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2011年4月

2011年4月30日 (土)

学者生命をかけた訴え

内閣官房参与の小佐古敏荘・東大大学院教授が、政府の原発対応に抗議して、29日、辞任した。会見の全文を、以下のNHK科学文化部のブログで読む。

http://www9.nhk.or.jp/kabun-blog/200/80519.html

政府の原発外交が健全に機能していないこと。政府の対応が「もぐらたたき」のような場当たり的なもので、国際基準にも法にものっとってはいないこと。隠し事ばかりであることを強く批判。

とりわけ、小学校などの校庭利用における、放射線の年間被ばく量20ミリシーベルトという屋外活動制限基準を「とんでもなく高い数値であり、容認すれば学者生命は終わり。自分の子供をそんな目にあわせるのは絶対いやだ」と、涙ながらに訴える。

一専門家が、学者生命をかけて、ヒューマニズムをかけて、国民に訴えている。これを重く、うけとめるべきではないか。

なのにこの期に及んでまだ首相は「場当たり対応ではない」とか、文部科学省の高木義明が「国際放射線防護委員会の勧告を踏まえた。この方針で心配ない」とか、しゃあしゃあと言っている。子供の安全よりも経済優先なのか。想定外に備えて、危険をより少なくする方針をとるにこしたことはない、という教訓を、なんにも学んでないのか。福島の子供たちは、日本国民の、私たちの子供だ。心の底から怒りと悲しみを感じる。

さらに、政府が、仮設住宅を中国や韓国などから輸入することを決定した、という報道もあったが、

http://www.asahi.com/business/update/0425/TKY201104250420.html

これ、素人考えかもしれないが、国内の建設業者に発注して国の経済を発展させるチャンスをみすみす失っていることになるんじゃないか? 雇用のチャンスも失ってるんじないか? 復興のための資金が、海外に流れていいのか? 2階建てコンテナ仮設をスピーディーに作る。日本の優秀な建築業者ならいくらでもすぐに学んで、さくさくとやってくれるだろうに。 

こういう不可解な方針の連続で国民を不安と疑惑の渦に陥れているようにしか見えないトップがいるかぎり、希望がまったく見えてこない。私は決して政治的な人間ではないが、あまりにも目に余る現状に、「革命」起こせないもんだろうか、と真剣に考えてしまう。

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2011年4月28日 (木)

「骨惜しみだけが人生の空費となる」

◇浅田次郎『すべての人生について』(幻冬舎文庫)。小松左京、津本陽、北方謙三、渡辺惇一、岩井志麻子、宮部みゆき、山本一力ら14人の大物さんたちとの対談集。浅田次郎のエッセイによくでてくるネタがかぶっていたところもあったが、相当の準備をして対談に臨んだことがうかがわれる。一切の手抜きをしないプロフェッショナリズムに、あらためて感心。

それぞれ面白いのだけど、とりわけインパクトがあったのが、山本一力との対談。ふたりとも大借金王で、人生の浮沈をいやというほど経験しているだけあって、笑って紹介されるエピソードにもフィクション顔負けの凄みがあった。

なかでも、「仕事をする」ということに関して光っていたことば。吉川栄治文学賞の受賞パーティーでの話。同時受賞者が北海道で僻地医療に42年間専心してきた老齢のお医者様だったそうなのだが、その方はパーティー半ばで浅田氏に近づき、「これで失礼します。患者が待っていますから」と言って会場を出て行ったとのこと。

浅田「それだけのことなんだが、鮮烈でしたね。胸が震えました。仕事をしている人は誰でも公器、公の存在なのだとつくづく思ったのです。仕事をする限り、誰かと関わっているんだ。私が書いたものも一人でも二人でも楽しんでくれて、なかにはその人生や生き方に影響を及ぼすかもしれない。そのことをいつも頭に入れて、あの人が『患者が待っている』とさり気なく言われたように、私も『読者が待っている』とごく普通に言えるようにならなければならないと、褌を締め直す気持ちになりました」。

あとがきも、読ませる。

「世の中何だってそうだが、無駄な努力というものはない。骨惜しみだけが人生の空費となる」。

共感。高校生向けの講演などでも言っているが、真剣にとりくめば、無駄なことなどひとつもない、と思う。必ずあとで(何年先になるかわからないが)その果実がかえってくる。これやっても時間のムダ、と思って手抜きしたりこっそり内職したりすることこそが、最大の空費になる。

◇朝日新聞28日付オピニオン欄、高橋源一郎「身の丈超えぬ発言に希望」。昨日の斎藤氏の提言をさらに深めるような議論に加えて、城南信用金庫の理事長による「脱原発宣言」が紹介されていた。

「そこで目指されているのは、すっかり政治問題と化してしまった『原発』を、『ふつうの』人びとの手に取りもどすことだ。『安心できる地域社会』を作るために、『理想があり哲学がある企業』として、『できることから、地道にやっていく』という彼らのことばに、難しいところは一つもないし、目新しいことが語られているわけでもない。わたしは、『国策は歪められたものだった』という理事長の一言に、このメッセージの真骨頂があると感じた。『原発』のような『政治』的問題は、遠くで、誰かが決定するもの。わたしたちは、そう思いこみ、考えまいとしてきた。だが、そんな問題こそ、わたしたち自身が責任を持って関与するしかない、という発言を一企業が、その『身の丈』を超えずに、してみせること。そこに、わたしは『新しい公共性』への道を見たいと思った」。

力強いことばに導かれて、城南信用金庫理事長のメッセージを聞く。迷いなく、まっすぐな視線とともに発せられることばに、背骨がのびる思い。こんな素敵な経営者がいたのだ。

http://www.youtube.com/watch?v=CeUoVA1Cn-A

国策は歪められたものだった。影響力のある?タレントやブンカジンはカネ持ち企業の操り人形だった。そんなこんなの背景があばかれた今、理想や哲学をもつ企業や個人が、国や「エラい人」に問題を丸投げせず、身の丈に応じて発言し、地道に行動していく態度を表明することが、地に足のついた「希望」を感じさせてくれる。

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2011年4月27日 (水)

「勇気の伝染」

◇「25ans」6月号発売です。ロイヤル婚特集にて、歴代の英王室のロイヤルウーマン5人分のラブストーリーと総論、「スローニー」ファッション特集にて扉の解説コラムを書いています。合計7本分のエッセイ&コラムですが、心血注いで書いてます。機会がありましたら、ぜひご笑覧ください。

◇朝日新聞27日付朝刊、斎藤美奈子の文芸時評。「原子力村と文学村 勇気を試される表現者」。さすが斎藤氏、他の「村」の人々にも訴えかける、タイムリーな問題提起をしていた。

伊坂幸太郎の「PK」を論じての結び。

「誘惑や脅しに屈しただれかの諦めと妥協と挫折の結果がたとえば戦争であり、原発事故ではなかったのか。先の戦争の後、『文学者の戦争責任』が取りざたされた時期があった。ならば『文学者の原発責任』だって発生しよう。安全神話に加担した責任。スルーした責任」。

続いて、川村湊が『福島原発人災記』を出したその態度を褒めたあとの結び。

「今月の文芸誌にも震災をめぐる作家の言葉が多少は載ったが、高橋源一郎が連載小説の丸々一回分を費やしてこの震災と先の戦争との薄気味悪いほどの類似を語ったのが目についたくらいで、多くはモゴモゴとした『文学的』な内省を語るのみ。文学の人は文学だけを追求してりゃいいんだよ、という態度は、『文学村』の内部の言語である点において、『原子力村』と同質ではないか?」

最後に、「PK」のフレーズを引用し、文学村に向けてハッパをかける。

「『臆病は伝染する。そして、勇気も伝染する』。ほとんど少年漫画のせりふである。でも『つながろう日本』よりはずっといい。(中略)いま必要なのは、『勇気の伝染』なのではないか。文学村から放たれるシュートを待ちたい」。

「文学村」ばかりではなく、ほかのさまざまな「村」からのシュートも待たれている(自戒をこめて)。

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2011年4月26日 (火)

汚染コウナゴは大量に獲って処分しておくべきだった

宮内淑子さん主催の次世代産業ナビゲーターズフォーラム、第127回(4月12日)において行われた「震災に関しての合同ディスカッション」のレポートより。私はこの日は参加できなかったのだが、宮内さんからお送りいただいた当日の概要に、一人でも多くの人が知っておいたほうがよいのではないかと感じた話があったので、ご了承を得て、以下にその部分を転載させていただきます。

医師で登山家の今井通子先生のお話です。

「風評被害の話ですが、ヨウ素131は8日間で半減しますが、セシウムは30年かかります。3週間くらいで放射線物質がついていないと判断することは人間の健康に意味がありません。放射線は土壌や水に入ってしまい、それを植物は引っ張り上げるため、半減期の30年間はしっかり調べ続けないと危険です。

ITが発達した現在、生殖能力のある若い人には東北に行かないで欲しいです。放射性物質は体の表面に受ける線量としては安全ですが、口から入ると内臓を壊し、癌化します。うちの医療チームはメンバーを50代から上の年齢にします。枝野さんの話は急性疾患が起こらないという話で、慢性疾患は可能性として残っています。

食物に関しては、初めの水素爆発やその後の雨が降った土壌は1~2年は耕作しない方が良いと思います。ここで政府にお金が無いんだなと実感したことがあります。潰したほうれん草は土壌に鋤きこんではダメで、もっと大きく育てて放射性物質を吸わせてから処分すべきでした。そうすれば土中の放射線物質量を減らすことが出来ます。コウナゴも政府は獲らないで下さいと言いますが、たくさん獲って60メートルくらいの地下に埋めるべきです。小さな魚を大きな魚が食べていくという食物連鎖により、生物学的濃縮では、チェ
ルノブイリの例を見ると半年後に大きな魚に影響が出るので、今のうちに少しでもコウナゴを減らすことが大事でした。そのために政府が獲ったコウナゴを収量として纏めてお金を払うという措置を取る。ほうれん草も同様で、それほど大きな金額にはならないはずです。ほうれん草の次は花なんか育てて、土壌の放射量を減らすべきでしょう」。

汚染コウナゴはたくさん獲って処分しておくべきだった。ホウレンソウはもっと放射線物質を吸わせて処分すべきだった。現総理は、人の言葉をまったく聞かないで怒鳴っているばかりと報道されているが、こういう提言も、ひょっとしたらなされていたのに「即、却下」されていたりしたのだろうか? 悔やまれる……。

今井先生の話、続きます。

「日本は放射線に関して経験は少ないですが、カドミウムなどの公害先進国です。今回、一番最初に動物から放射能が検出されたのは牛乳です。牛乳は、ただ、乳牛のえさを安全な飼料に替えればすぐに安全になります。水銀汚染の際にありましたが、母体は安全でも赤ん坊に異常がありました。人間は毒を体外に出そうとするので、男性は精子、女性はお乳から出します。体の中には残さないようにします。その状況を十分考える必要があります」。

すでに母乳から放射線物質が出たことは、報道ずみ。次世代の子供のことを考えると、ひたひたと言いようのない不安が押し寄せてくる。

さまざまな科学者が、それぞれ違う意見を述べている状況である。ひととおり耳を傾けておきたいと思う。今井先生のお話も、一参考意見として、各人の判断の材料になれば。

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2011年4月24日 (日)

「作った人は責任をとらないと」

日生劇場5月公演「ガブリエル・シャネル」の公演プログラム用の原稿を書く。シャネルに学ぶ、仕事を通じた自由と自立について。

シャネルにとっては、世に出したシャネルスタイルと、彼女自身の生き方が直結。「作品」と「作者」は不可分。

ガリアーノはついに自身のブランド「ジョン・ガリアーノ」からも解雇される。あれほどもてはやされたガリアーノの作品が、今やほとんどタブー視。将来はまた評価は変わるだろうが、やはり作品に対する評価と、作者の社会的責任(もしくは社会的イメージ)は、切り離すことはできないのだ。

ソウル・ファッションウィークではデザイナーのポートレイトが飾られ、作品よりもデザイナー自身への興味が高まっていることがうかがわれる。作品を生み出す人の責任がますます重くなる時代がくることを予感。

そんなこんなの「作品と作者」の関係をつらつら考えていたら、みうらじゅんが東電の仕事をすべて断っていた、というニュース。ニコニコ本社でおこなわれた「吉田照美&みうらじゅん ときどきアートライフ」(22日)で、東電からオファーされたギャラが500万円以上(!)であったことも明かす。「ぼくみたいなやつにたくさんギャラをくれるなんて、怪しい」、と(笑)。

http://news.nicovideo.jp/watch/nw55733

「作った人は責任をとらないと」。この人が下ネタ語ってもどこか清潔な感じがするのは、そういう倫理観がきちんとしているからかな。リリーもそうだし。いや、そういうホメ方されても嫌がる人だと思うけれど。

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2011年4月23日 (土)

「芸能を通じた心のインフラ確保」

朝日新聞23日(土)朝刊、オピニオン欄。「いまこそ歌舞音曲」。悲嘆、自粛ムードが世を覆い、復興に向けて具体的に建設的に貢献しなくてはいけないというプレッシャーが押し寄せる中、たとえばファッションのような「浮薄な」(と思われている)領域で働く者は、どのような気持ちで仕事に取り組んだらよいのだろうか? と日々仕事をしながら自問していたが、この記事もまた考えるヒントを与えてくれた。

舞踏家の麿赤児さん、指揮者の松尾葉子さん、そして吉本興業の社長、大崎洋さんという、「踊り、音楽を奏で、笑わせる」ジャンルで働く人々の言葉。

麿「死や自然災害など、どうしようもないものに対する恐怖と折り合いをつけるために、宗教や芸術というものがある。ただ、宗教は価値観を固定化するけど、芸術は抽象的だから、むしろ価値観をどんどん多様にしてゆく」

麿「原発を見てると、太陽に向かって、ろうの翼で飛んでいくイカロスを思い出す。手にしてしまった便利さを手放せず、もっともっと、と破滅に至るまで欲望を肥大化させてゆく。これもまた、人間の業なのだろうが」。

原発=イカロス の喩えに膝を打つ。たしかに、いまの原発の状況は、破滅に向かおうとも、「もっともっと」と欲望をコントロールできない哀しい人間の業をあらわした図に見えてくる。

松尾「音符や言葉を介さず、音と自らの心を直接結ぶ回路を、子供たちは持っている。遠くの人を思いながら音楽を奏でる経験は、子供たちに、真の音楽の力を知ってもらう最高のきっかけになったはずなのに」

大崎「歌や笑いは、根底に愛情というか、人と人との心のつながりがないと成立しないんです。吉本興業の公共性は、芸能を通じて、この心のインフラを確保することにある。現実がどんなに荒れ狂っている時でも」。

芸能を通じた心のインフラ確保。なるほど。ファッションだって似たようなものかもしれない。「心のインフラ」というキーワードを少し心にとどめておくことにする。とはいえ、現実離れしたように見える世界の仕事をしながら、やはり少しばかり、揺れ続ける。

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2011年4月22日 (金)

靴下を、かんでみる

朝日新聞22日(金)付夕刊、「人生の贈り物」。「靴下屋」創業者の越智直正さん(71)の話、連載5回目。

「靴下人生、56年。振り返ると、人生に棄物なし、と言いますか、しなくていい苦労はなにひとつなかった。例えば僕は靴下の柔軟性を確かめるのに、自分だけの方法がある。ちいさな子供をかまうように、じわっと甘がみする。いい品だと歯型は残らないんです。これなんか若い頃、編み出した。百貨店などで店員に背を向け、こっそりやってました。靴下の出来を研究しうようにも、懐が乏しくて買うことなんてできなかったから。どこかで見られ、『食べとるんか?』と思われたこともあったみたいです。徒手空拳の工夫を重ね、ほんとうに肌に優しい素材を感覚でつかめるようになった」

「思えば『勝負あった』という時こそ、何かの始まりでした」

靴下を、かんでみる! 越智さんが実際にそれをやっているしぐさの写真付き。たしかに靴下を食べているように見える……。靴下のためにそこまでできるって、むしろ崇高だ。靴下は裏切らない。仕事に対するそこまでの信仰、かっこいい。

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2011年4月20日 (水)

「打たれても打たれても舞台に立ち続けること」

野地秩嘉『一流たちの修業時代』(光文社新書)。会社創業者、アーティスト、職人、営業マンなど、15人の一流の人たちが登場。今は輝かしい成功者として名高い彼らが、「修業時代」にいかに考えて行動したのか?を語る。 仕事の合間に一人か二人分ずつ読むつもりが、あまりにも面白くて全部読み終えてしまう。なんだかもったいないことをしてしまったような気分。

創業者のなかでは、CoCo壱番屋の宗次徳二さんに圧倒される。孤児で、養父母に引き取られるも貧乏のどん底で苦労がたえない。そこから会社を創業、一部上場まで育てあげるのだ。

ユニクロの柳井社長のことば。「しないうちからあきらめるな。だって、若い人って、まだ何もしていないんでしょう。あきらめることなんかない。まだ、何にも始まっていないんですよ、あなた方は」。

クレイジーケンバンドの横山剣は昔からのファンなので、デビューまでの物語は知っているつもりではあったが、やはりインタビュアーが違うと、知らなかった話や言葉がでてくる。「人間、どうせいつかは死にます。どんどん妄想して、勘違いして、やれるうちに何でもやったほうがいい」。

日本画家の千住博による、「世に出るとは」。

「世に出るとは、打たれても打たれても舞台に立ち続けること。厳しい批評にさらされても、描くことを放棄せず、じっと耐えて、また絵に向かい合う。人はあまりに打たれ続けると、打たれることがつらくなってしまい、褒めてくれる人を探すようになります。そうして自分で小さな舞台を作り、自分を理解してくれる少数の人の前だけで作品を発表するようになる。でも、それは、本当の芸術行為ではない」。

続いて、芸術の定義。「本当の芸術とは、わかってくれない人たちを美の力で引き寄せる、あるいは説得することです。つまり、わかりあえない人とわかりあうための手段が芸術なんです」。

そういう芸術家にとって、「修行が終わりということはない」と。

ここのところ、毎夜、地震で起こされる。3~4夜連続。下から突き上げるようなブキミな揺れ。地震雲や赤黒い空やミミズやカラスやモグラやイオン濃度の異常を「前兆」視する声もあちこちで聞こえる。いつ死ぬかわからない漠然とした恐怖がひたひたと現実味を帯びてきている感じ。でも、とりあえず生きている間はビクビクしてもしょうがない。ビクビクしている時間がもったいない、生きている短いうちに、妄想でも勘違いでも、やれることはやれるだけやっとこう、という気持ちにさせてくれた本だった。

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2011年4月19日 (火)

「その婚約、破棄してくれ」

芦田淳『人通りの少ない道』(日本経済新聞出版社)。日経新聞連載の「私の履歴書」の書籍化。こうしてまとまったものを通読すると、一人のデザイナーの立志伝が、波乱万丈の「物語」として読める。

戦後の焼け野原のなか、家族の猛烈な反対(デザイン画を燃やされる!)を押し切り、コネもなにもないマイナス状況のなかで、「デザイナーになろう!」と志を立てる。それからはまっしぐらに行動あるのみ。中原惇一に強引に弟子入りするきっかけを作るくだりなど、映画を見ているよう。奥様の友子さんも、当時の婚約者から「略奪」(!)。このエピソードは昨年の金婚式のときにも披露されていたが、あらためて活字で読むと、なんともドラマチックである。

「男のくせに女の服をつくるとは」という偏見まるだしの建築業者たちと酒の飲み比べをしたあげく、彼らを味方につけるエピソードも楽しい。「男がファッションデザイナーなんて」という偏見がいま以上に強かった時代だと思うが、こちらが心をストレートに真摯に開けば、偏見など案外、あっさりと覆るものであることなど、随所に「学びのツボ」もあり。

美に対しては徹頭徹尾、繊細な神経を行き渡らせている芦田先生だが、こうして半生記を通読してみると、行動はかなり大胆でマッチョである。その両輪がバランスよく働いてこそ成功に結びつけられたのであろうなあ、と感じ入る。

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2011年4月18日 (月)

ヒーローとは、窮地にはまり込むことが多い人間

◇「サライ」記事のため、銀座の「トラヤ帽子店」に取材にうかがう。店長の大滝雄二朗さんがボキャブラリー豊かで、帽子かぶれば渋チャーミング、という素敵な方であった。とても楽しい取材になった。感謝。詳しくは6月発売の本誌にて。

トラヤ帽子店の品揃えは、たぶん、世界一とのこと(店舗は入りにくいし、どちらかといえば狭めだが、それがかえってよい効果をもたらしているようだ)。カジュアルなハンチングから、トップハットに至るまで、世界のあらゆるブランドから。個人的にほしいな~と思ってしまったのが、ロンドンのおまわりさんがかぶっているようなヘルメット。

Photo

時節柄、災害用というか工事用のヘルメットはいちおう、家族の人数分、身近において眠ってはいるが、こういうしゃれっ気のあるヘルメットが並んでいると、重苦しい気持ちも少しは明るくなるかも?と。

どさくさにまぎれての個人的希望。いざというときに5時間歩いても疲れないかわいいシューズ。パジャマとして着てよし、避難着としてもよし、ついでにそれ着て仕事してもヘンではない、という万能ウエア。最低限の避難用品ひととおりコンパクトに入るきれいめバッグ。デザイナーの皆さんにぜひ、作ってほしい。ビジュアルの要望などゼイタク、という世界ではあるけれど、「それどころではない」という気分のときこそ、明るいエネルギーを感じられるようなものがあると、心がほっとすることもある。

今は、華奢なヒールの靴やモノの入らないバッグなど到底買う気になれない。かといって災害用一点張りなのもなんだかなあ、である。危機がひそむ日常を、せめて何もない間は明るい気持ちで過ごせるようなモノを作っていただきたい、と強く希望。

◇往復に読み終えたのが、野地秩嘉『日本一の秘書』(新潮新書)。ぐいぐい引き込まれて、帰りなんぞ乗り過ごしたほど。ホテルニューグランドの名物ドアマン、カレーチェーンCoco壱番屋の秘書、似顔絵刑事、秋田のヒーローたる超神ネイガー、シミ抜きの天才、焼き鳥屋、富山の売薬。サービスの達人たちにみっちり取材し、その秘密を門外漢にもわかるように丁寧に分析した、これまたライターとしてのサービス精神あふれる一冊。

超神ネイガーの項、ヒーローの分析が光る。

「大人にとってのヒーローとは常に勝つ者、万能のスーパーマンを言う。しかし、小さな子どもにとってのヒーローとは万能でも常勝の人間でもない。子どもにとってのヒーローとは窮地に陥って、しかし、あきらめない人間だ。子供たちはヒーローになりたくて、ショーを見ているのではない。

ヒーローを応援したい。ヒーローを救ってあげたい。ヒーローを男にしてやりたい。そうして、ヒーローが窮地を脱するところを見たいのだ。つまり、子供にとってのヒーローとは窮地にはまり込むことが多い人間であり、苦しい目にあっているヒーローが大好きなのだ」

取材対象にみっちり沿って、意外な、でも普遍的でまっとうな法則を引き出す野地さんのやさしさとプロフェッショナリズム、いいなあ、と思う。

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2011年4月17日 (日)

真の強さを引き出す、「あなたなしでは生きてゆけない」

「ワンピース ストロング・ワーズ」上・下巻(集英社新書 ヴィジュアル版)。ワンピースの「名言集」。力強い言葉は、今だからこそ響くものもあり、読みながら思わず手に力が入るほど。

「普通じゃねェ”鷹の目”(あいつ)に勝つためには 普通でいるわけには いかねェんだ!!!」

「災難ってモンは たたみかけるのが世の常だ 言い訳したらどなたか 助けてくれんのか? 死んだらおれはただ そこまでの男……!!!」

各巻の後につく内田樹先生の解説がまたすばらしい。内田先生はいろんな本や論壇誌でたぶん同じことを繰り返して語っているのだけれど、ここにもその繰り返されてきた言葉があり、その言葉はなんど読んでも読み飽きることがない(今のところは)。

「いわば、ルフィは『「ONE PIECE」的世界の生物学的多様性の守護者』として働いています。仲間を絶対に死なせないというルフィの決意は、『友情に厚い』とか『人情がある』というレベルのものではありません。それは、『一人を失うことは、ほとんど世界を失うことに等しい』という原理的な確信にルフィが領されているからです」

「仲間になる者については、名前と肩書と官名あるいは懸賞金額を示して終わり、というわけにはゆかない。ルフィとの出会いに至った、それぞれの長い歴史を物語らなければならない。それはこれから先も、彼ら彼女らには一人ひとりまたそれぞれ固有の物語が続いてゆくということです。ルフィとの冒険の後も、彼らはそれぞれに別の物語を生き続ける。未来は『オープンエンド』なのです。  (中略)   かつては違うところにいた。今はここにいる。いずれまた違うところに去っていく。そのような流動性のうちにある。たぶんそれが『生きている共同体』だと作者は信じている」

武道家としてのルフィの強さを分析した下巻の解説はさらに面白く、定形的な増量法でごりごりやってるかぎり、強さには限界がある、という指摘に続くくだりは、静かに心に響いてくる。

「たいせつなもののために生きる人間は、自分の中に眠っているすべての資質を発現しようとします。『スタイル』とか『こだわり』とか『オレらしいやり方』というような小賢しいものはルフィにはありません。そんなものは選択肢を限定するだけだからです。この解放性こそが本作中でルフィを際だって爽快な登場人物たらしめている理由だと僕は思います。ゾロもサンジも能力は高いけれど、『勝つこと』にこだわりがある。それも『自分らしい勝ち方』にこだわりがある。冷たい言い方をすれば我執がある。ルフィのような、仲間を救うためには使えるものは何でも使う(使えるものなら『敵』でも使う)という思い切りのよさがありません。それが現実に、身体能力の開発というプログラムにおけるルフィの圧倒的なアドバンテージをもたらしている」

そこから「組織論」へとつなぐあたりは、内田先生の真骨頂。

「僕たちはふつう自分の強さや才能といったプラス要素を誇示すれば、人々の尊敬や愛情を獲得できると考えています。でも、ほんとうはそうではない。僕たちは『あなたなしでは生きてゆけない』という弱さと無能の宣言を通じてしか、ほんとうの意味での『仲間』とは出会うことはできない」

自立した強い人間の強さには、限界があるという話。その人が死の限界を超えてもなお踏みとどまることができる強さを発揮するには、「私はここで死ぬわけにはいかない」という異常な使命感が必要だ、と。

「自分をほんとうに強めたいと思うなら、限界を超えて強めたいと思うなら、『私は誰かの支援なしには生きられない』『私の支援なしには生きられない人がいる』という二重の拘束のうちに身を置く必要がある」

ほかにも、くりかえしくりかえし読みたい、バイブルのような(!)言葉が連なる。「人に頼る」のはメイワクをかけることであり恥ずかしいことと思って遠慮してきたフシがあったが、発想を改めたほうがよさそうだ、と促される。考えてみれば、「人に頼られる」のはとてもうれしいことで、それに応えようとするなかで、自分にあるとは思ってもいなかった力が発揮された経験は少なくない。ほかの人だって同じはず。

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2011年4月16日 (土)

ジャンル<ジャック・ブラック>

「クレヨンしんちゃん 2011」と「ガリバー旅行記」(3D)。「クレしん」は、年々パワーダウンしていく感じを否めず、今年も持ち直さなかった…。「ガリバー」のほうは、かのガリバー旅行記の現代版というよりもむしろ、ジャンルとしては、<ジャック・ブラックの映画>。ナチョ・リブレとかスクール・オブ・ロックと同じノリ。ダメダメなジャックが違う世界にとびこんで、つかの間、いい思いをするけれど増長しちゃってやはりダメで、どうしようもなくなった土壇場に来て本気のがんばりを見せて自信回復&ハッピーエンド、という例のパターン。なにをやってもジャック・ブラック。それはそれなりに楽しいのだが、予定調和をどこかではずして「意外」感が味わいたかった気もする。3Dの迫力は不足気味かなあ。

おこさま映画がほかにもたくさんあったせいか、シネコン2か所まわってどこも大繁盛。こんなにたくさん客が入っている映画館は久しぶり。実は「コナン 2011」を目当てに行ったのだが、どちらのシネコンも満席になってしまっていて入場できなかったのだった。

Photo

グランベリーモールの花のタワー。創るのはさぞかしたいへんなはずだが、「どうだ」といった感がなくて、どこかユーモラスな余裕があるのがいい。

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2011年4月14日 (木)

「息もできない」

◇韓国映画「息もできない」DVDで。ヤン・イクチェンが製作、監督、脚本、編集、主演をこなしたという、彼の強い意気込みが伝わってくる力作。

暴力でしか自分を表現できない底辺のちんぴらが、家庭内暴力で行き場のない苦しみをかかえている勝気な女子高校生と出会って、淡い恋のような、友情のような同志のような、心の絆を結ぶ。足を洗おうとしたその日に悲劇が起きる。暴力シーンが多く、観ているのが痛ましくつらかったシーンも多かったが、全編に、どうしようもない哀しみを抱える、愛に飢えて救われたい、不器用な人の魂の叫びがあふれている。ちんぴらの最期には、それこそ「息もできない」感情に襲われる。

韓国映画の底力と層の厚さに、あらためて感じ入る。

◇中国の「端麗服飾美容」の連載原稿を書く。今月のテーマは「マリン」。津波の恐怖もなまなましい今、ファッショントレンドのマリンを語らなければいけないというミッションに際して、いかなる態度で書くべきか?とかなり長い時間かけて自問してしまう。

「それはそれ、これはこれ」としてまったく現実を切り離して、ファンタジーとしてのマリンを解説するのが、もちろん、「ファッション誌」(しかも海外の)には似つかわしいのかもしれない。でもどうにもこうにもウソくさい。苦渋の末、マリンにつきもののボーダー(縞模様)が、中世では「混乱を警戒し、秩序を再建するための柄」であったことを引き合いに出し、かろうじて現実との折り合いをつける。純粋にマリンファッションをうきうきと楽しみたいと思っていた中国の読者の皆様には、場違いな重たい記事になったかも。ご寛恕ください。

こういう場合、たとえ自分がウソくさいと感じても、ファンタジーに徹底するのがよかったのか。それとも、現実との関連のなかで心底納得できたことを書くのがいいのか。どっちがプロとして「誠実」な態度なのか。読者サービスを考えたら、前者だろうな、と若干うしろめたい思いをしつつ。

◇米軍のOperation Tomodachi に対する日本からの御礼、Operation Arigato。仙台の青年が、砂浜に木材でARIGATOと。海兵隊はそれを上空から見て「黙々と頑張っているのは日本の人々。礼には及ばぬ」と。ARIGATOを書いた青年が、その行動に至るまでの舞台裏をミクシーの日記に詳しく書いている。ありがとうを伝えようとする青年の行動力、こたえてくれた海兵隊。じーんとくる。

http://mixi.jp/view_diary.pl?id=1700339052&owner_id=29157455

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2011年4月13日 (水)

スペックは、「必要十分」という王者の余裕。

ブリティッシュ・ラグジュアリー・ブランド・グループ代表取締役の田窪寿保氏による『ジェームズ・ボンド 仕事の流儀』(講談社 プラスα新書)。

ボンド愛×イギリス人トップとのビジネス交渉×イギリス的着こなしや紳士的アティテュードが、田窪氏が経験したさまざまなエピソードを交えて語られる。こういった世界が大好きな人は、ときに感心しつつ、ときにツッコミや異論を入れつつ、楽しく読めるであろうと思われる。田窪氏の応答がボンド的にかっこいいところも多々紹介されるので、男の嫉妬を買うんではないか(笑)とひやひやしつつ。

「シャツのロールス・ロイス」と喩えられるターンブル&アッサーを紹介するくだりで、かつてのロールスロイスのパンフレットには、細かいスペックの数字など書かれていなかった、という話に惹かれた。

「馬力、最高速などのスペックシートに『SUFFICIENT(必要十分)』とだけ書かれていた。ま、そんなの気にすんなよ、という王者の余裕か、はたまたたっぷりのユーモアか。

製造者責任(PL)法など知ったことか、という姿勢が非常に面白い。つまり、乗っているのはクルマではなくロールスロイスであり、着ているのはシャツではない、ターンブル&アッサーなのである」。

細かいスペックで競おうとするうちは、唯一無比の存在にはなれないということ。人(の教育)にもあてはまる話。

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2011年4月12日 (火)

レベル7の運命をシェアするあきらめ?

◇昨夕の大きな揺れ+小さな揺れの連続、今朝の大きな揺れに昼の中くらいの揺れ。朝に昼に夕に夜中に、一日中地震がきている。地震慣れしてきているつもりでも、やはり揺れのはじめにはぴりっと緊張する。昨夕の揺れのピークのときには歯医者でPMTC(クリーニングとか歯垢のチェックとかの定期検診みたいなもの)中だった。生きた心地がしなかった。

担当者の話によれば、3.11後、患者さんが増えているのだとか。もろもろのストレスが体のいちばん弱いところにくるらしいのだが、それで歯を痛めている人が増えているとのこと。もし痛みがでてきたら、それは虫歯ではなく、「打撲」の可能性もあるそうですよ(無意識に歯を食いしばったりして、歯に打撲を与えるほどの強い圧力がかかる)。

◇またまた新しい単位、テラベクレル。テラってなに。「兆」とか「京」とかいわれても、実感がわかない。いまさらながらのレベル7宣言。そんなこと、みんなとっくに知ってたよ、選挙の後に情報が出てくることもね、みたいな日本人の冷静で鈍い反応が、静かに不気味。もちろん内心では猛烈に怒っていたり不安だったりするにはちがいないが。だからといって特別なアクションは起こさない人が大多数に見える。じたばたしてもしようがない、もうこの運命を日本人としてシェアするしかない、というあきらめも混じるのだろうか。

◇依頼を受けた仕事で、「ガートルード・ベル」について調べて、書く。19世紀末から20世紀初頭にかけて、イラク建国のために奔走したイギリスの女傑。まだ女性に参政権すらないときに、あっぱれな女性がいたものだ、と一躍ファンになる。もっと伝記を多種類読んでみたい。折しも、リドリー・スコットとヴェルナー・ヘルツオークがこの人の生涯を映画化することを検討中と報じられる。

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2011年4月10日 (日)

オリジナルの風格までは、マネできない。

◇DVDで「死刑台のエレベーター」。ルイ・マルのオリジナル版のしっとりノワールな雰囲気には遠く及ばなかったが、ハラハラ感はそれなりに楽しむ。

ストーリーはリメイクすることができても、雰囲気をリメイクすることは難しい、とあらためて感じる。洋服やバッグのコピーにおいて、カタチだけなぞることはできても、「本物」が漂わせる風格までは決して再現できないのと、ちょっと似ている。そっくりであればあるほど、本物の格が上がっていく。「コピー歓迎」と言っていたココ・シャネルは、正しかった。

◇DVDで「悪人」。原作の哀感、複雑な人間像をみごとに視覚化。俳優陣がそろって力強くすばらしい。クライマックスにおいて、被害者の父、加害者の祖母、逃亡する二人のカットをそれぞれ短くつないで感情をぎゅーと盛り上げていく手法も絶妙で、世間の高評価にも納得。

「遠距離恋愛」を観たときに、「遠距離恋愛中に、会いたいときに会えないことの地獄の苦しみ」が吐露されていて、その苦しみと、まったく一人であることの平穏と、どっちがマシなのだろう?とつらつらと思っていた。

「死刑台のエレベーター」を観た時にも、「愛のために殺人に走る甘美な地獄」と、愛がないゆえの平穏と、どっちがマシか?と思わされた。

「悪人」のヒロインは、閉塞しきった日常の平穏な砂漠よりも、「愛のために危険な逃亡をする地獄」を選んだ。「愛」が幻想だったかもしれないとしても、たぶん、そっちのほうが「生きている」実感は大きいのだろう。

愛のための地獄>愛のない平穏。すくなくとも虚構の世界においては、そうじゃないとドラマにならない、ということはあるが。

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寺家町にも春。森の中を歩くと汗ばむほどの陽気。

空気中の放射線物質のレベルが昨日と同じ、依然高いままであることが、「異状なし」という事態。このような異常な「異状なし」が続くような現実生活において、平穏に日々を過ごしていることそのことが、なにか特別なことのようにも思えてくる。

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2011年4月 9日 (土)

100歳で、花が咲く。

◇「サライ」5月号発売です。連載「紳士のものえらび」で、高橋洋服店のスリーピーススーツについて書いています。機会がありましたらご笑覧ください。

今月号の「サライ」の特集は、日本全国花めぐりの旅。付録には木下杢太郎画の花暦12か月の絵葉書セット。たくさんの花の写真や絵のなかでも最高だった「花」は、90歳を過ぎて詩人としてデビューした、柴田トヨさん。

「(この6月で)そう、100歳。花が咲いたんですよ、この年で。詩をつくることも、私の詩集が世に出ることも、考えてもみなかったことです。倅のおかげですね。これまでは自分の年も数えたこともないくらい、夢中で歩いてきました。苦労もたくさんしてきました。でもねえ、長く生きると、それはみんないい思い出になりますね。あと何年もないんですから、一日一日を楽しく生きていきますよ」

毎朝、おつくり(化粧)をするというトヨさんの笑顔。たとえつらいときがあっても、夢中で生き続けていれば、こんな笑顔になれる日が来るかもしれない、という希望を与えてくれる、花のような笑顔。

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2011年4月 8日 (金)

高校生向け<ファッション学>

◇進研ゼミ高校講座「受験My Vision」誌の取材を受ける。ファッションと社会、言葉とファッションなどをめぐる、18歳向けの<ファッション学>レクチャー。進研ゼミには中学から高校3年のときまでずっとお世話になっていたので、なにやら旧いご縁が巡り合わせてきたみたいで嬉しい。

◇移動中にDVDで「遠距離恋愛 彼女の決断」。原題が'Going The Distance'. ドリュー・バリモアとジャスティン・ロングのラブコメ。不況下のアメリカにおけるリアリティのある関係を描こうとしたのかもしれないが、下品なギャグも満載。ドリューがやればそれも愛敬…という演出の意図はわかるが、あからさますぎて品を落としているところも。押しつけと過剰は、人を引かせる。友人たちや、自分の家族の前で激しくいちゃいちゃするというのは、日本人にはありえない光景だが、アメリカだと違和感はないのか? ルームメイトや家族に声が聞こえる環境でも、平気なものなのか?(素朴なギモンとして) 

「遠距離恋愛」を英語にすると'long-distance relationship'となる、ということを知ったのは、収穫。

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2011年4月 6日 (水)

重苦しい現実と、美しい虚飾の世界の間で

◇「メンズプレシャス」2011 spring号発売です。特集「奥深き"御用達"名品の真実」において、扉の記事と英国王室御用達についてのエッセイ、2本を書いています。機会がありましたら、ご笑覧ください。

今号には、チャールズ皇太子・讃、の記事が目立つ。政治的にはともかく、メンズファッション業界では絶大な人気を誇る人であること、再認識。

◇4月末のケイト&ウィリアムご成婚にあわせた記事を7本書く。一冊の雑誌でこれだけの数を書いたのは初めてのこと。志なかばで人生を断たれたり、仕事をしたくてもできない、つらい状況におかれている人々のことを思うと、「ムリ」なんてぜったい言えるわけがない。被災者の方々に励まされてできたような仕事だった。おまえが励まされてどうするっ!てもんだけど、ほんとうにそんな思い。

日本のシビアな現実とはかけ離れた世界の話だが、たとえば避難所で雑誌を広げた時に、心の滋養になったり、少し士気が高まったりするような記事になるようにと、祈りをこめて書く。編集者もみな同じ思いである。

◇そうこうするうちに、1号機が水素爆発の危機にあるらしいことが報じられる。政府は被爆量の上限を引き上げるとか、不条理なことばかり言っている。与党も野党もこの危機にあってせこいプライドだかなんだかしらないが、大連立するのしないの、駆け引きみたいなことに奔走している。未来を描けない福島の人の悲痛な叫びが聞こえてくる。リーダーのことばがどこからも聞こえてこない。というよりリーダーの顔も見えない。世界中で日本レストランの多くが倒産の危機に追い込まれているというニュースが届く。

こういう「有事」において、外界の現実とどうやって心の中で折り合いをつけて仕事をしていくのがいいのか、日々、考える。納得のいく答えなんか出ないだろうが、少なくとも、同じ状況を生きる読者の心の中の反応というのを、以前よりも長時間、考えるようになった。てんでばらばらの現実を生きる読者の関心事が多岐にわたっていた以前は、「あとは受け取る人まかせ」にしていた部分もあったが(それはそれで信頼のつもりで)、今は多くの読者が同じ苛酷な現実を共有している(共有部分の大小はあるかもしれないが)。そこに届くことばを見つけることが、私などが仕事をする領域で果たして可能なのかどうか。重苦しい現実と、美しい虚飾の世界を、手探りで行きつ戻りつ。

◇昨日の森川先生のツイートからつらつら考え、今さらながらはっきりとわかったこと。カワイイ礼賛・美魔女志向・アニメとマンガに対する過度な崇拝っていう3・11前の日本のカルチュアと、大人の責任がとれるリーダー不在という現実は、地続きである。それでもなお、幼稚なカルチュアを「クールジャパン」とかいってもてはやすのか。大人はちゃんと成熟して、大人の責任をとれ。

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2011年4月 5日 (火)

よく訓練された子供たちはいるのに

◇日々少しずつ数字が加算されていく死亡者数。日々状況が悪化する原発。ついに東電は低濃度の(っていう表現もごまかされているようで気持ち悪い)汚染水を意図的に海へ流し始めた。高濃度の汚染水の流出も止められないまま。茨城ではコウナゴ汚染。

シャングリラホテルの休業。外国船の日本への寄港忌避。農業と漁業への長期的なダメージ。

じりじり、じりじり、と事態が悪化していくことに対し、不思議なことに、最近は、当初のような不安を覚えない。長期間こういうのが続いて、心身が<日々、悪いことが加速していくこと>に慣れてしまったようなのだ。それとも感覚がマヒしたのだろうか。「関心がなくなった」とか「ニュースに飽きた」ということとは違う。「冷静になった」「楽観するようになった」というのとはもっと違う。毎朝NYタイムズやウォールストリートジャーナルの記事と日本政府の発表を読み比べては、腹を立てたり疑問を抱いたり、<気にしすぎない努力>をしたりしている。ただただ、身体が「不安に慣れた」としか思えない状態。

大戦中、空爆の恐怖をどのように人々はしのいだのか、と常々不思議に思っていたが、ここにも「不安や恐怖に対する、慣れ」のようなものが、ひょっとしたら生まれていたのだろうか? 憶測にすぎないが、ある程度の慣れによって、極度のストレスから心身が守られるということもあるのではないか、と感じる。

あるいは、来るかもしれないより大きな恐怖に備えて、心身が自発的にエネルギーを消耗させないようにしているのだろうか? との思いもよぎる。

大学の同僚、森川嘉一郎先生のツイートより。あまりにすばらしいので引用させていただく。

「今回の地震対応に対する海外の報道を見ると、日本という「国家」には、よく訓練された子供達(国民)がいる一方、責任を担う大人達がいないという、既成の日本観をさらに戯画化したようなイメージが醸成されつつある。他方でそうした自国の戯画を笑えるかどうかが、文化的成熟の一つの指標でもあるが」。

さすがの洞察。

責任を担う大人が、笑いごとではなくて、いない。政府と東電の、後手後手の無責任ぶり(がんばりは認めるが、それとこれとは別問題)。あれだけは、ぜったいに「慣れ」てなんかやらない。そもそも、そういう政府を<しかたなく>選んだ私たち大人、原発のことを深く考えずにいいとこだけ享受していた私たち大人の無責任にも、これ以上、「慣れ」てはいけない。自戒。

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2011年4月 2日 (土)

「こんど食事でも」「いつにする?」「1000年後」「急だな」

◇「メンズファッションの教科書シリーズ vol.7  The Coordinate」(学研)、発売です。本書の中で、小さなコラムですが、スティーブ・マックイーンのスリーピース・スーツの着こなしについて書いています。機会がありましたら、ご笑覧ください。

◇DVDで「エクスペンダブルズ」。スタローン監督。スタローンのほか、ジェット・リー、ジェイソン・ステイサム、ドルフ・ラングレン、ミッキー・ロークらアクションスターの競演。そのことだけが大事で、ストーリーはほとんどあってもなくてもいいような感じ。

個人的には、スタローンとシュワルツネガー、ブルース・ウィリスが同じ画面で話しているというワンシーンだけで、かなりウケた。(シュワとウィリスはクレジットなしの友情?出演で、このシーンのみ)。

このときのスタローンとシュワの会話。「こんど食事でも」「いいね、いつにする?」「1000年後でも」「急だな」。

日頃、「こんど食事でも」という虚しい社交辞令にうんざりしていたので(まに受けるとバカにされるのだ)、シブく痛快。

◇奇しくも、1週間ほど前に、スタローンがメンズファッションブランドを立ち上げるという発表をしている。

「ロッキー」や「ランボー」のキャラクターをベースにした、ジーンズやTシャツ、アウトドアものがメインになるらしい。2012年から具体的に商品を展開するとのこと。対象は25歳から40歳くらいの男性で、イメージは「反逆者にして紳士(rebel & gentleman)」。なんじゃそりゃ?と思ったが、64歳のスタローンの挑戦欲は衰えない。あっぱれ。映画の中で走る姿が鈍重になった印象を免れず、(最盛期にファンだった身には)ややつらかっただけに、なにか「恩返し」とか「ドネイション」をするような感じで応援したくなる。

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