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2010年2月

2010年2月28日 (日)

「考えて、練ってつくらないと、やっぱり大したものにはならない」

◇「猿ロック」映画版。ひたすら市原隼人の魅力を引き立てるための映画と思えば、まあ、そんなものであろうという印象。あのコミカルなトーンでいくのならば、最後の「巨悪」の扱いが半端すぎてカタルシスがなく、くすぶりが残る。どうせマンガチックな演出なら、最後はスカッとわかりやすく「巨悪に対する罰」がほしかった。

マンガの原作に似せたのか、市原隼人のシルバーヘア。かっこよかった。18世紀にフランス宮廷貴族は髪に髪粉をかけて白くしていたのだが、あれは老いも若きも同じように「年とっているように」見せるためだった、という説がある。が、若い人のシルバーヘアは、老けて見えるどころか、かえって魅力を引き立てるものになるのだなあ、とあらためて気づく(市原隼人級の美男であればなんでもアリになるというだけの話なのかもしれないが)。

◇立川志の輔「英語落語で世界を笑わす!」(研究社)。志の輔さんが、古典落語を英語でやるのである。ついていたCDをiPodに入れて聞いていたら気持ち悪がられた(ニヤニヤしていたので)。発音はべたべたのジャパニーズイングリッシュながら、そんなことは些細な問題だ(あるいは問題にもならない)よなあ、となにか希望と勇気を与えてもらえるような、堂々たる英語落語だった。中学英語程度の簡単な構文、基本的なボキャブラリーで、これだけ強力なコミュニケーションができる。志の輔さんの努力の総量と志の高さはいかほどかと想像すると、いろんな失敗を想定して逃げ腰になってばかりの自分が心底恥ずかしくなる。

◇2月も終わり。いくつもの課題が延々と濃い霧の中にあるままで、ひたすら忍耐と根性でしのいでいるような日々が続くが、多くの人のお力添えを得てなんとか生き延びられたことに感謝する。

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2010年2月27日 (土)

「本能についての恥じらいを抱いてこそ」

◇浅田次郎「アイム・ファイン!」(小学館)読み終える。いつもながらの浅田節を堪能しつつ、売れっ子小説家の華麗な生活(ヴェガス、馬主としての競馬観戦、中国ツアー、などなど)と職業病?(歩かないための肥満、狭心症)のオソロシさを擬似体験させていただく。とりわけ響いたフレーズを、以下にメモ。

「努力というものの限界。平常心を保つことの難しさ。場になじむことの尊さ。真摯と謙譲の精神。時間というものが実はかくも緊密であること。人の和が全能であり、しかし個がその和に依存してはならぬという掟。そしてそれらを複合した、未知の経験の貴重さ」。

(車内でモノ食う若者についての考察のなかで)「人は腹が減れば物を食わねばならぬ。しかしその本能についての恥じらいを抱いてこその人間ではあるまいか。移動中の車内で食事をするのは合理的だと考えられているのだろうが、礼を失した合理性ほど不合理な行いはあるまい。社会の規範が法律だけになってしまえば、人間は心なき機械と同じである」。

本能にまつわることは、やはり恥じらいを抱いてこそ人間。人前で眠る、人前で食べる、人前でいちゃつくことの、ぬぐいきることのできない下品さ、だからこそそれを克服している光景のかっこよさ、の理由はやはり、そのあたりに。

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2010年2月26日 (金)

浪費や過剰は悪なのか

◇「ハイファッション」4月号。これをもって休刊となる。コムデギャルソンの特集だった。この雑誌には「育てていただいた」感が強く、感無量。心からの敬意と感謝を捧げます。編集部の思いはいかばかりか、と思うと胸がつまる。

◇「ENGINE」4月号。鈴木編集長の巻頭エッセイ、「from EDITOR」において、「浪費は悪だ」という風潮に反旗を翻し、過剰の擁護。「人を愛する、などということも過剰なことだ」「哲学も詩も絵画もふくむすべての芸術もまた、過剰な人間的エネルギーの支出の所産である」「僕たち人間は、そもそも地球の自己保存にとって不要であるという意味では過剰な存在である、ということを忘れてはいけない。人間が神の浪費の産物ではない、とだれがいえるだろう」。

存在じたいが過剰なエネルギーを放出している鈴木編集長、ならでは。

◇フィギュア金のキム・ヨナの演技も、さりげなく過剰だ。点数になるのかならないのかわからない、さりげない一瞬の体のひねり、オリジナルな手や足の動き、首のしなりなど。そんな微細なディテールの過剰の積み重ねを完璧にコントロールして自分のものとして流麗に表現しきっているあたりに、圧倒的な強さの秘密を見る思いがした。

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2010年2月25日 (木)

'Disabled'ではなく'Visable'

イギリスのハイストリートで初めてとなる車椅子のモデルの写真がお目見えする、という英「インディペンデント」の記事、2月25日付け。

車椅子モデルを起用するのは、「デベナムズ」のオクスフォードストリート店。モデルはシャノン・マリー、32歳で、14歳で事故にあい車椅子生活だが、ずっとモデルになりたいと望んであきらめずがんばってきた。

障がいをもつモデルや女優を専門に紹介するエイジェンシーまであることを知った。VisABLEModels、というエイジェンシーである。「Disabled(障がいをもつ) Model」ではなく、「Visable(見て美しい) Model」というわけである。障がい者向けの機関誌やパンフレットでの活躍ではなく、ファッショナブルなハイストリートでの、ふつうのモデルと同格に扱われるモデルとしての登場であるという点で、シャノンはパイオニアとなる。

太めの、さまざまな体型のモデルがフィーチャーされる最近の海外の傾向に加え、車椅子だってあり、という最初の提案が加わる。モデルの多様化に加速がかかるか。

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2010年2月24日 (水)

「劇的な奇跡でなくても」

「J nude」 2/18号の巻頭の、谷原章介のインタビュー記事がよかった。10年前と今ではまったく違う立ち位置にいるが、途中、なにか劇的な奇跡や出逢いが起こったわけではない、という話。

「人生において、すべてを帳消しにしたり好転させる奇跡的なできごとって、ほとんどないんじゃないかな」 (中略) 「一つひとつのセリフ、1カット、1シーン、初心を忘れずに精一杯全力でぶつかっていくということ)

その一歩一歩をていねいに積み重ねた結果、いまの谷原章介がある、と。

「たくさんの小さな経験が蓄積されてくると、それが余裕を生む。そしてふと気がついたら、仕事も生活もリラックスして楽しめている自分に出会えた。変わるきっかけは、きっといっぱいあったんでしょうけれど、いま思い出そうとしても、それはなにか一つの大きなできごとではなかったとしか言えないんです」

心から共感できる一方、才能や運も大きいのだろうなあ、とまぶしく眺める。自分の場合は、一つ一つ目の前のことを120%で、という思いで仕事を続けていても、10年前と比べてもほとんど進展がない(苦笑)。どころか、どこまでいって暗いトンネルのなかを手探りで進んでいるような感じ。出口が見えない。でもまあ、ふつうはそんなものだ、と思って地道に働き、くさらず生活するしかない。

「MC」というよく聞くテレビ用語が、「マスター・オブ・セレモニー」の意味だと、この記事ではじめて知った。

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2010年2月23日 (火)

ヴェラ・ウォンとライサチェク

ヴァンクーヴァー・オリンピックとファッションの話が英「フィナンシャルタイムズ」2月13日付に掲載されていた。ラルフ・ローレンがアメリカチームのユニフォームをデザインしたとか、Dスクエアードがオープニングセレモニーでのカナダのセレブの服を担当したとか、ヴェラ・ウォンが男子フィギュアのイヴァン・ライサチェクのコスチュームをデザインしたとか。

なかでも興味をひかれたのが、ヴェラ・ウォンの話。ウェディングドレスのデザイナーとして有名なヴェラ・ウォンが、元アイススケーターだったとは知らなかった。彼女はファッショナブルなスケートコスチュームのパイオニアで、ナンシー・ケリガン(1994)、ミシェル・クワンの衣装もデザインしてきたのだそうである。概要をおおざっぱに以下に紹介。

「ナンシー・ケリガンとは子供のころから一緒に滑っていた仲だった。94年当時のスケート衣装のトレンドはキラキラやフリルがついたラスヴェガス風味の入ったものだった。でもナンシーはどちらかというとプレッピー的な、すっきりスマートなスケーターだった。だからそんな彼女らしい良さを強調できるような衣装を作った。私たちはスケート衣装になにがしかの影響を与えたと思う。

ミシェル・クワンの衣装は6年間担当。ミシェルは滑ると観客のハートをわしづかみにするような芸術的なスケーターだったが、技術を妨げないような衣装を作る必要があった。たとえば、スピンをするときに息がつまるような感じがあるハイネックはNGとか。

エヴァン・ライサチェクは、はじめて男性用の衣装を作ることになった選手。実際に彼と一緒に滑ってみて、彼が求めるものを理解しようとした。ヴェラ・ウォンのファッションショウじゃなくて、選手が達成しようとしていることがすべてなのだから。エヴァンがスポーツ選手に見えるとともに、王子様のように(princely)見えるようにしたかった。彼がフリープログラムで選んだ曲、『シェヘラザード』はとてもドラマティックでパワフルなので、コスチュームがそれに負けないようにしなくてはならなかった」

高橋選手の「ジェルソミーナ」の衣装も、いつもの彼の印象を快く裏切るかわいい印象で、豊かな表情をひきたてていてとてもよかったが、あれはどなたが作ったのだろう? 

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2010年2月19日 (金)

陶器に植物柄が多いのは

「サライ」記事のためロイヤルクラウンダービーの取材@日本橋高島屋。実物をひととおり見てから、CEOのお話をうかがう。イギリスの陶器の柄になぜ花柄ないし植物柄が多いのか?に関する長年の疑問も氷解する。陶器の柄ひとつにも政治的な背景がある。さまざまに歴史への想像を促すのが、やはり一流品の力であるなあと実感する。

英本社は18世紀から何度かの経営危機を乗り越え、M&Aばやりの時代にあっても時流に飲まれることなく、延々と続いている。その秘密をうかがい、真にサステナブルであるための企業姿勢(個人でも同じだ)について考えさせられた。

商品の中でも珍しいなあと思ったのが、陶器のティー・ストレーナー。茶こしのことです。これがあれば紅茶を入れるときのテーブル周りの品格が一気に上がるという感じ。高いので自分用には躊躇するが、紅茶好きの方へのギフトにしたら絶対喜ばれそうである。

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2010年2月18日 (木)

悪名は、無名に勝る

スノボのあの話題の選手を見ていて、あらためてしみじみ思い出した、ダンディのキングことオスカー・ワイルドのことば。

ワイルドは、なによりもまずスキャンダルで有名、というか「悪名高い」人として世に出た。後世の目には、「悪名は無名に勝る」と考えたうえでの戦略的な行動だったように見える。ワイルドが後世に残る作品を書いたのは、その後のことであった。

よいことをして有名になるのも、批判を浴びて名を知られるのも、長い目で見れば、同じレベルで「名を残す」ことになることもある。今回のオリンピックで、競技の結果はどうあれ、まちがいなく、彼は、その名を記憶されることになるだろう。本人は意図しなかったかったことであるかもしれないが。いずれにせよ、名を広く知られたあと、どうでるか、が問題。

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2010年2月17日 (水)

シャネルの「タトゥー」

タトゥーに対する感覚が、日本とは違うからなあ・・・・・・と思いながらも、目が離せなかったのが、シャネルの新しい「スキン・ジュエリー」というのか、「オート・タトゥー」というのか、単なる「なんちゃってタトゥー」というのか。

シャネルのロゴマークも模様のひとつになった、肌に直接転写する「刺青に見えるアクセサリー」である。太ももや、首、胸元、手首などに、転写する。「トロンプルイユ・ド・シャネル」と名付けられたシール式タトゥーは55種類で、各49ポンドだって。イギリスでは3月から発売になるようだが、日本のメディアでまだニュースを聞かない。ヨーロッパの様子見かな?それとも私がまだ知らないだけか。

日本の場合、温泉に入れるのかどうかが、重大問題となりそう(笑)。

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2010年2月16日 (火)

「必要なのは答えではなくて、問い」

河合隼雄+長田弘『子どもの本の森へ』(岩波書店)。児童書を大人の視点から読み直す対談集。ああ、あの話はそういうことだったのか、という再発見多数。これから改めて読んでみたくなった未読の児童書のリストも増える。以下とくに印象に残ったことば。

・(エンデの『はてしない物語』に関して)長田「どうしたら自分の物語をもてるかを教えてくれます。これは失敗だらけの話です。これでもか、これでもかと失敗だらけの物語。いまは『失敗は許されない』という言葉をよく聞くけれども、おそれず失敗できるようでないと、物語はできないんです」

・(トールキン『指輪物語』に関して)長田「物語の分かれ目となるところは、つねに分かれ道ですね。分かれ道のどっちへ行くか。楽な方向へ行くか、困難な方向へ行くか。そのとき、物語の主人公であるホビットたちは、いつでもあえて自分たちにとって困難な方向を選ぶ。希望というのは、困難な方向の先にしかないんですね」

・(ガース・ウィリアムズ『しろいうさぎとくろいうさぎ』に関して)長田「『悲しい』というのは『考える』ことだ、『考える』というのは『一生懸命願うこと』だ、『一生懸命願う』というのはどういうことかといったら、『ほんとうにそう思うことだ』、という。そこまでいって、ふっと、悲しみが消えるんですね、最後に」

・長田「絵本と子どもの本の経験でもっとも大切でおもしろいこととぼくに思えるのは、そのなかに自分がいると感じられるようなお話、いいかえると、的確な言葉で自分についてちゃんと語ってくれるようなお話に出会うということじゃないでしょうか。どんなに古いお話でもその瞬間に、それは自分にとってまったく新しいお話になる」

・長田「言葉の仕事というものを通じてよくよく心したいことは、必要なのは答えでなくて問いなんだということですね。いまはほんとうに、答え、もしくは答えらしきものが多すぎるけれども、問いが、もしくは疑いが少なすぎるからです。しきりに情報社会の掛け声が上がっても、求められる情報というのは多くただ当座の答えにすぎなくて、どんな問題でもとっさの答えで場をしのいで、差しあたって一件落着。そういうふうですから、社会の物事の判断の方向が、熟慮を求めず、とりあえず一件落着をもとめるようになってくれば、割り切りやすい勧善懲悪、因果応報に、どうしても答えをもとめがちになってきますね」

・長田「1970年代に当時の西ドイツの監獄で、幾人もの囚人の自殺があいついだことがあって、問題になった。調査すると、監獄は新しく、清潔で、壁も床も真っ白で、24時間明るい天井灯は切らない、つまりあまりに明るすぎたことが原因だった。『昼でも夜でも牢屋は明るい』というのが苦痛以外の何ものでもない」・・・・・・(中略)・・・・・・「雪山での遭難死を引き起こすホワイトアウト現象というのと、おなじですね。周囲が全部真っ白になってしまうと、どこにもいけなくなって、人間は立ち往生してしまう。人間はそういうふうにできている。徹底的であることは苦痛なんです。不完全さを進んで引きうけないと、どんどんしんどくなっていきますね」

そのなかに自分がいると感じられるようなお話を書く、というのは大人の本にとっても必要なことであろうし、書き手が提供すべきは、一件落着の答えではなくて、問いである!という姿勢は常に意識しつづけたい態度であるなあ、と思う。自戒をこめて。

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2010年2月15日 (月)

「政治と告白話おことわり」「軽薄の言動を愉しむこと」

◇「メンズプレシャス」誌より「伊達男50人特集」に関し取材を受ける。古今和洋の伊達男50人。50人じゃ足りない。リストから落ちた20人ほど足して、70人ぐらいの伊達男につき、タイムレスな魅力の理由(と思っていること)を話す。これまであまり知らなかった日本の伊達男についても、これを機に学ばせていただいた。感謝。ひとりひとりは分類不可のユニークな存在ではあるのだが、「ボヘミアン伊達」「正統派伊達」「アメリカン伊達」「フレンチ伊達」「スプレッツァトゥーラ伊達」「浪漫伊達」「破滅伊達」「枯れ伊達」「マッチョ伊達」その他系統分類してみたくなる。

◇KAWADE夢ムック『開高健』(河出書房新社)。生誕80年特集のムックで、対談なり、回想録あり、評論あり。どっちかといえばマニア向きな印象。

武田百合子による「開高さんと羊子さん」という回想エッセイが面白かった。開高夫妻が親しくする友人夫妻何組かを招いて晩餐会を催したときの様子が書かれているのだが、開高夫妻の「憔悴するまでの」徹底的なホスピタリティの描写に心を動かされる。

羊子さんが書いた招待状も紹介されていたのだが、メニューに続く注意書きにもニヤリとさせられる。

「1.政治と告白話おことわり 1.もっぱら軽薄の言動を愉しむこと 1.ウソでもよろしいコックの腕前をほめること」

すてきなご夫妻だったのだなあ。

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2010年2月13日 (土)

非常放送で動じない集団心理

◇昨日の話。近所のデパートの地下駐車場でボヤ。ちょうどその駐車場に車をとめていた。店内に非常ベルが何回か鳴り渡り、「係員の誘導に従って外へ」との非常放送があるにもかかわらず、悠々と買い物を続ける人が大多数であったことにささやかに驚く。スタバでは、なにごとも起きていないかのように静かにコーヒーを飲み続ける客が大半だった。まあ、店外にすぐ出られる場所であったことも大きいが。

知り合いのネイリストが、新宿のファッションビル勤務時代に、スカルプチャー施術途中、レストラン街で火災が発生したにもかかわらず、お客さんが「続けてください」と動じなかった、という話をしていたことを思い出した。ボヤで済んだらしかったが。

結局、駐車場内は煙充満のためしばらく入場できず、いったん帰宅して2時間後に車を取りに行く羽目に。車は無事だったが、場内は泡と水で惨状を呈していた。

火災報知機が鳴り、非常放送があってなお、なにごとも起きていないようにゆったりと振る舞いつづけるという集団心理は、どういうことなのか。その場に居合わせたときの、不思議な空気が体にまとわりついて離れない。9・11のときも多くの人はそういう振る舞いをしたと伝えられているが。

◇「交渉人 The Movie 高度10000mの頭脳戦」。タイトルにふさわしい頭脳戦がほとんど展開されず、アクションアクションの連続。つっこみどころは多々あったが、料金分のハラハラドキドキは楽しめた。

◇「グラントリノ」DVDで。魂から涙をしぼりとられるような、シブい傑作。イーストウッド、かっこよすぎる。こういう(ものを作れる)老人になりたいぜ、と思わされる。

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2010年2月12日 (金)

アレクサンダー・マックイーンの訃報

英デザイナー、アレクサンダー・マックイーンの訃報にショックを受ける。11日朝10時に、グリーンストリートのフラットで首を吊った姿で発見されたとのこと。母の葬式の前日だった。まだ40歳だ。

3月のパリコレの準備も進んでいたという。「アンファン・テリブル」と呼ばれた天才の心の奥底まではうかがいようもないが、マックイーンの庇護者でもあり恩師的な存在でもあったイザベラ・ブロウも3年前に自殺している。ブロウを失い、母までも失った悲しみに耐えられなかったのだろうか・・・。真実は永遠にわからないが、なんとも悲しくやるせない。

英各紙には多くの著名人のショックと悲しみのコメントが掲載されていた。

そのなかでひときわ異色ながら強く印象に残ったのが、「タイムズ」に掲載されたカール・ラガーフェルドのことば。

「マックイーンは作品のなかで、常に死とたわむれていた。どういうわけかわからないが、成功して、才能に恵まれていても、それだけでは、幸せになるためには十分ではないということだね。私はいつも彼の作品のなかに、少し人間性がそぎとられたような一面を見ていた。世界や現実から、距離を置こうとするような一面を。ファッションとはそのようなものだ・・・・・・・丈夫な胃袋をもっているわけではないのに、プレッシャーをかけられたら、不安やそのような一面にさらされるのだ」

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2010年2月11日 (木)

あたりまえの前提が、そもそも「ない」とき

◇「愛を読むひと」DVDで。日本人はあたりまえのように「読み書きができる」。あまりにもあたりまえすぎるので、そのありがたみを、誰もが意識すらしていない。その前提がそもそもない状態で生きていた(いる)人々の心に、はたしてどれだけ想像が及ぶのかということを迫られるような思いがした。2人のささいな表情の変化、一瞬、一瞬から、その感情の動きを読む(ともに感じる)ことを求められる、奥の深い映画だった。若き日のマイケル役のデフィット・クロスがとてもいい。

◇明日「フラウ」発売です。連載「ドルチェを待ちながら」最終回です。ほぼ4年間にわたり、ご愛読ありがとうございました。

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2010年2月10日 (水)

毒蛇はいそがない

◇「サライ」3月号発売です。連載「紳士のものえらび」でスマイソンの文具のことを書いています。機会がありましたらご笑覧ください。

◇開高健『ああ。二十五年』(光文社文庫)読み終える。やはりこの人の書いたものに触れているとどこかほっとする。名前のイミをすべて反対にすると「閉低 患」になるとか、カタカナであえて「カイタカケン」と読んでみると、「書いた、書けん」になるというおやじテイストの小ネタのギャグにもウケた。

「銘品さがし」というタイトルの、ヴァレクストラのかばんにふれてのエッセイは、モノやブランドを紹介する文を書く仕事も多い自分にとっての、お手本となる一篇だった。始まりから3分の2は延々と自分の近況とそれにまつわる話を繰り広げ、かばんを見る必要が出てきた経緯につなげていく。そうしてようやく終わりごろ、ヴァレクストラが登場するのだ。

「サイズ、デザイン、材質感、何から何までいうことなし。完の璧。視線が吸いこまれる。心がひらく。そこで恐る恐るお値段を聞こうとすると、売場のポテト公女、しなやかに体をくねらせて、あのォ、イタリアの本店では、値段を聞く客には売らないというたはる、そう聞いてるんですけど・・・・・・といって軽く息をおつきになる。小生感動をおぼえながら眼は暗く、心は閉じ、息は吸い込んだきり吐けなくなる。鎧袖一触。そこでチョン。店から出る。

ゲーテだったかネ。

完璧には何かしら無残がある、とか。」

プレスリリースに書いてあるような薀蓄は一切ないのに、強烈にヴァレクストラの印象が立ち上がってくる。この芸域だなあ、目ざすべきは・・・・・・(はるかに遠い)。遠く高すぎるとはいえ、目指すべきお手本、到達すべきイメージがあるということは、ありがたいことである。

「人間、かしこくなれるのは昨日に対してだけである。今日と明日については永遠の迷子である。とまあそういうこっちゃ。」

という軽いのに重い真実をつくことばには救われるような気がするし、

「毒蛇はいそがない」というタイの諺に関する話も心に残る。「自信のあるやつはゆっくりしてるもんだということと同時に、けれど目的はかならず仕遂げてみせるのだという凄みも含ませているように思われます」

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2010年2月 9日 (火)

ネクタイは清潔か

英和ファッション辞典のネクタイの歴史の項目を書いていて、(分量の都合もあり)掲載できなかったけど、ひっかかっているネタ。

イスラエルでは、医者も弁護士もネクタイをしないのがふつう。この習慣は医学的によい効果ももたらす、という研究まである。その研究によれば、タイレスの医者は、タイをする外国人の同僚よりも、雑菌をまきちらすことが少ない、という。

つまり、あまりクリーニングをしないネクタイが、バイキンのメディアになりやすいと・・・?

ネクタイを西洋文化の堕落の象徴と見るイスラム文化圏(とりわけイランのネクタイ嫌悪が強いようである)の、政治的なプロパガンダ研究の可能性も大ではあるが。なるほど言われてみれば、という話でもあり、ネクタイの表面を顕微鏡で見てみたくなったのであった。

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2010年2月 8日 (月)

「いい作品」の極意?

クロワッサン編集部のチームが自宅にお見えになる。「映画とファッション」に関する取材を受ける。いちばん映画をよく見ていた(1年に200本近く)20代後半の記録がまったくなくなっていたのが惜しかったのだが、30代半ばあたりに見た映画のなかで、印象に残ったものは原稿にしてHPにアップしておいたのでやや助かった(紙のままだと、何がどこにあるのか、いざ必要なときにすぐ出てこないのである)。それを手がかりに記憶を引き出せる。それでもなお、「何を、どう見たか」というのは、すっかり忘れているものである。記録しておくことの大切さをいまさらながら実感する。

いい映画もそうだが、いい講演とか、いい本などは、具体的な内容はきれいさっぱり忘れていても、得た感動がずっとお宝として残っている。すてきな人もそうだ。たっぷりと話したはずなのに、生々しい会話のナカミは覚えていない。快い余韻だけが長く残る。それが「いい作品」の極意なのかもしれないなあ、とも思う(自分の記憶のいいかげんさを棚に上げ)。

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2010年2月 7日 (日)

桃のような、日本女性

好きな香水ブランドのひとつ、「パルファン・ロジーヌ パリ」から日本限定の新製品。「ローズ・ペーシュ」、桃色のバラ、の意。ピーチのように柔らかで繊細な日本女性をイメージした香りとのこと。2月26日の発売に先がけて、一足早く試させていただく機会を得る。

Photo

トップノートは桃の花、ゆず、ベルガモットなどで、さわやかな印象。

ミドルにはホワイトジャスミンと、ロジーヌならではのバラが力強く立ち現れ、きりっと「正統派清楚」。

ラストには、サンダルウッド、ホワイトムスク、アンバーなどがやさしくからみあって余韻を残す。

正統派でありながら、フレッシュなエネルギーに満ちた、気品のある女性をイメージさせる。桃の節句をひときわ楽しめそうな香り。

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2010年2月 6日 (土)

騙されるのは、楽になる道

朝日新聞6日付、「悩みのるつぼ」、「妻が新興宗教に凝ってます」の質問に対する車屋長吉さんの回答が重い。

「大多数の新興宗教は『金取り』を目的としています。私の母などは、金を差し出すことによって、精神的には少し気が楽になっていたようです。つまり、騙されて楽になっていたのです。この世に人間として生まれて来たことの不幸から、少しでも救われたいと思う人は、文学・芸術・哲学の道に進む以外に道はないのですが、この道に進むことはきわめて困難なことです。まず貧乏に耐え、勉強をする決心が必要です。その決心は大部分の人には出来ません。従って手っ取り早くは、新興宗教以外に道はないのです」

この方の回答はいつも、ガーンと頭をなぐられ、沈黙させられるような破壊力をもっていて、暗く絶望的な気持ちになることのほうが多いのだが、それが不快ではなくずっと心に重りのようにひっかかっている。

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2010年2月 5日 (金)

可変性のある顔

宮永美知代『美女の骨格 名画に隠された秘密』(青春出版社)。ディープで専門的な話を期待したが、あれっというほどあっさりとした印象。ミス・ユニバース上位入賞者や、世界的に活躍する女優の顔の共通点が、「鼻の存在感にある」という指摘が面白かった。その鼻を中心に、目と口のバランスがとてもいいのが特徴であると。

「こうした特徴をもつ顔は、”可変性”のある顔といえます。どういうことかというと、メイクアップ次第でまったく違う顔をつくることができるということです」

化粧しだいで、いかようなイメージにも変わりうるのが、世界的美女の条件。たしかに。

骨が長年の習慣でどんどん変わっていく、という話にも、はっとした。日ごろのなにげない姿勢、かむ習慣や就寝の姿勢までもが、10年後の骨格に影響してくるのだ。やはり日々、誰も見ていなくても、ほかならぬ「自分の骨のために」姿勢よくしていなくてはいかんなあと思わされたのであった。

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2010年2月 4日 (木)

スーツにカウボーイハット

◇初夏に発刊予定の新書の原稿第一弾を脱稿。これでやっと「三合目」との編集者のおことば。一つの間違いがあると、すべてがいい加減に見えてくるので一語一語を徹底吟味しなくてはならない。何人かの目を通して、これで大丈夫、と思っても、それでも完璧にはなかなかならない。本1冊作るのに、神経も肉体もごっそりと酷使する(さらさらと書ける才能がないからなのだが)。もちろん、どんな仕事だって真剣にやれば心身を摩耗するほどの重労働だと思う。

◇ばかばかしい笑いがほしくなり、「俺たちニュースキャスター」DVDで。「俺たちフィギュア・スケーター」の笑撃以来、ウィル・フェレルのファンなので、出演作はついチェックしたくなる。「ニュースキャスター」のほうはいまいちパンチ力に欠けたけど、まあまあ、こんなものかな。70年代のメンズファッションが楽しくて、思わぬラッキーを得た気分である。赤いスーツ、ナス色のスーツ、緑のシャツ、カウボーイハットにスーツ、スリーピースなど、カラフルなんだけどピエロに転ばず、きちんと魅力的に見せている。ちょっとした眼福。女性はダイアン・フォン・ファステンバーグのラップドレスのバリエーションに、いかにも70年代のヘアメイクで、これもまた味わいがある。

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2010年2月 3日 (水)

ボディ・レヴォルーション

ドイツのファッション誌が「ボディ革命」に火をつけるか?という記事、英「タイムズ」2月1日付け。

ドイツといえば、ヨーロッパのなかでもファッション後進国である。カール・ラガーフェルド大帝はドイツ人のはずだけど、ドイツと距離をおき、自分を「ヨーロピアン」と称している。あとはヒューゴ・ボスくらい?

だからファッション界に対する影響力はどの程度のものになるのか、未知数だが、そのドイツでいちばん売れているファッション誌Brigitteが「モデルフリーゾーン」となることを宣言し、一般の、ふつうの体型の女性を使い始めた、と。

その実験的試みの第一号が79万部(昨年より6・4%増)売れ、読者の反響が殺到しているようである。

欧米における痩せたモデル追放の流れは2005年のDOVE(スキンケア)の広告から始まる。リアルウーマンが下着になり「ナチュラルビューティー」を見せる、という広告。

2006年には何人かのモデルが極端なダイエットが原因で亡くなる、という悲報が続く。

その年、マドリードのファッションウィークでは、体脂肪率18・5以下のモデルが出場禁止となり、2007年には、スペインのショウウィンドウのマネキンのサイズが、極細サイズから「サイズ10」という標準サイズになる。

2009年後半に、アメリカのGlamour誌が「プラスサイズ」のモデル、リジー・ミラーのぽっちゃり写真を無修正で掲載したことで評判を呼ぶ。

同年、アメリカのV誌が、「サイズ・イシュー」を発行、極端に細いか、太いか、のモデルをフィーチャーする。

Vogueに「プラスサイズ」モデル、ララ・ストーンが登場し、話題を呼ぶ。

Brigitteへと流れるこれら一連のできごとは「ちょっとした革命」とタイムズは見ているが、さて今後どうなるか。

ファッション誌は虚構である。虚構なら、つきぬけたほどうそくさいほうが楽しい。だから、あんまり現実と変わらない世界がそこにあってもなあ、という気もするが、細くて美しいモデルばかりを見ていると現実の自分が心底いやになってくる、という経験もたしかにある。

この流れ、メジャーなコレクションにどう影響していくのか、しないのか、注意して見ていきたい。

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2010年2月 2日 (火)

ロールスロイス、カントリーの邸宅、そしてサヴィル・ロウ

サヴィル・ロウにお仕立てスーツを作りにくるミュージシャンの話、英「フィナンシャルタイムズ」1月30日付け。いつか役立ちそうな話だったので、備忘録まで。

始まりは1960年代から70年代初期。サヴィル・ロウのテイラー、エドワード・セクストンがビジネスパートナーのトミー・ナッターとともに、ミック・ジャガーはじめ当時のロッカーたちのスーツを作り始めたこと。他のテイラーたちは、幅広のラペルや変わったタイを見てとても不愉快だったらしい。「ミックはトラウザーズを極端に細くし、ハイウエストにするのを好んだ」そう。

セクストンとナッターは、ビートルズの「アビーロード」のアルバムジャケット用のスーツも作る。セクストンはまた、ポールの娘、ステラ・マカートニーの師ともなる。現在のセクストンの顧客のなかには、ピート・ドハティやデイヴィッド・グレイも。ちなみにスーツの価格は3000ポンドより。

90年代にはアルマーニやヒューゴ・ボスの既成服スーツに走っていたスターも、現在はサヴィル・ロウに来ているらしい。ラップのブリンブリン(金ぴか誇示)に対する反動もある、と。

また、テイラーのリチャード・アンダーソンは、顧客にジョージ・マイケルやブライアン・フェリーがいるが、歌手には特殊なアレンジをするという。演奏した時にちょうどよい長さに見えるよう、腕を長めにつくるとか、汗を吸収するために脇下に小さなパッドをつけるとか。

ロールスロイス、カントリーでの邸宅と並んで、サヴィル・ロウのスーツがロッカーにとってのサクセスの象徴になっているというシメ。

ロックってそういうコンサバな価値への抵抗からスタートしたんじゃなかったのか?と読後ふと疑問がよぎったのであったが。

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