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2009年10月

2009年10月31日 (土)

「自己吟味を徹底する以外に人格崩壊を食い止める術はありません」

仕事で鹿児島。着陸間近に機内から見える森や林の迫力に驚く。見たことのない日本はまだまだたくさんある。

移動中に島田雅彦『小説作法ABC』(新潮選書)読み終える。小説を書き始めるための手ほどきとして読めば、ダイエット本とおなじで、「その一歩ができないんだよなあ・・・」ということになるが、ものを書くこと全般に対して参考になる考え方が多かった。さらに、ところどころに島田さんの同時代作家に対する見方が述べられているのだが、これがピリッとスパイスや少量の毒をまぶしてあったりして、にやりと笑える。とくに印象に残ったところをメモ。

「私小説作家には、どこか修行僧のようなイメージがついて回ります。おのが罪悪や煩悩を見据え、それを懺悔するために書いているように見えるからでしょうか? 車谷長吉は『悪人になること、他人を犯すことが小説家になることだ』といい、玄侑宗久は書くことは『祈り』だという。罪深さを自覚しながら、神や仏に救いを求めるという態度について回る胡散臭さも芸のうちでしょう」

「脳の中の曖昧な想念が極めて精緻に他人に伝えられるマジック。それこそが文学の醍醐味です。この技術をさらに磨きあげれば、自分が見た夢を他人に鮮やかに伝える技術だって可能になるでしょう。技術革新にまだ可能性がある限り、『文学の終焉』をわざわざ自己申告する必要もないでしょう」

「村上ワールドは理想化された日本の箱庭でもあり、いかにアメリカを自国に取り込み、無害化するか、そのノウハウを示すモデルにもなっています。今後のアメリカとの付き合い方が自分たちの未来を実質的に左右することになるロシアや中国で、村上春樹が流行るのはそうした事情によります」

「なぜ韓流ドラマにおいて記憶喪失というテーマは頻出するのでしょうか。そのひとつの答えが、韓国には徴兵制があるから、ということになろうかと思います。(中略)二年半はけっこう長い。それまでの人間関係や生活スタイルや恋愛が、一旦断ち切られる感覚を持つはずです。ある種のワープをしたかのような、断絶の体験。青春の中断。とすれば、徴兵制のメタファーとしての記憶喪失が、物語に入ってくるのは当然ではないでしょうか」

「刑期があっていずれ出所できる囚人と、死刑囚とを比較すると、死刑囚の方が創造的なものを作るそうです。ささやかな希望というやつが案外、人を凡庸な思考に導いてしまうのかもしれません。死刑囚のように絶望の底まで落ち込んだら、自分の意識の中に自由を見出すしかないので、否応なく創造的になるのでしょう」

書くことには生きる姿勢がそのまま現れる、ということをあらためて認識させられる。書くからには徹底的に自分と批判的に向かい合う覚悟が必要であると説く、厳しい<道>を指南する本でもある。

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2009年10月30日 (金)

ドラゴンルージュ

◇クリスマスコフレのシーズン到来。最近ではどのメーカーもブランドも年がら年中コフレやキットを出しているから、よほど珍しいものでないと見向きもしなくなったが、久々に血が騒いだ限定品があった。

シャネルのミニブラシセット。限定個数の発売で、予約も受け付けない、つまり当日早い者勝ち。というわけで、発売日の今日、デパートの開店と同時にシャネルカウンターへ行き、ターゲットを無事獲得。

このプロセスに感じる興奮と達成感、そしてその後の若干の虚脱感は、「狩猟」の感覚と似ているんだろうなあとうすうす思う。

同じ今日発売のアイテムとして、「ルージュ アリュール ラック」のシリーズに魅了される。「ドラゴン」と名付けられた深紅の、うるしのようなツヤがえもいえずなまめかしく、格調高い。つけてもらっていたく気に入り、これも購入。

赤のリップはかなり慎重につけねばならない。ちょっとでもはみでたりにじんだりするとたちまち下品になるし、人目をひくだけに、姿勢も常にきりっとしていなくてはならない。赤いリップがゆがむとこれほど醜いものもないので、左右バランスのいい微笑みを心がけねばならない。そのためには、邪悪な感情をつとめて廃し、おだやかな感情のみが表情に現れるよう、精神をコントロールしなくてはならない。赤いリップからこぼれ出る言葉はそれにふさわしい品がなくてはならないので、おのずと言葉を選ばなくてはならない。

そういうわけで、気持ちがどよんと停滞しているなあというような時には、「修行」の一環みたいに、あえて赤いリップをつける。少なくともその日一日、心の緊張を取り戻すには、なかなか効果がある。ただ、それでなくてもデカくて目立つ口に赤リップは、子どもたちには「ぎゃー、食われちまう~」ときわめて不評である。

け。ともあれ、「ドラゴン」レッドは久々の会心の赤。

◇TV「ピラメキーノ」の「辞書めっこ」がおもしろい。相対し、片方が広辞苑を開いて、そのページの中にみつけた一語の定義を読む。もう片方は笛をくわえているが、定義を聞いて笑ってしまって笛の音を出したら負け。「ぬらぬら」とか、おおまじめに読むとほんとにオカシイのである。よく考えたなあ、「辞書めっこ」とは。

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2009年10月29日 (木)

サヴィル・ロウのジレンマ

カール・ラガーフェルドやステラ・マッカートニーやジミー・チュウがH&Mとコラボする時代である。ジル・サンダーもユニクロとコラボする。だからこういう流れがきても、おかしくはないのだなあ・・・とは感じる。

ティモシー・エヴェレストがマークス&スペンサーとコラボする。リチャード・ジェイムズがオースティン・リードとコラボする。つまり、あのサヴィル・ロウが、ハイストリートブランド(大衆ブランド)とコラボする時代がやってきたのである。

英「フィナンシャルタイムズ」10月17日付の記事。

リチャード・ジェイムズはオースティン・リードで「カット」というコラボラインをはじめた。オースティン・リード側は、「プレミアムラインを展開することで従来とは異なる顧客を獲得することにつながり、クラシックなスーツからよりファッションコンシャスなスーツスタイルへと移行できる」と満足。このプレミアムラインを展開することで、ヒューゴ・ボスやポース・スミスといった「中間マーケット」のデザイナーレイベルを脅かすことになる、と予測している。

ティモシー・エヴェレスト(ゴードン・ブラウン英首相も顧客だ)は、マークス&スペンサーで「サートリアル」というラインを展開するようだ。エヴェレスト側は「ハイストリートは今、多くのコレクションなんかよりもよほど面白い。ハイストリート・ラグジュアリーというアイディアはイケる。ハイストリートはますます仕事しがいのあるフィールドになっている」と。

低いところと高いところが手を組んで金儲け、まんなかがワリを食う。メンズスーツにおいてもそんなトレンドが。

状況はよく理解できるものの、サヴィル・ロウだけは誇り高く孤高を保っていてほしかった~というのがファンとしての本音ではある。

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2009年10月28日 (水)

「舞台はその人の全てが出てしまう場所」

「25ans」12月号発売です。連載「リュクシーなモード」で、ジレンマが蔓延する現代社会とモードについて書いています。この連載は最終回となります。機会がありましたら、ご笑覧ください。

最終回とはいえ、「25ans」とのご縁は続く。来年早々の恒例「ビューティーメダリスト」の特集で、特別審査員をすることになっている。2009年、もっともすばらしかったコスメはどれか?! 毎年、一読者として楽しみにしている特集で、その選考に参加できるのは、この上ない喜び。しかも、リスト外となった製品のなかから「中野香織賞」という個人賞を贈ることができるとのことで、コスメに注いできた長年の情熱がようやく報われるときがきた・・・と感無量。リストが届く前からすでにアドレナリン大放出状態である。

今月号の本誌「宝塚歌劇団&ミス・ユニバース」のセルフプロデュース特集。手に汗をにぎるほど、読みながら力が入った。タカラジェンヌとミス・ユニバース、どちらも美の「道」をきびしく究める女性たちで、道の先には、たどりついた人だけが語ることのできる深い哲学があるのだ。おもわず頭をたれた(!)ことばはたくさんあったが、なかでも鳳蘭のことばは迫力があった・・・。

「とにかく”ナマ”はダメ。人の目を意識して、自分の魅力を意識して演じる。自分の魅力がわからないならつくる!」

それでもわからない場合のアドバイスも、いい。

「笑顔。心から笑えばいいの。そのためには目の前にいる人を好きになればいい。タカラジェンヌの笑顔が素敵なのは、彼女たちがいつも”私たちを観に来てくださってありがとう”という気持ちで舞台に立っているからなんです」

こんな特集で美へのテンションをあげ、斎藤薫さんのエッセイで自己批判を促す(?)、という本誌のスタンスが、シニカル入ってていい。齊藤さんは「美しいのに愛されなかった」美女の例を通して、美しさばかりを追求しすぎる女のカルマをさりげなく戒めるのである。

「男たちが愛さなかったのは、”言わば、愛されるために作った美しさ”。あるいは”美しければ愛してもらえるのでしょ?”という少しゴーマンな美しさ」

美しさについて、それこそあらゆる角度から、感じ考え行動する視点を出してくれるのが、やはりこの雑誌の底力であるなあ、と感じ入る(一読者としての愛読歴は27年)。

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2009年10月27日 (火)

「広い世界を広く生きる」

◇「ENGINE」12月号、表紙の男・渡辺謙さんの、鈴木正文編集長によるインタビュー記事が面白かった。

これを読んではじめて知ったのだが、渡辺謙さんは、5月、東京新聞に「政治家たち将来像を語れ」という投書を出していたのだという!

鈴木編集長はその投書の中身も讃えているが、中身もさることながら、そんな規格外の行動をする渡辺謙を、敬意をこめてこう表現する。

「渡辺謙という人間が、頼まれたわけでもないのにそういう投書をする『構え』の持ち主であって、同時に当代きっての大衆的人気と俳優的実力を兼ね備えた存在でもある、というようなことを知ったときに、ああ、この人はただ俳優をやるということのためだけに俳優をやっている人ではないのだ、というかたちでこっちの腑に落ちてくる」

政治的な思いを「投書」というかたちで(日本の人気俳優の行動としては、たしかに「規格外」)表に出すことについて、渡辺さん自身は、このように語る。

「こういうメッセージを伝えるということに、曲解を恐れて腰が引けていたときもあったんですが、でも、伝えないと伝わらないんだ、いうべきことをいうのは悪いことではないんだ、とおもうんです。じぶんの主義主張を訴えていくということではなく、じぶんを開いていく、いろんな窓を開けて風通しをよくしていくことが、俳優という僕らの仕事と社会をつなげるあり方としてあるんじゃないかって気がするんですね」

読んでいるこちら側にもすがすがしい風が通りぬけていく感じ。自分の行動や可能性に対して枠をもうけない、制約を課さない、真の自由人の姿だなあ・・・・・・とあらためてほれぼれと写真を見直す。

◇朝日新聞27日付、斎藤美奈子「文芸時評」。新人賞受賞作が、お笑いのノリになっているという指摘。

「みんなに共通するこの『ネタ感』『お芝居感』は何だろう。『退屈恐怖症』に加えていえば『マジレス(真面目に応答すること)恐怖症』?  木の上のツリーハウスじゃないけれど、地面からいくらか浮いたところでコミュニケーションをとる。それが若い世代の流儀だとしたら、いよいよそれが文学の世界にも進出してきた感あり」

マジレスを恐れ、「ネタ感」をだすのがいい、という風潮は、学生さんのプレゼンテーションを見ていてもぼんやりと感じていたことであった。そうか、文学の世界にもついに。

でもこれを読んで、はたと思ったのだが。考えてみれば、「マンガ×モード」シンポジウムのきっかけになった「ヴォーグ」にしても、「ネタですから!!!」と扱うのが正しい読み方だったのかもしれない。なんだかそれにマジレスしちゃった仕掛け人たちに、マジレスでのせられちゃった自分のイタイ感、あるような気もしてきた・・・・・・。

とはいえ、そんな誤解から、思わぬ成果が育っていくこともある(と信じたい)。

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2009年10月26日 (月)

「飛べようと飛ぶまいと 今が一番すばらしい」

◇先週、ジャパン・ファッション・ウィークがおこなわれた。別名、東京コレクション。

ゼミ生にファッションジャーナリストを志している学生がいて、彼は、これに参加したおよそ40ほどのブランドのうち、ひとりで26ブランドもの撮影取材をこなした。プロでもそこまで見るのはなかなかたいへんなことである。

せっかくのすばらしい成果なので、300人ほど受講しているファッション文化史の大教室でリポートしてもらう。ほやほやの「東コレ最新情報」。新聞やメジャーなモード誌がスルーするような弱小デビューブランドのリポートも生々しく、ファッション業界にいてもわかりづらいと言われる東京コレクションの雰囲気の一部がつかめた。贅沢な時間となった。行動力があって感性も豊かな学生さんたちに、教えられることの多い日々。

◇朝日新聞26日付夕刊、田嶋陽子さんの記事。なんと歌手デビューしていたという話に驚き。

「若いころから英文学の研究に没頭してきたけれど自由な自分を実感できず、46歳まで不完全燃焼でした。だから、その分を生き直すことにしました」

「生涯現役として挑戦を続けていきたい」という姿勢、かっこいい!

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2009年10月25日 (日)

「女子の悪意は奇怪な形に動きだします」

◇桐野夏生『アンボス・ムンドス』(文春文庫)読み終える。さまざまな種類の「ふたつの世界」をテーマにする短編集だが、毒たっぷりのコワおもしろさを堪能。最後におさめられた表題作「アンボス・ムンドス」がいちばん強く印象に残った。小学5年生の女の子たちの底知れぬ冷やかな恐ろしさ・・・・・・よくわかる。ふりかえってみても、人間関係がもっともどろどろぴりぴりしていたのは、小学校高学年の女子社会だった。そのおどろおどろしいおそろしさが、テレビドラマを見ているかのように生々しく鮮やかに描かれる。こわいよ~。

◇心にひっかかったことば。朝日新聞25日(日)付。まずは「TVダイアリー」久保田智子の2回目。

「1分間で自由に話す『フリートーク』が一番苦手だった。頭の中が真っ白になってしまい、内容も稚拙だと怒られた。(中略) やはり精神的に苦痛だったのだろう。ある日突然、全身にじんましんが出た。点滴をして、薬を飲んでも一向に治らなかった。もがき、苦しみ、体中がかゆくて、アナウンサーになるのは本当に大変なんだなと涙が出てきた」

・・・しゃべりのプロにしてこんな苦しみを経ているのか。他人の苦労を聞いて安心するというのも品のないことであるが、なんだか「自分だけではなかった」という安堵とともに、それだけの苦労をしないと「話せる」ものではないことを思い知る。

同日付の朝日新聞、「仕事力」、野田秀樹の4回目。

「自分の目指すことを自分で決めて、さらに真摯であるか。どんな仕事でもそうだと思うけれど、役者だって結局そこが基本です。と言うより、人間はそこが基本ですと言うべきかな」

「仕事をどうやるかは、どう生きるかに通じませんか。ここはやっぱり、自分を信じて創造的にいきたいと思うのです」

照れずにそう言い切る野田さんの表情が、ほんとうにりりしくすがすがしいのである。

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2009年10月24日 (土)

匠の細部と、カワイイ全体

ミス・アシダ2010年春夏コレクション@ジュンアシダ本店in代官山。

若々しくてまばゆいほどのかわいらしさ満開。ただ「若かわいい」のではなく、上質な別格感も「モードな攻め」感もある、おしゃれ好きにはたまらないかわいらしさである。

そんな「ミス・アシダらしさ」を生む秘密は、おそらく、高度な職人技が駆使されたディテールと素材(服地)選びにある。今回、目をひき、とりわけ印象に残ったのが、以下の3つの点。

1.シーム(縫い目)を装飾のように演出する細部 

2.袖と身頃の境界がない不思議な上半身 

3.幼稚園のときにカラーティッシュでつくった花を思い出させる、立体感のある大きな花がたっぷりとあしらわれた生地。

ショウが終わってから、それぞれについてデザイナーの芦田多恵さんに伺ってみたところ、こんなことがわかる。

1.ダブル(両面)になっている生地を、両面それぞれのよさを見せられるよう、あえて表・裏と切り替えながら縫い合わせ、その縫い目をときほぐし、遠目には装飾のラインに見せるよう演出したとのこと。最後に登場したマリエ(ウエディングドレス)にもこのテクニックのバリエーションが使われていた。白いシルクサテン生地のアクセントとして、シームが何本か走っているのだが、そこにビーズが埋め込まれているのである。それが柔らかく光り輝き、まるでドレスのラインに沿って光の川が流れていくように見える。

2.たっぷりとボリュームのある袖とボレロが一体化したようなトップスは、多恵さんが「ボレロスリーブ」と名付けているミス・アシダのオリジナルだそうである。袖だけをたっぷり膨らませると、腕を上げた時に脇下がもたつくが、このデザインだと腕を自由にすっきりと動かすことができて、脇下すっきり。袖のボリュームを楽しめながら、着心地がラク。なるほど、こういう発想があったのか~と感心する。

3.大きな花と見えるのは、エンブロイダリー(刺繍)だそうである! ここまで立体感のある素材の登場にちょっとわくわくする。これが全面にあしらわれたスカートは、かなり楽しい。ミニでタイトであれば、上半身を真面目なジャケットでまとめて仕事着としてもいけるかも?などと思わず妄想が入る。

こういう細部が悪目立ちすると「オタクな服」になってしまうのだが、ミス・アシダの場合、それが絶妙の配分であしらわれ、シックで一般ウケのいい配色の全体のなかにとけこんでいる。匠の細部と、まとまりのいいキュートな全体。結果、「かわいいのに、格が高い」という印象が生まれている。

細部と全体の関係については、ほかの分野においてもあてはまることかもしれないなあ、と楽しく考えさせられたコレクションだった。

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2009年10月23日 (金)

モードがマンガを

秋葉原エンタまつり+ジャパンファッションウィーク関連の一プログラムとして、「モードはマンガを模倣する」と題したパネルに参加@秋葉原UDX。

日本ファッション・ウィーク推進機構国際ディレクターの信田阿芸子さんの司会のもと、WWDジャパン編集長の山室一幸さんとパネル。きっかけになった「ヴォーグニッポン」7月号を冒頭にさらっと紹介したうえで、近年の「モードのマンガへのすり寄り」現象を考えていくというもので、私のつくったおおまかなスライドをもとに、山室さんの豊富な経験に基づいたエピソード&ツッコミのトークで盛り上げる、という趣向。

聴衆がほとんどアキバ系?の男性。 なんだか場違い感にやられたというか、ただあがっていただけというか、頭で考えていることの100分の1もことばが出てこない。あとから「ああ言えばよかった」と後悔、といういつものパターン。が、外に出たものが、「実力」だ。聴衆の方々の目にはバカにしか見えなかったろうなあ・・・とがっくりと落ち込む(またしても)。

1年に70回ほど講演をするという山室さんは、さすがに聴衆をよく見ながら、場に合ったすばらしいトークで魅了! 超多忙スケジュールのなか、書いてよし、しゃべってもよし、の山室さんは、すごい方だと思う。内容においても、パフォーマンス面においても、たくさんのことを学ばせていただいた。

気をとりなおし。このテーマ(モードが、現実が、マンガを模倣する)はまさに現在進行中なので、これからも見守り、引き続き、考えていきたい。このテーマについての多くの方の忌憚ない意見を聞きたい。

やっぱり「ゆっくり時間をかけて、ああでもないこうでもないと考えて、書く」のが私にあったスタイルなんだろうなと思う。恥をかきながら、やっとぼんやり自分の輪郭がわかってくる。

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2009年10月22日 (木)

「甘えないのがアサーティヴ」

坂東眞理子さんから新刊『美しい日本語のすすめ』(小学館101新書)をお送りいただく。2年前に福岡でパネルをご一緒して以来のご縁で、たまたま高校・大学の大先輩でもある。いつもおだやかににこにこしていらっしゃるが、重責とともにあるハードな仕事人生を丁寧に積み重ねてますます大輪の花を咲かせている。その陰に並ならぬ努力と気配りがある。こういう「ホンモノの大人」を見ていると、自分のあまりの甘えっぷりが恥ずかしくなってくる。

この本も「品格」シリーズと同様、誰にでも読みやすいやさしい表現で書かれているが、実はビシバシ厳しく精神的な自立を促し、ことばの使い方を通して「大人」になるための自覚を促す本である。

「アサーティヴであるためには、自分の言いたいことを伝える努力を放棄しないことが大切です。『話し下手だから、わかってもらえないのはしょうがない』『相手がああいう人だから、話が伝わらないのは仕方がない』 こんなふうに思ってしまう人は、自分に甘えすぎています」

・・・・・・まさしく私に向けられた叱咤、としてぐさりとささる。話が下手だから、と開き直る。これって伝える努力を放棄しているのと同義であった。準備と練習が足りない。相手についての情報収集を怠る。まさしく甘え過ぎであった。坂東さんは「美声にはほど遠い」という自覚のもと、ボイス・トレーニングまで受けたという。「才能がない」とか「自分にはできない」というのは、単なる言い訳、ただの甘え。その先へ行こうとすれば、壁越えするために必要な努力はやるべき。努力しないんだったら、まさしくそこに「甘んじて」いればいいだけの話で、安全圏に居直りながら、壁の向こうに行っちゃった人のことをとやかく言ったりするのは筋違いというものだろう。

また、「ほめ言葉の男女格差」の指摘は興味深かった。地位も権力もある男性は、外見や表面的なことをほめられると喜ぶ、という観察。

「女性は内面に目を向けてもらえず、能力を軽んじられていることがコンプレックスになっているので、仕事の内容をほめてもらう方がうれしい。それに対して、男性は外見をほめられたことがなく、自信がないので、外見を認めてもらえることがうれしい。そのために、外見へのほめ言葉が深いところに到達するのです」

・・・女性も外見をほめてもらうとうれしいこともあるだろうから、一概には言えないかもしれないが、たしかにこれは、一つの真実かもしれない。地位の高い男の人ほど、身につけているものの趣味のよさを認めてほめると、こちらがアセるほど喜んでくれることがある。

平易なことばで誰にでもわかりやすいように書く。こういう仕事を軽んじていた時期もあったが、たぶん、そんなスノッブな考え方も甘えでしかないのかもしれない。そういう伝え方にもまたそれに応じた自覚的な努力が必要になるのだから。坂東さんはそこを「大人の」努力でやってのけて、越えた。

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2009年10月21日 (水)

「旅の目的は、自己の喪失」

浅田次郎『つばさよつばさ』(小学館文庫)読み終える。JALの機内誌に連載されていた、旅にまつわるエッセイが書籍化されたもの。

浅田エッセイのディープなファンなので、心底楽しんだことはまちがいないのだが、正直言って、自分自身も機内誌(ANAのほう)に連載していた身、あまりの格の違いというか、自分の仕事は本になるなど望むべくもないのに、浅田先生の連載は確実に何冊もの書籍として豊かな「実」になっているというシビアな現実に、かすかに落ち込む。

まあ、比べるってのがそもそもの間違いである。以下、「うまいっ!」と思った表現のメモ。

「さる経済通の内緒話によると、紙幣の肖像画は多少イヤな感じのする人物のほうが手離れがよくなり消費活動に寄与するらしい。ただしこの話は冗談と思いたい。しかし言われてみれば、私は樋口一葉の五千円札が手に入ると、財布に暖めるまもなくすぐに使っている」

「取材の旅に出たとき、私はメモの一行も書かず、写真の一枚も撮らない。ひたすら漫然と、行き過ぎる風物に浸る。のちに筆をおろすとき物を言うのは、おのが目で見、耳が聴き、心に感じた印象のほかにはありえぬからである。

「私がラスベガスに通う目的は、一にかかって自己の喪失である」

「私は英語がしゃべれないのではなく、英語を使用するフィールドに臆しているのではないだろうか。だから自分のフィールドだという自覚のあるカジノでは十分な会話ができ、そこを離れてしまえば言葉が出なくなってしまう」

思わずにんまりとしてしまう浅田節を堪能。たっぷりとした読後感とともに本を閉じる。身を振りかえれば30年書いてまだ下積みに毛が生えた程度、いつの日かあのレベルの足もとに届くのかどうか。

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2009年10月20日 (火)

「自分がやってきたコトが全て顔に出ています」

槇村さとる先生、『イマジン・ノート』(集英社文庫)と『スタイル・ノート』(幻冬舎)。マンガ入りのエッセイ集である。

『イマジン・ノート』は、書かれている「事実」だけを見ていくと、とても重い衝撃の告白本とも読める。「苦労」と呼ぶにはあまりにも大きすぎる経験というか「事件」に、驚きを通り越して打ちのめされる。ただ、奥の奥に眠っていたそうした経験と真正面から向き合い、折り合いをつけていく槇村さんの心の過程が、優しくすがすがしい余韻を残す筆致で描かれている。嘆きをひきずるわけでもなく、美化するわけでもない。向き合って、認めて、すべて肯定し、未来に向かうことで光を見出していくプロセスに、一緒に泣けて心が洗われていく感じがする。以下、とりわけ沁み入ったことば、備忘録まで。

「人間あんまりにも辛い生き方してるとホンのちょっとの普通の親切をもらっただけでも”愛してる”ぐらい思っちゃうもんである。当時の私はメタメタ自尊心低く、ギンギン自意識過剰。(気付いてないけど)心の底で自分はクズだと思っていたから、恋人とも友人ともどうも、なぜか、うまくいかなかった」

「『どうも記憶が怪しい』とか『このごろ物忘れするぞ?』と感じた時は、『心が何か信号を出している』と思うことにしている。何か無理をしているんじゃないか、自分にウソをついているんじゃないか?と考えるきっかけになっている」

「相手の伝えたいことが、言葉が、声が心が、細かいツブになって、波動になって、私の細胞の間をサアッと抜けてゆく。その一瞬の印象をつかまえる。それが相手に触るってこと。相手の身になるってこと」

「自分で自分をしつけ直す。(中略) 自分好みの自分に、しつけて、成っていくことだから、深い喜びがある」

『スタイル・ノート』のほうには、もっとマテリアルな面での具体的なアドバイスが描かれている。「無難という考え方を捨てよ」とか、「迷ったら買わない」とか「メイクより内臓優先」とか。もっとも共感を覚えたのが、ダメ―ジに対する対処法。

「1、出す。2、寝る。3、泣く。きちんと悲しむ。4、考えはじめる。 平気なフリは禁物。時間をかけてしっかりプロセスを踏みながら 溶かしたり、受け入れたりしていくこと。パニックにならないこと」

きちんと悲しむ、ということが、なかなかできない。ちょっと勇気がいる。でもたぶん、これを「きちん」とやっておくことで区切りをつけられるんだろうなあ、とわかる。

「50代は満開の花 始末よく 華やかに 自分がやってきたコトが全て顔に出ています それが美しいように」

キムさんの表現を借りれば「菩薩のように」美しい槇村さんがこう書くと、説得力がある。

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2009年10月19日 (月)

DEADLINE IS OVER

「サライ」編集部スタッフがお見えになり、「贈り物特集」の取材を受ける。話しながら気づいたのだが、私は贈り物マニアであった。人にモノを贈るのが大好き。贈られるのも好き。

モノそのものではなく、贈答を通じて関係を築いたり確かめたりするのが、楽しいのである。神戸の畏友アケミちゃん(最近神戸から引っ越したが、依然私の気持ちの中では「コウベのアケミちゃん」)をはじめ、「贈り物達人」と呼べる友人にも恵まれた(上のタイトルは、締め切り続きでカリカリしていたときに、絶妙のタイミングでアケミちゃんが贈ってくれたユニクロTシャツに書かれていた文字)。高価なものが必ずしも良い贈り物というわけじゃなく、いかに相手を笑わせるか。「あなたを、見ている」ことを示して心をほぐすか。距離を縮めるか。贈答エピソードを通じて学んだことを語りだしたら止まらなくなるほどだったが、「サライ」的にはかなり異質なモノが出てくる話であったらしい。どんな記事になるのか、コワさと期待が半々。

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2009年10月17日 (土)

「恥ずかしい目に遭うことができる」のもまた

◇昨日の職場の健康診断のデータを見ていて気づいた。ここ数年で身長が1年に5ミリずつ、トータル2センチほどのびている。成長期なのか?(笑) あるいはそういうビョーキなのか?

◇引き続き、槇村さとるがマイブーム。『人生の穴 ときどき落ちても大丈夫』(集英社)。さまざまな分野の濃い人たちと、槇村先生との対談集。キム・ミョンガンさんとはこの対談の3週間後に電撃結婚なさっている。その経緯も詳しい。キムさんのノロケがあまりにも手放しで、うらやましすぎ。

勇気付けられたことばのメモ。酒井冬雪さんとの対談のあとの槇村さんのことば。

「何かとても興味を惹かれて『好き、やってみたい』って思った時、当然期待した分の失敗ってヤツも可能性の中に入ってくるのよね。そこで『傷ついたり、失敗したりしたらやだな』とまず思うのは当然だけど、私の場合はこう考えることが多いんだ。『思ってもみなかった』失敗や恥ずかしい目に遭うかもしれない。でも、それが怖くてやらなかったら、恥ずかしい目に遭うこともできないんだよな』と」

この前の失敗が、すとんとラクになった。思ってもみなかったことをやって、恥ずかしい目に遭う。これもまた、たぶん、生きているからこその貴重な経験なのかもしれない。みじめな思いも、冷静に、正確に、記憶しておくことにする。

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2009年10月16日 (金)

力強い美のシャワー

ジュンアシダの2010年春夏コレクション@ジュンアシダ本店in代官山。

生地の素材感を生かした優雅な造形、心躍るリッチな色彩、シャープでどこか遊び心もあるカッティング、すべてが完璧なバランスである。光を受けて艶やかにモデルを引き立てていたシルクのシャンパンゴールドのイヴニングにもため息。モデルの冨永愛の強いまなざしがドレスの迫力をいっそう引き立てている。美の王道を行き、遠慮なく品よく「これを着ている人が主役」オーラを発して美しい服の数々。ザ・ジュンアシダワールドを堪能する。

今回の「目玉」として発表されたのが、ティアードパンツ「ボンブー(Bambou)」。現在ティアードスカート(生地が幾重にも切りかえられた、段々スカート)が流行しているが、あのパンツ版といえようか。立体的に切り替えられているのに、もたつきが全くなく、まっすぐでしなやかな竹(=ボンブー)のようにも見える。色も、白あり黒ありグリーンあり、丈もロングあり七分ありキュロット風あり、とバリエーション豊かである。パンツでティアードなんて、ちょっと思いつかなかった。よく考えたなあ。マネするところが出るんでは、と心配したが、意匠登録出願中とのこと。そうそう、そうやって積極的にデザイナーの権利を守っていってほしい。

個人的には、イヴニング仕様の、段々生地の先にラインストーンがついているバージョンが好みだった。これ、きっと着るぞ~と心に誓う。でも5キロはやせないと「竹」にならなくて服に申し訳ないだろうか、などとも考えたりする(・・・)。

会場で、「ハーパースバザー」で連載をしていたときにお世話になったムラカミ元編集長とヒガシノ元副編集長にばったり会う。ふたりともかっこいいエイジレスのスーパーキャリア美女である。ムラカミさんは還暦のお祝い会をなさったばかりと聞いたが、今日はモードなミニスカートで決めていらして、会うたびに「大人のかわいい」を進化させている。こういう、年を重ねてますます美のパワーを味方につけている女性のお手本に会うと、ほんとうに元気がでる。

というわけで、今週は落ち込みもあったものの、締めくくりに多彩な美のシャワーを浴びてエネルギーのおすそわけをいただいた。美しいものは理屈ぬきに生きる気力を与えてくれる、とあらためて実感。

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2009年10月15日 (木)

コスプレは、ファッションか?

すっかり日本発のグローバルスタンダードとなったコスプレ。マンガやアニメの登場人物に「なりきる」ための装いだが、これはファッションと呼んでいいのか? そんな議論が英「フィナンシャルタイムズ」に掲載されていた(10月2日付)。

「コスプレも(一般的にいうメインストリームの)ファッションも、ともに自己表現の欲求に基づいている」という共通点はある。

一方、コスプレには「トレンドというものがなく、趣味を決定する媒体(雑誌やジャーナリストのような)もなく、大量生産のスタイルを生むような可能性もない」ために、一般的にいうファッションとは別物、と見ることもできる。

そんな視点を挙げつつ、両者の境界をあいまいにするようなイベントを紹介していた。9月末におこなわれたらしい。日本のアニメを讃える「ニューヨーク・アニメ・フェスティヴァル」。2万1千人のコスプレ参加者があったという。

さまざまな実例が挙げられていたのだが、コスプレがファッションビジネスとしても見込みがあるという一例として、紀伊国屋書店のブースもとりあげられていた。ロリータファッションを「円」のプライスタグつきで販売するブティックになっていたという。

たしかにロリータは、コスプレとして始まったのかもしれないけど、いまでは文脈ヌキにふつうのファッションとして着ている人も多い。街で見かけてもあまり違和感を感じなくなっている。

ファッション産業がいまなお押しつける20世紀的流行のサイクルにげんなりしている消費者が、トレンドと無関係で、雑誌やセレブモデルとも無縁でいられるコスプレに魅力を感じるのは、当然のことにも思える。コスプレが、日常ファッションとして溶け込み始める時代がきているのかもしれない。「ヴォーグ」が指摘した、「モードがマンガに接近」という事態も、おそらく、そんな状況とつながっている。

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2009年10月14日 (水)

「感情的になれば思考停止」

『リアルクローズ』6~8巻、すぐに届いて、待ちきれずにさっそく読む。ファストファッションに競合するためのヤング売り場をめぐるエピソード、デパート合併をめぐるエピソードなど、いかにも現在起こっていそうな状況が生々しく描きこまれていて、スリリングである。

6巻、「同じ服を着て遭遇してしまった」ときどうするか?の話が興味深かった。この問題に関しては私も『着るものがない!』のなかで書いたのだが、「最終回答がない」だけに、他の人の意見とか実際どうしたとかの話がとても気になる。

「神保部長いつだったかすごい大女優と同じドレスになってな 周りは全員真っ青 結局部長が女優によってって『おそろいね』って言って女優退散 部長の勝ち」「同じドレスだったら中味の勝負だからな」

やはり、にこやかに余裕でいられる中味が勝負なのだが、肝心の中味がいちばん得難い・・・。

7巻、小西のコーデのコツ論も「おおっ」と。

「まず 大きい面積をとる服か個性の強い服にトーンを合わせてゆく トラッドアイテムやキチンとした仕立ての服で立体感を出す あとは着くずし方と小物でハーモニーを・・・」

8巻、やはり田淵のセリフがかっこいい。

「感情的になったら全てはそこでおしまいだ 思考停止と同じだ」

「人間何よりも変化がこわい このままじゃダメになると心のどこかで知っていても 変化が怖くて 必要な変化を起こすことを先のばしにしたい」

「問題は関係がこわれたあとだ そこから立ち上がる底力だ」

弱っている時だったので、とりわけ励まされ、癒された。続きの発売が楽しみ。

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2009年10月13日 (火)

圏外にある電話帳

◇TVの収録。「ゲスト」として「専門家としてコメントする先生」として招かれるのだから、その地味な立場をしっかり認識していったはずだった。だが、お笑い系(?)の司会の男性が、もう一人のゲストとして招かれている有名美人モデルをはでに激ボメ、喜びをあまりにも手放しで表現するものだから、となりにいる私の「圏外」感が際立ち、次第にその場にいてはいけないような、いたたまれない気持ちになってくる。部屋の中の置き物にたとえれば、「モデルさんは花で、私は電話帳」みたいな位置づけなので、男性の正直な反応は当然である。「圏外」扱いにしてもとうに慣れてはいる。ただ、理性でそうと理解していても、カメラの前でこうも露骨な態度の違いをまざまざと示し続けられると、自分のイタさが耐えがたくなり、最後にはすっかり気持ちが委縮してしまって、ことばを完全に失ってしまった。

それしきのことで動揺して、自分の最低限の役割も果たせなかった未熟さが、みじめでくやしい。他人の「気」にもろに影響されてしまう自分の弱さが情けない。ばかみたいに生き恥をさらしにいっただけではないか。モウロウ会見をやってしまった後の中川さんもこれに近い気持ちだっただろうか、などと似たような不幸を探してみようとする。巨大な隕石が「身の程を知れ!」と声を発しながら落下してきて全身粉々にくだけちってしまった(脳内イメージ)。

◇高橋洋服店@銀座に立ち寄る。タカハシ社長が、顧客の方々に配布するためのフォーマルウエアのハンドブックを作ろうとしていらして、そのイラスト選びを手伝うため。人に頼りにされる専門知識が少しはあるということは、ありがたいことである。電話帳なら電話帳でいいじゃないか、とあらためて思う。ただ、「ごくたまに必要とされることもあるかもしれない無用の長物」たる電話帳にふさわしい、どっしりとしつつも重たくない覚悟みたいなものが足りない。経験で備わるものなんだろうか。

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2009年10月12日 (月)

「群衆ニンジン」となる快楽

◇「フラウ」11月号発売です。連載「ドルチェを待ちながら」で、新しい消費者運動キャロットモブと、近頃目立ち始めている慈善快楽主義の関係について、書いています。機会がありましたら、ご笑覧ください。

◇10月10日付朝日新聞の磯田道史の連載、この日は岡潔のことば。

「頭で学問をするものだという一般の観念に対して、私は本当は情緒が中心になっているといいたい」。

ほんとにそのとおりだと納得。磯田さんは、自然をうけとる美しい情緒のことを書いていらっしゃるのだが、自然科学の学問の発達を促すのが自然から得られる情緒としたら、人文系の学問をおしすすめるものは、人や社会との関わりから生まれる感情かもしれない。なんだか正体がわからないまま、ふりまわされてしまうような理不尽な感情。それをとらえようとするところから学問らしきものが始まる(少なくとも私の場合、そうだった。「答え」にはまだまだたどりつけそうにないが)。

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2009年10月11日 (日)

「仕事は筋肉」

槇村さとる『リアルクローズ』(集英社クイーンズコミックス)1~5まで読み終える。ちょうどドラマ化もされるようで帯には黒木瞳と香里奈の写真。秋葉原エンタまつりで槇村さとる先生とパネルをご一緒するかもしれないことになったので(未定)、作品をとにかく少しでもたくさん読んでおこう、と読み始めたのだが、これがとてもおもしろくて、どっぷりはまる。

「オシャレなんてバカらしい。服なんて無難でいい。早く中身のある大人になろう」とふつうに思っていたヒロインが、服の仕事を通して、仕事の奥深さやファッションのおもしろさにめざめていく過程が、「いかにもありそう」なリアリティと、「こうあってほしい」ファンタジーを絶妙に織り込んで描かれている。脇もそれぞれ味があって、離れ難い世界。個人的にはボスの田淵大明神が好き。1巻の名セリフをメモ。

「中身があやふやな人間に限ってそう(人は見た目がすべてではないと)言う。見た目もふくめて自分だと受け入れられない人は未熟な人間でしょう」

4巻のキメ文句も、やはり田淵大明神。

「仕事は筋肉なんだよ サボったらもう 一日一月一年 心も体も どんどん世界についていけなくなっちゃうんだよ」

やはり4巻、絹恵がほんもののハイクラスの老男性と会った後に得たインスピレーションで練った企画のプレゼンのセリフ。

「日本一の日本紡績のカシミアを使ってつくる品物は 威張ったり人を威嚇するための服でなく 着ている本人の心をやさしく柔らかく浄化してくれるウエアです その結果として着る人とその周りの人たちの関係をやさしくするような服です」「オープンでカインドリイでフランクな 相手を気遣える女性がイメージです」

チーム田淵はじめ、ファッション業界で働く登場人物たちの「仕事変態」ぶりが、ちょっと自虐めいたものがまじりながらも「いいなあ」と思えてくる。仕事は変態になってからがガゼン面白いし、いったん変態モードに入ると、降りることなんてムリである。そのあたりを、「恋愛との兼ね合いを考えるとどうなるか?」という問題からも逃げずにきちんと描いている。続きがすぐ読みたくなり、6~8を即注文。

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2009年10月10日 (土)

「キャバ嬢って、職業ではなく、生き方」

ほとんどテレビを見ない(見る時間がない)のだけれど、たまたま子供と一緒に見る時間帯によく流れてくるCMのなかで、いやに強烈に印象に残るものがあって、それがコンビニのギャル店員が、「肉まんの蒸し器のコンセントでケータイを充電しつつゲームに夢中になっているために、いつまでたってもお客さんに肉まんをお出しできない状態でいる」っていうアレである。

あのギャル店員をやっている芸人が柳原加奈子と知って、エッセイを買ってみた(私も物好きだ・・・)。『柳原加奈子の気になっちゃう感じですか?』(幻冬舎)。

やはりタレント本だから活字が異様に大きすぎたり、スカスカして見えたりするところはどうしてもあるんだが、ところどころ、彼女のきらっと光る観察眼に笑わされた。たとえば同伴キャバ嬢観察のあとの、以下のような目。

「キャバ嬢って、もしかして、職業ではなく、生き方なのかもしれないですね。他人へのライバル意識とか、美しさに対してのハードルとか、なんか無理してがんばりすぎちゃう女の子たちだから、『小悪魔ageha』には、『病んでもいいじゃん』とか、意外と生き方系の企画が充実してるんでしょうね」。

また、スピリチュアル女への、自虐もまじったつっこみ。

「大半の人は職場の人と折りが合わないとか失恋したとか、半径何メートルの悩みがきっかけで、ストーンとか占いにすがり、スピリチュアルにハマるんだと思うんです。『幸せになるために』から始まったはずがエスカレートして、行き着く先が前世とか後世とか、カルマがどうとかになっちゃうと、どこまでも果てしない。いつの間にか、思えば遠くへ来たもんですよ」

森高千里イズム女、なる観察にも笑った。アラサー世代は、カメラを向けると近くにあるものをぐっと顔の近くにもってきたりする、というのである。

「10~20代前半の女性にカメラを向けると、わざとブサイクな顔をしてみたり、だら~っとしたりといつでも簡単に”素”を切り取れます。写真に対して、まったく気負ってない感じ。一方、(中略) インスタントカメラ世代の女性は一球入魂!一枚の写真から楽しさを出そうとしすぎて、近くにあるモノに頼ったりして(その場に存在したモノごと、思い出の証拠品として封じ込めたい一心)、一発で可愛く撮れるよう必死に演出してしまう傾向にあるというわけです」。

まだ23歳だって。 前途ヨウヨウって感じですか? 応援してます。

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2009年10月 9日 (金)

「ひとつの価値は、対極にある価値によって際立つ」

◇桐野夏生『女神記』(角川書店)読み終える。ギリシア神話の神々はよく知っていたが、日本の神話の神々のことはまったく知らなかった。ギリシア神話に負けず劣らずどろどろに感情的で、ばかばかしいほど壮大な闘いを、女神イザナミと男神イザナキが繰り広げる。発売直後に買っておいたのだが、なかなか入り込めずにいたところ、いったん物語世界の片隅の住人になったら夢中で読み終えることができた。

裏切り、恨み、憎しみ、不寛容、復讐。こういう「闇」の感情を書かせたら桐野さんの鮮やかさはピカ一という気がする。闇の感情は無視したりすべきものではない。闇があって光がある。夜があって昼があり、陰があって陽がある。暗い部分を見つめることで明るさも「明るい」と感じることができる。死があるからこそ生が輝く。あらゆるものが、対になってはじめて世界を動かすことができる、ということを、この神話的な物語は教えてくれる。

(イザナミの言葉として)『天と地。男と女。生と死。昼と夜。明と暗。陽と陰。なぜふたつに分かれたかと言うと、ひとつだけでは足りない。ふたつがひとつになって初めて、新しいものが生まれることがわかったからだよ。また、ひとつの価値は、対極にある価値によって際立ち、互いがあることで意味が生まれるからなのだ』

女神から先に声をかけるのは「まちがい」(?)で、男神のほうから先に女神に声をかけることが「正しい」順序である、というくだりにはちょっと微笑んでしまった。最近の「狩人」系女子にはどう読まれるだろうか、と。

◇携帯サイト「時代のテクスチュア」、なんとか無事に一年間の連載を終えて、スタッフの皆様と打ち上げ@「金田中 草」inセルリアン。ベテランの優秀な編集者の方々がついていてくださったおかげで大きな問題もなく完走できたことに感謝。サイト読者の皆様、一年間おつきあいいただき、ありがとうございました。

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2009年10月 7日 (水)

「すごいテクと噂されてる感」

◇ナンシー関とリリー・フランキーの対談集『小さなスナック』(文春文庫)。買ったのはこれで4冊目くらいかもしれない。前に買ったのはすべて「おもしろいから、読め」とそのまま人にあげて、しばらくしたらまた自分で読みたくなって、買ってしまう。読むたびに違う笑いのツボを発見して、飽きない。今回もやはり読みながらずっと笑顔でいられた(周囲の人はブキミだったかも。ご寛恕)。

福田和子がなぜモテる?の回に、「モテ」の核心をついた指摘がある。

「ナンシー: 実際にどうなのかよりも、『すごいテクらしい』って、こう囁かれることこそが大事なわけなんだね。

リリー: そう。そして男どもの気を引いているんでしょうね。なんだかすごいテクなやつが来たらしいっていうことから始まる。

ナンシー: 歳はちょっと食ってるけど、あの和菓子屋のおかみはすごいらしいって。で、見に行ったりする(笑)。

リリー: 見た人はすごいテク持ってそうだよ、やっぱり、ということになって。その情報だけでモテを操作してんの。

(中略)

リリー: 藤山直美が『すごいテク』をどれくらい演じられるか、でしょうね。

ナンシー: 『すごいテク』というか『すごいテクと噂されてる』感でしょ、正確に言えば。それは難しい。真空投げとか、気功の世界にも通じると思う」。

会話のリズムが最高で、ジャズセッションを聴いているような感じもある。だから繰り返し読みたくなるのかな。少なくとも私にとっては、読んで気持ちのいい対談の理想形。

◇渡辺裕一『小説家の開高さん』(フライの雑誌)。漁師、ヒッピー、絵かき、熊撃ち、骨董屋、文豪など、さまざまな人との一期一会を、小説のようなエッセイのような不思議な形式で綴った短編集。タイトルを見たとたん、開高マニアとしては読まずにはいられなかった。

カイコウケンとともに中華料理を食べ、飲み、しゃべり、釣りをした経験を、読者の私までもが共有できたかのような豊かな描写を堪能。カイコウさんを目の前で見ているかのようなみずみずしい表現はいくつもあったが、自分にとってのカイコウさんの意味というのを再確認させてくれたのが、ラストのシブい段落である。

「新聞を読む。テレビを見る。街を歩く。ゆたかさを目ざして行きついたところに、砂漠がひろがっている。この国は、はたしてどこに行こうとしているのだろうか。などと考えながら、グラスを傾けていると、きまって立ちあらわれてくる丸い顔がある。そして、いっとき砂漠に川が流れだす。その川の上にあのカン高い声が響く。『やりたいことをやり尽くしなさい。飲み尽くしなさい。あとで戻ってきても、何も残っていないのだよ』」。

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2009年10月 6日 (火)

女は他人に似せようと装う

◇英「サンデータイムズ」10月4日付けのA.A.ジルのエッセイより。

「男が女(のファッション)を見るとき、ラッピングとしてしか見ない。『この服を着た私、すてきに見える?』と聞かれても、男が考えているのは『それを脱いだ時のほうがすてきだ』とか、あるいは逆に、『頼むから、それを脱がないでくれ』ということだ」

「女は自分ではない他人に似せようと装う。(中略) 男は、自分ではない他人に似ないように装う」

食のことをメインに書いているコラムニストだけど、ときどきファッションについてツッコミを入れるこんなことも書く。対比のレトリックがすばらしくうまい人である。

◇「サライ」で連載をスタートするため、編集長、担当編集者と打ち合わせ@タイカンエンinニューオータニ。「キラーコンテンツ」が3つ以上あると読者は雑誌を(立ち読みせずに)買う、という時代状況や、サライ読者層の関心が高そうな世界のお話を幅広くうかがう。エッジイなカタカナ語を好まない読者層に嫌われずにキラーコンテンツをめざす、というハードルの高い課題が眼前にそびえ立っている感じ・・・。

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2009年10月 5日 (月)

「化して之れを教うるは、教入り易きなり」

◇朝日新聞3日(土)付けの、磯田道史「この人、その言葉」。過去の偉人のことばを通してモラルを説き続けるこの欄は、必ずチェックするようになった。何年か前ならば、あまりのきまじめさに反発を感じたかもしれないが、現実社会がこうもスカスカな「カネ&自己啓発&成功」ばかりもてはやすような時代には、このくらいのどまじめストレート直球がかえってすがすがしく感じられる。この日は佐藤一斎のことば。

「学を為すには、人の之れを強うるを俟たず。必ずや心に感興する所有って之を為す」。

本人が「これをやりたい!」と意欲をもったら、しめたもの。勝手にどんどん学んでいってくれる。あとは正しい方向を見失わないよう明かりを照らし続けていることと、「常に、見守って、応援している」というメッセージを発し続けてモチベーションを維持してもらうことが、「教える側」に大切なことかなあ。とはいえ、なにが「正解」なのかわからない。いかなる場合にせよ、「教える側」は「教わる側」以上に努力をし続けていないと、すぐに足元を見透かされる。

◇ゼミ生がオクスフォード短期留学中にロンドンの帽子デザイナーを自発的に取材してきました。機会があったら、リポートを見てやってください。

http://meiji-mode.cocolog-nifty.com/blog/2009/10/bernstockspeirs.html

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2009年10月 4日 (日)

生きてるうちにホメておけ

中川昭一さんの突然の訃報に、衝撃を受ける。人がこの世に生きるということはどういうことなのかとずーっと考えさせられた。

やるせなかったのは、マスコミはじめ世間の反応。「優秀な政治家だった」「今後をもっとも期待されていた」・・・・・・。ほんとうにそう思っているなら、なんで生きている時にそう書いてあげなかったのだ? 「酔っ払い会見」のときに、鬼の首をとったみたいに、「完膚なきまで」という勢いでたたきつぶしたのは、いったいどこのどいつだったんだ。

杉本財務次官の講演のメモの時にも書いたけど、きちんとやるべき仕事をしている人に対しては、ホメることばを惜しんではいけないと思う。エリートにかぎって、案外、しょうもないバッシングに弱いのだ。でも、ちゃんと仕事ぶりを認めて褒めれば、とてつもない仕事をしてくれる。そういう人の仕事ぶりを褒めれば、ほかならぬ社会のため、ひいては自分のためになるのである。

きちんといい仕事をしている人だと思えば、正当に、褒めようよ。恥ずかしいことでもなんでもない。単なる「よいしょ」ではない、正当な評価は、大々的に報道されるべきだと思う。ささいな失態の揚げ足取りをして嬉々とエラそうにしてるほうが、よほど人間として恥ずかしい。

生きて、元気で仕事をしているうちに、その人の仕事ぶりを、褒めようよ。死んでから神妙に褒めはじめるなんて、気持ち悪すぎる。

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2009年10月 2日 (金)

ただ流行っているというそのことじたいが

2010年春夏に向けて、ニューヨーク(9月10日~17日)、ロンドン(9月18日~22日)、ミラノ(9月23日~30日)に続き、パリ・ファッションウィークが開催されている(9月30日~10月8日)。パリはやはり格が違うようで、各国の報道も熱を帯びている。ひとりひとりのデザイナーの個性がくっきり伝わってくる。いまはほぼ同時にインターネットで動画中継を見ることができる。舞台裏まで同時に中継するブランドまで登場している。便利な時代になった。でも同時に、ファストファッションが瞬時にこれをパクることが問題にもなっている。

もっとも旬かもしれないバルマンのクリストフ・ドゥカルナン。肩強調のバルマンジャケットを流行させたことで注目をあびるが、こんどは穴あきTシャツである。虫に食われたように、Tシャツにぼろぼろと穴があいている。計算されつくした穴あきなんだろうが、どうなんだろう、これ。流行っちゃうんだろうか。流行っていうのは、美醜善悪まったく無関係に、「ただ、それが流行っているというそのことじたいが、よいのだ」といういかがわしい理由で力をふるってしまうことがある(そんな人間の行動のいかがわしさを暴いてみせるのもファッションの面白さである)。バルマンジャケットの勢いにのって、くるのか、穴あきTシャツ?

やっぱり絶対楽しいのが、ディオールである。インスピレーション源はフィルムノワール。ローレン・バコール風ヘアメイクの美女が、現代風エロスを効かせた40年代風タイトなシルエットのドレスで登場。最後にガリアーノがどんなコスプレで出てくるかというのは常に関心の的だが、今回はボギーに扮していた。いまだに20世紀の回顧展をやっているのかという批判は当然想定されるのだが、でもガリアーノのショウは見ているだけで無条件に笑顔になれる。旺盛なサービス精神に圧倒されつつ癒される、大好きなデザイナーの一人。

そしてパリコレは続く。

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