「服はほんらい他人の視線のためにある」
◇ピエール・ガニエール・ア・東京が、閉店していた。8月31日いっぱいで、ひっそりと。知らなかった。
このレストランには二度だけ、訪れたことがあって、とても強い印象が残っている。モザイクをあしらった壁、ホーンテッド・マンションのようなシャンデリア、鏡の迷宮のような化粧室。
お料理のパフォーマンスも圧巻で、前菜のまえにアミューズメントが5皿でてきたりとか、
メインの演出もひとつひとつ、芸術的で、驚かせてくれた。 スタッフの気配りも細やかで、こちらをリラックスさせながら非日常の「特別感」を味わせてくれた。機が熟したらぜひ、新しい形で再オープンを。
◇大阪で教師のジーンズが問題になっているが、大阪では10年ほど前にも教師の服装の乱れが目に余るというような議論が起きていたかと思う。大阪の学校の現場が実際にどのようなものなのか、見てみないとなんともいえないのだが、こういう問題がでてくるたび、大阪大学総長の鷲田清一先生の『ひとはなぜ服を着るのか』の一節を読み返すのである。
「……ほんとうはどんな服だっていいのだとわたしは思っています。(中略) 服はほんらい他人の視線のためにある。そして、『わたし』の前に他人がどんな服装をして現れるか、服装にとくにかまうかかまわないかは、『わたし』がそのひとにどのように扱われているのかを、想像以上に微細に映しだすものです。『先生にとってわたしたちってこの程度の存在でしかないんだ・・・・・・』と、生徒が先生の服装に傷つけられるということもあるのです。逆、つまり先生が生徒の服装に傷つくということもおそらくはあるでしょう。生徒ではありませんが、はじめての父親参観日に着なれない背広を着ていったわたしの友人は、先生のジャージー姿に、傷つくどころか、侮辱されたと言っていました」
上から一方的な服装規制をするよりもむしろ、こんなていねいな議論を重ねていって、先生方(と生徒さん)に「服を着る意味」を考えていただくよい機会とすればよいのでは、と思う。なんといっても大阪には鷲田先生がいらっしゃるのだ!
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