなくては日本人ではない」みたいなプレッシャーに覆われた頃の空気を重ねて読んでしまった。

友成先生のおだやかな諌めが、鎮静剤のように効いてくる。

「こういう時節であるから、よけい、軽々しく動いてはいけない。いつかは戦争も終わる。みなさんの学問がまた役に立つ時代もくる。学問は戦争にも滅びない」。

それでも戦局がいよいよひどくなってくると、少女・田辺聖子は、大本営発表に「ほんまかいな」と内心思いつつも、日記にはスラスラと「どこからも叩かれない正論」を書くのである。「これからさき何十年か続くであろう幾多いばらの道を、断乎とふみしめ、最後の光明を仰いでひたすら、つとめはげんでいくのみである」と。

「自分で書きながら(ほんまかいな)と思っている。ついに私は、自分自身にさえ(ほんまかいいな)と思うようになった」。

自分自身が正直に思うことを、日記にすら書けない時代のプレッシャーというものが、やはりあるのだ。

戦後の、ころりと一転した価値観に、やすやすと乗ってしまうマスコミや同時代人の描写も、秀逸。

「人間の生命は地球より重い、という言葉も、どこからともなく吹いてくる風のように人々の心を染めてゆく。天皇陛下と国のためには、命は羽根より軽いと、特攻隊員は敵艦に体当たりして突っ込んだのは、ほんのこの間のことなのに、なぜこうもめまぐるしく世界は変わるのか」。

おそらく、<戦時中>は、強いて何かひとつの「正しい」考えに自分をもっていかねばならない、という圧力がおのずと働くものなのだろう。似たような状況にある今も、そんな同じ圧力に無意識にさらされていないか、ふと考えさせられる。

「戦時中の私は、『生けるしるしあり』とは思わないくせに、強いてそう思おう、としていた。自分のほんとうのきもちに蓋をし、オモシをのせていた。これからは、ほんとうの気持ちを、さぐりあてる力をもたなければ。天皇陛下に命を捧げることが幸福だ、とは本当に思っていなかったのだ。ただ、そう考えることが、美しく思われたからにすぎないのだ」。

おそらく、時代の空気に悲壮感が満ち満ちているときは、「そう考えることが、美しい」と思われることを、言ったり、書いたり、しがちなのかもしれない。それが本心から出た言葉でなくとも。

ともあれ、こうやって、悲惨な状況も愚かしい状況も、ありのままに書き記し、後世へ伝えていくこともまた、書くことを仕事とする人の愛情であり子孫への貢献である、ということを教わる。

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2011年5月 3日 (火)

生と死、現実と想像、過去と未来をつなぐ精神の一点

◇リビアのカダフィ大佐の息子や孫たちが殺された報道に続き、ビンラディン容疑者「殺害」でアメリカ中が「祝福」「狂喜」という報道。なにか間違っているとしか思えない。不寛容と復讐の連鎖が、さらなるひどい状況を生むことは、歴史がすでに教えているのに。

◇国立新美術館で「シュルレアリスム展」。シュルレアリストたちは、戦争へと向かうきなくさい時代に、活発に創作している。今回はとりわけ、激動の現実社会と、芸術家たちはどうやって折り合いをつけたのか?というギモンをもって観たのだが。

Surreal

1918年、第一次世界大戦のさなか、ルーマニア出身のツァラが「ダダ宣言」を書く。戦争をもたらした近代文明やそれを支えた人間のモラルを呪い、全否定するような、「何も意味しない」という挑発的な宣言。(原発の状況が一向によくならない今、これに加えてアメリカとイスラム世界の対立が世界大戦に発展するような悪夢が万一起きたら……などと想像してしまうと、この宣言にも共感がもてるところがある)

「全否定」ばかりでは持続しない、それでも芸術家は人間の可能性を追求しよう、という動きが起きる。それがほからなぬ、1924年のアンドレ・ブルトンによるシュルレアリスム宣言だった。

「心の純粋な自動現象(オートマティスム)であり、それにもとづいて口述、記述、そのほかあらゆる方法を用いつつ、思考の実際上の働きを表現しようとくわだてる。理性によって行使されるどんな統制もなく、美学上ないし道徳上のどんな気遣いからもはなれた思考の書き取り」。

オートマティスムによるイメージ奔流を流れるままに描きとめる、というような技法をはじめ、さまざまな技法によるシュルレアリスムが出尽くすころ、また時代がきな臭くなる。

1929年(ヒトラーが政権を獲得したのが1930年)、プルトンが発表した「シュルレアリスム第2宣言」がまさに現実社会の変革を視野に入れた運動だった。

「どう考えても、生と死、現実と想像、過去と未来、伝達可能と伝達不可能なもの、高いものと低いものとが、そこから見るともはやたがいに矛盾しては感じられなくなるような、精神の一点が存在するはずである」

乖離するふたつの世界を昇華して、統合するような芸術、それが第二次大戦直前のシュルレアリスムということか。

このあたりの時代に活躍した作家として、ヴィクトル・ブローネルがフィーチャーされていたが、このひとの作品を見たのは初めてで、ユニークで強い印象を残した。目鼻がとびだして伸び、筆になってカンヴァスになにか描いている「モティーフについて」とか、人から魂を吸い取っているような「光る地虫」とか、オオカミとテーブルが合体したオブジェとか、夢に出てきそうだ……(笑)。

おどろおどろしさ寸前の作品も多く、それらに比べたルネ・マグリットやピカソのなんと上品なこと!マグリットが出てきたらほっとするほどだった。

1918年のダダ宣言から、1960年終わりごろにポップアートすれすれになるまでの、シュルレアリスム運動の流れが理解できた。時代との関連がよくわかったのが収穫。点数が多い上に、1つ1つが強いエネルギーを発しているので、かなり疲れたけど。

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2011年5月 2日 (月)

「白いドレス」が秘めていたカラフルな物語

ロイヤルウェディングで着用されたキャサリン妃のウェディングドレスについての原稿を書く。

調べれば調べるほど、あの「シンプル」なドレス一式に豊穣な意味がこめられていることがわかって、あらためてイギリスの底力に感動。ドレス一着からあふれ出てくる物語で4200字分の原稿を書いたのも初めてのこと。

キャサリン妃と英王室と英国の服飾産業で働く熟練職人の皆様に、心からの祝福と敬意を捧げるとともに、感謝します。ウェディングシーズンに合わせ、帝国ホテル発行の'IMPERIAL'誌に掲載されます。お目に留まる機会がありましたら、ぜひご笑覧ください。

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