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2009年9月

2009年9月30日 (水)

身体の限界

◇近所のフィットネスクラブに一日だけご招待いただき(thanks to Satsuki-san)、体験にいく。平日の昼間なのにプールもスパもパウダールームも女性で大混雑。平均年齢は60~70歳ぐらい? これからは女性の4人に1人が60歳以上になる時代であるらしい。時間とお金とエネルギー、そして美と健康への意欲にあふれる「オーバー60」の女性が、今後もっと増えてくるはずである。彼女たちの心をつかめるビジネスなら、繁盛するだろう。

20代の半ばには、将来フィットネスクラブの経営者になろうと半分、本気で思っていた。エアロビのインストラクター養成コースに通い、フィットネス理論をひととおり勉強して、経営者の話を聞き、音響関係を学ぶための設備にもかなり投資した。結局、シンスプリント(疲労骨折)を起こし、中断せざるをえなかった。身体の限界を思い知らされた。数ある挫折の思い出のひとつ。でもたぶん経験はムダにはなってない(・・・・・・とせめて信じたい)。

◇9月も終わり。毎朝目覚めると「(大地震は)昨夜はこなかったのか・・・」とまず思う。どんよりとかすかな不安がぬぐえない日々。サモアでは大きな地震が起きた。他人ごとではない。あとどれだけ生きのびていられるのかわからないが、今月会った方々には、「話をしてよかった」と思っていただけるように誠意をつくした。限界のある命を天から預かっている間は、こんな積み重ねをしていくしかないのかな、とも感じる。支えてくださった多くの方々に感謝。

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2009年9月29日 (火)

トタンの板は かわらない

◇心に引っかかったことばの、備忘録。

東急の広報誌「QUALITE」に掲載されていた、矢野顕子のインタビュー記事より。

「『やりたいことは今やっちゃおう』と、はっきり意識するようになったのは、あのとき(9.11事件)から。いつか、なんて言っているとそのときは来ないかもしれないの。(中略) 身近な人も同じ。危篤になってから駆けつけるより、元気なうちに一緒にお茶を飲んだり、おしゃべりしたりするほうが絶対いいわよ」

◇ヤマシタトモコのマンガ『Love, Hate, Love』(祥伝社)より。

「誕生日ごとに秘密が増える (中略) 生徒たちには あなたたちの先生は自分を諦めてしまっているということ 友達には 本気で消えたいと二度くらい思ったことがあること バレエには もうあなたのことをキライになってしまった・・・ということ」

前向きで効率的・戦略的にいくことばかりが是とされるような薄っぺらい風潮には、正直言って、げんなりすることがある。ときどき、こういう(世間の基準からみれば)ダメダメなヒロインの心情にシンクロしたくなってくる。

◇杉本彩編集『エロティックス』採録の、中島らもの『春夏秋冬』より。

「おれの心はトタンの板よ かわらないのを 見てほしい♪」

さすがの彩さまである。この本に収録されている短編は、セケンが期待するエロティックな話、というステレオタイプをみごと裏切り、しっとりと泣ける話ばかりだった。花村萬月の『崩漏』も、「ああなって、こういう結末になる」とわかっていながら、じんわり泣けて、余韻が深い。

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2009年9月28日 (月)

キンパツにすると、誰も隣に座らない

◇大学後期最初の出講日。ゼミ生の男子一人が、キンパツになっていた。彼が聞かせてくれた「周囲の反応」というのが興味深かった。「キンパツにしたら、電車に乗っても隣に誰も座ろうとしないし、不良っぽい高校生とぶつかっても、向こうから<すいません>とあやまってくる。コワく見られるようになったみたいだ」と。ナカミは変わらないのに。人はかくも「たかが外見」に左右される。

◇予備校の代々木ゼミナールの広報誌を制作するスタッフ総勢5名が大学に取材にお見えになる。「ファッション文化史というのは、どのような学問なのか」という話を受験生向けの記事にするとのことで、できるだけ最新の具体例をまじえて話す。楽しんでいただけたらよいが。任期中に、ファッション文化論の面白さと存在意義を、ひとりでも多くの人に知ってもらうように努めるのも義務のひとつであろうと考える。フリーランスでいた頃は「わかってくれる人にわかってもらえればそれでいい」と気楽にいられたが、職責を預かると、そうもいかない。世のギモンに答える(respond)する責任(responsibility)が伴う。面倒なこともあるが、それを引き受けることで、こちらの覚悟もできて、目も開かれていくところがある。5年前にはそんなこと、見当もつかなかったが。

5年後、何をしているのか、これもまた皆目予想がつかない。

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2009年9月27日 (日)

「服はほんらい他人の視線のためにある」

◇ピエール・ガニエール・ア・東京が、閉店していた。8月31日いっぱいで、ひっそりと。知らなかった。

このレストランには二度だけ、訪れたことがあって、とても強い印象が残っている。モザイクをあしらった壁、ホーンテッド・マンションのようなシャンデリア、鏡の迷宮のような化粧室。

お料理のパフォーマンスも圧巻で、前菜のまえにアミューズメントが5皿でてきたりとか、
メインの演出もひとつひとつ、芸術的で、驚かせてくれた。 スタッフの気配りも細やかで、こちらをリラックスさせながら非日常の「特別感」を味わせてくれた。機が熟したらぜひ、新しい形で再オープンを。

◇大阪で教師のジーンズが問題になっているが、大阪では10年ほど前にも教師の服装の乱れが目に余るというような議論が起きていたかと思う。大阪の学校の現場が実際にどのようなものなのか、見てみないとなんともいえないのだが、こういう問題がでてくるたび、大阪大学総長の鷲田清一先生の『ひとはなぜ服を着るのか』の一節を読み返すのである。

「……ほんとうはどんな服だっていいのだとわたしは思っています。(中略) 服はほんらい他人の視線のためにある。そして、『わたし』の前に他人がどんな服装をして現れるか、服装にとくにかまうかかまわないかは、『わたし』がそのひとにどのように扱われているのかを、想像以上に微細に映しだすものです。『先生にとってわたしたちってこの程度の存在でしかないんだ・・・・・・』と、生徒が先生の服装に傷つけられるということもあるのです。逆、つまり先生が生徒の服装に傷つくということもおそらくはあるでしょう。生徒ではありませんが、はじめての父親参観日に着なれない背広を着ていったわたしの友人は、先生のジャージー姿に、傷つくどころか、侮辱されたと言っていました」

上から一方的な服装規制をするよりもむしろ、こんなていねいな議論を重ねていって、先生方(と生徒さん)に「服を着る意味」を考えていただくよい機会とすればよいのでは、と思う。なんといっても大阪には鷲田先生がいらっしゃるのだ!

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2009年9月25日 (金)

「人まじわりしたら血が出る」

開高健『人とこの世界』(ちくま文庫)読み終える。ケンさまが選んだ「人物」12人を、その作品とインタビューを通して描いた、ことばによる肖像画、といった感のあるノンフィクション。一語一文、たっぷり味わいがいがあるので、一日一人分ずつ、惜しむように読んで12日間かかった。

さいきんの本業界では「さくっと読める」とか「さらっと読める」のがホメことばみたいになっているようだが、そういう類のなかには、なにもわざわざ本にしなくも、というようなスカスカの代物も多くてげんなりすることがある。私はどちらかといえば、一語一文、立ち止まって何度も味わい返しながら次に行かねばならない本、つまり「さくっと読むわけにはいかない」本のほうが好きである。この1冊も、ケンさまパーソナリティ全開のこってりぶりで、真剣に一語一文につきあっていったので、読後の充実感も深い。(それでも、解説の佐野眞一氏によれば、「開高ノンフィクションの中ではずば抜けて抑制がきいている」という部類に入るらしい)。以下、なかでもとりわけ沁み入った表現を、ランダムにメモ。

*広津和郎の「散文精神」を高く評価して、それを後押しするかのように、「常識」礼賛の弁。「たとえば小説家に向って、おまえの作品は常識的だよ、というのは現代日本においては最大の侮辱である。作家たちは必死になってこの言葉をかぶせられないように工夫する。自分の内部にそれを破壊する何の衝動もないのに、ただもう常識的といわれたくない一心で”鬼”になりたがるのである。そこで大量の非常識的常識作品とでもいうべきものが続出することとなり、三行読んだだけで、少し気の利いた読者なら本を捨てて魚釣りに出かけるのである。(中略) 日本人が”常識”という字を見るときに感ずるのは≪おとなしい≫ということだろうと思う。ところがイギリス人はさらにこの言葉についての感性の鍛錬を経ているので、けっして油断しない。彼らにとって≪常識≫は、或る場合、≪抵抗≫や≪主張≫や、ときには≪破壊≫すらも含みうる言葉である」

*「事物の核心はときには事物そのものよりも、そのまわりに漂う匂いのようなもののなかにある。眼のいろや声にそのような匂いを匂わせることのできる人がいる」。

*大岡昇平の回。「残忍ないいかたになるが、戦争のあとではきっと技術文明が”進歩”し、同時にすぐれた文学作品が生まれる。大量殺戮のあったあとに人はかけつけて、『戦争と平和』を生み、『武器よ、さらば』を生み、『野火』を生み、前時代の文学の領域をはるかに深め、開拓し、広げる」。

*武田泰淳の回。「・・・・・・にもかかわらず母は黙々と生みつづけるのである。飢え、かつ殖える。殺し、かつ殖える。殺され、かつ殖えるのだ。人がいなければ戦争もできまい。とすれば、革命も反革命も子宮から排出されるのである。歴史をゆさぶっているのは子宮である」。

*金子光晴を評したことば。「漉しに漉された語群は白い頁のなかで空気を固めたり、ひらいたり、のびのびとうごいた。作者がカンやまさぐりで語を投げださず、容易ならぬ博識の曲者らしいのに思わせぶりやハッタリでメタフォアを使わないのが爽快であった。屈折をかさねたあげくの簡潔は深かった。嘆息。悲傷。嘲罵。沈思。揶揄。白想。いずれも」。

*今西錦司を表して。「どれを読んでもじつに透明である。垢や臓物がないのである。爽やかに乾いている。ときどきむきだしの剛健なユーモアがとびだす。それから局外者の私には知りようのないことだが、博士の文章を読んでいると、ほとんど傍若無人にのびのびしていて、学会にどう思われるだろうか、こう思われるだろうかと右見たり左見たりしたあげく衒ってみたり、謙虚ぶってみせたりという気配が、どうも感じ取れないのである。何かしらそこから吹いてくる風は独立、自尊の気風である。思惑と指紋でベトベトに穢れた文壇の文章ばかりを読んだ眼にはそれがとても気持ちがいい。おそらくそれは博士が即物の人であることからくるのだろうと思う。よほどの生の蓄電が生む透明にちがいない。しばしば非情なまでに透明である」。

*島尾敏雄の回。「おぼえているのはギラギラ射す夏の午後の日光のなかで氏が立膝をしながらガラス皿で生ぬるいウィスキーをすすり、なぜか、ぼそり、『人まじわりしたら血が出る』とつぶやいた声である」。

*同、島尾作品を評して。「凄惨がドラマとしてではなくていくつもいくつもつづいていくことを発見すると、絶望する気力も尽きてくる。絶望するということは或る種の意力を行使することだが、島尾さんは読者から最後の幻覚まで奪ってしまうのである。あらゆる作家は十人が十人、どんな陋劣、陰惨、絶望も、それを文字に移すときには、或る楽しみをもっておこなうのだが、島尾さんも厭悪をどこかで楽しみつつ書いている。傷口に塩をすりこむあのヒリヒリした楽しみである。その気配がうかがえるのでさらにやりきれなくなる」。

*同、島尾敏雄の回。「文字を書くことは一つの選択行為であり、人工であり、詐術である。それが選択行為であるからにはすでに誇張、歪曲の文学的意図が含まれている」。

ほかに、きだみのる、深沢七郎、古沢岩美、井伏鱒二、石川淳、田村隆一、それぞれの人物観察とインタビューによる鋭い像から、各氏の人となりがありありと浮かび上がってきたのだった。個人的には、カイコウ評する今西錦司のレベルは、あこがれである。

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2009年9月24日 (木)

手刀を切る、バッテン印をつくる、グラスを傾ける仕草をする…

「uomo」11月号発売です。ジャケット特集で巻頭言を語っています。機会がありましたら、ご笑覧ください。

本誌カルチュア欄の「今月のOL」という連載が、なんだか女性誌っぽいのだが、ついつい読んで笑ってしまう。今月の「イタい仕草」もおかしかった。「携帯電話をかけるとき、口元を押さえる」「誰かの前を横切るとき、『ちょっと失礼』という感じで手刀を切る」っていうおやじっぽい仕草、ひょっとしたら自分も無意識にやってしまうかもしれん・・・・・とひやり。「ジャケットを人差し指に引っかけて肩に掛ける」のはさすがに自分ではやらないが、ときどきオフィス街のレストランで見かける。なにげなく見すごしていたけど、こうして活字で書かれてみると、ああ、あれってやっぱりへんだったんだ~、となにやらあらためておかしさが生じてくる。

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2009年9月23日 (水)

にこぷちな世界

小学生女子のファッション事情を調べる必要が出て、近所のおしゃれな5年生とそのママにインタビュー。小学生対象のファッション雑誌が存在し、小学生をターゲットにしたメイク用品が出回る時代である。私の子どものころからは想像もつかないほどのファッション状況が生まれている。

ときどき、おとな顔負けのファッショナブルな高学年女子がいてドキッとしたりするのだが、実際、話を聞いてみると、どうも、「(昔より)マセているため」というよりもむしろ、「おもちゃ」の延長感覚でファッションとつきあっている、というような印象を受けた。異性を意識するんじゃなくて、友達との話題の共有のため。みんなと「かわいいよね~」と言い合うために「ピンクラテ」のなにかを身につけたい、という感覚は、みんなと一緒に遊ぶためにDS関連グッズがほしい、という男の子の感覚とさほど変わらない気がした。

おこさまファッション雑誌の影響をモロに受けているんじゃないか?と危惧していたが、案外、子供たちはクールである。「モデルが勉強してる写真が載っていても、まわりに誰も人が映ってないから、これぜったいウソだよね、ってみんなで言いながら見てる(笑)」。おとなのほうがよほど雑誌の話を真に受けていたりして。

「おしゃれな子は、背が高い」という指摘にも、はっとさせられる。子供服ではなく、大人服のSサイズが着られる背の高い子は、おしゃれになるんだと。なるほどな。

ほかにも興味深い発見がたくさんあったが、ほかのデータもいろいろ集めたうえで、後日、あらためてきちんとした場で。

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2009年9月22日 (火)

無機質なスーパーファッションドールの美

野宮真貴さんのリサイタル@恵比寿ガーデンホール。マチネの部。野宮さんとは昨年春の「クロワッサン」誌上で対談したご縁。

「ビューティフル・ピープル」と題されたステージでは、ミス・ノミヤマキがレイチェル、ブリジット・バルドー、オードリー・ヘプバーン、グレース・ケリー、ゼルダ・フィッツジェラルドなどなど、歴史上のファッションアイコンとして名高い美女のイメージにくるくると着替え、歌う。丸山敬太の衣装がかわいくて凝っていて、なんとも楽しいファッション+ミュージック+女の夢、の2時間だった。

とりわけ印象的だったのが、ヘプバーンに扮したパート。「マイフェアレディ」→「ティファニーで朝食を」→「サブリナ」と、あれよあれよという間のマジックのようなアレンジで、舞台上で一瞬のうちに変わる! 電飾プリンセススタイルも圧巻だった。着替えの最中、下着すれすれの姿になってもエロくも下品にも転ばないのは、無機質なファッションドールのようなミス・ノミヤマキのルックスの賜物だろうか(「無機質な質感」というのは、現代の美女メイクに必須の条件のひとつでもある)。

ゼルダ・フィッツジェラルドのパートの演出もよかった。大学で1920年代の講義をするときには、あんなふうにやればわかりやすいかな、と(笑)。

畏友サツキさんのところにホームステイしているアメリカ人のエヴァンを連れて行く。エヴァンはファッションデザイナー志望の学生で、今日も自分で作ったシャツとデニム(ちょっと驚きのハイクオリティである)でコーディネイト。「日本人のアーティストが、異国のファッションアイコンをあんなふうに消化して、オリジナルなスタイルで表現しているのがエキサイティング」だったそう。

「流行と踊り続けることができるのは、大人の女の条件」(正確なことばの記憶、不確か)と言い切って堂々かっこいいこういう女性と同時代に生きていることを、ちょっと嬉しく感じた一日。

帰途、エヴァンに日本のストリートファッションの率直な印象を聞いたら、「なにをアチーブしようとしているのかわからない。有能に見せたいのか、美しく見せたいのか、どう見せたいのかがわからない」と。「個性的に見せたいのでは?」と言うと、「みんなが他人と違おうとして、結果的にみんな同じに見える」と感想をもらしていた。近頃は日本のストリートを「ファンタスティック!」と讃える海外ジャーナリストの意見に慣れきっていたところもあったが、なるほど、そういう見方もあるのか。

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2009年9月20日 (日)

51歳なんて・・・

この数日、まさかまさかねと無事を祈りながら過ごしてはいたが、臼井儀人さんのご遺体が確認された、なんとも悲しくやるせない日。長男、次男、の子育て中を通して、ずっと「クレしん」は親しい心のパートナーだった(今も、である)。子どもたちにとっても、愚母にとっても、これほど笑いを通して「明日もうちょっとがんばれるかも」というエネルギーを供給してくれたマンガやアニメは、ほかにない。51歳なんて、まだまだこれからの働き盛りなのに。なんでこんな不条理なことが起きるんだろう。

どんなに美辞麗句を連ねても臼井さんは帰ってこない。たくさんの名作、ほんとうにありがとうございました。ご冥福を祈ります。

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2009年9月19日 (土)

雑草だって、抜かれたくはないのだろうが

あまりの空気のさわやかさに、庭の雑草とり。と思いたったはいいものの、2か月ほど放置しておいただけで、信じがたいほどの雑草が繁茂している。

「植物だって、食べられたくはないのである(=だから植物は本来、有毒である)」という、「オブザーバー」の科学記者ロビン・マッキーの一節を思い出す。雑草だって、抜かれたくはないのであろう。だから執拗に根をはり、壁に食いつき、フェンスにからみついていく。

意志と知恵と執念をもった(としか思えない)雑草と格闘すること2時間、蚊に刺されるわ陽に焼けるわ爪は痛むわで日頃のケアの努力もまたたくまに無意味になる。

が、眺めも気分もちょっとすっきり。

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2009年9月18日 (金)

シャネルばかりが

「ココ・アヴァン・シャネル」の公開初日。関わったシャネル本に関する朗報が続けて入る。ひと月前に出たばかりの「ココ・アヴァン・シャネル」(ハヤカワ文庫)がもう重版決定とのこと。下巻に解説を書いただけで、版を重ねたからといって解説者に何の利益があるわけでもないのだが、やはりちょっとでも関係した仕事がよい結果をだしてくれると、うれしい。

続いて、7年ほど前に翻訳した「シャネル スタイルと人生」が3刷決定と編集者からの知らせ。2800円とやや高価な大型本なのに、今年のシャネルブームにのって少しだけ広く読まれることになったらしい。読者の皆様に感謝。

シャネル本の解説にしろ、翻訳にしろ、私としてはかなり力を抜いた仕事である。もちろん、力は抜いても、手は抜いていない。万全の正確を期し、誠実に向き合った苦労の多い仕事であったことには変わりないが、書き手・訳者の個性やら思い入れやらを出そうとはしなかった、という程度の意味である。結果、そういう「没個性」「無個性」の仕事のほうが長く読まれていく(力の入れ具合と読まれる量は反比例する。書評の数と売れ行きにもあまり正比例関係はないようだ)。

よい教訓になった。嫌われることなく、広く長く読まれる文章を書くには、私の場合、どうやらよけいな力を抜いた没個性を心がける方がよいようだ。手を抜かずに力を抜く。今後の目標にしよう。

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2009年9月17日 (木)

ヴェストが姿を消していた理由

◇昨日の「スリーピース復活」の話題を、従業員から社長さんまで三つ揃いで決めている高橋洋服店@銀座のタカハシ社長に、他の用事ついでにお知らせしたところ。

「第二次大戦中、節約のために既製服の三ツ揃が禁止になって、
そのまま背広が上下になってしまっただけという経緯があります。
背広は本来、上中下の物なので、
スーツにチョッキが付いてるのは当然と言えば当然なんです」

というお話を教えていただいた。「節約のための三つ揃い禁止」! そういうことがあったとは。

◇薬物で逮捕・保釈された女優の謝罪会見。薬物に手を出したという行為については、法で裁きを受けることになるだろうから、何も言うことはないし、その心の弱さや社会的無責任を糾弾したりする資格も私にはない。彼女に対するスタンスとしてはファンでもアンチでもなく、逮捕されて初めて顔と名前が一致したほどだった。

そういうわけで、とりわけ強い思い入れも偏見もなく、行為の善悪を問題にするつもりもまったくなく、ただ、謝罪会見中、ずっとアップで映し出されていた顔を淡々と眺めていたのである。するとちょっとした発見があった。

「大粒の涙」の美しい落とし方である。

あれだけの量の涙をぼろぼろ流せば、ふつう、ファンデは落ちるわアイメイクはにじむわで、顔は汚くなるものなのだが、彼女はその点を難なくクリアしていた。ウォータープルーフのマスカラを上下にたっぷり、は当然としても、ポイントは、下まつ毛である。うるうるうると涙があふれてきたと思ったら、涙の粒は、長い下まつ毛を通って、ぽたっと丸い「滴」となって、顔にふれることなく、下に落ちたのである。下まつ毛の長さが足りなければ、こうはいかない。

顔を伏せる角度も絶妙であった。正面から見れば、長く濃い上まつ毛が影をおとし、その影から、涙の粒が、はらり、はらりと落ちる。横から見れば、下まつ毛のカーブを通って、涙滴が落ちて行く。顔を汚すことなく。それこそ「マンガのように」涙の粒がきれいに落ちていた。

それが左右各5,6滴ぐらい。あとは顔をあげて話しながら涙を流していたので、ふつうに顔の上に「流れて」いったが、そのときはすでに目元やファンデの崩れよりもむしろ、つやつやのリップグロスを施された口元のほうに目を奪われている。

計算ずくのことなのかどうかは私の目にはわからない。何も意識しなくても、人を魅了するふるまいが自然にできる天性の女優なのかもしれない。結果的に、美しい涙の落とし方というものを具体的に見せてもらった一場面になった。

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2009年9月16日 (水)

スリーピーススーツ、復活か

男のビジネススーツにおいて、ウェストコートが復活している、と「フィナンシャルタイムズ」が報じる(9月12日付)。

イギリス英語ではヴェストではなくウェストコート(waistcoat)と呼ばれるが、発音されると、どっちかというと「ウェスカ」と聞こえる。

ギヴズ&ホークスの、襟つきウェスカを組み合わせたスリーピーススーツが新鮮に見える。胴回りにすっきりフィットするこれは、おそらく、コルセットに似た働きもするはずで、上着を脱いでも、きりっとした姿勢を保てるだろう(めたぼ気味の体型だと苦しいかもしれない)。

注意事項として「トラウザーズを股上深めにしないと、ウェスカとトラウザーズの間からシャツがあふれてくる」とのこと。これはたしかにNGですね。

スーツがもっとも華やかに発達した30年代の大不況期との関連づけをまたしてもおこないたくなる衝動をぐっとおさえ(笑)、スティーヴ・マックイーンが「トマス・クラウン・アフェア」(68年)で着たスリーピーススーツの写真にしばし見惚れる。

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2009年9月15日 (火)

王室とビジネス

◇英国のチャールズ皇太子が、自身のオーガニックブランド「ダッチイ・オリジナルズ」を、スーパーマーケットの「ウェイトローズ」で独占的に販売する契約をした、というニュース。

今後、ダッチィーズのブランド名は「ダッチイ・オリジナルズ・フロム・ウェイトローズ」という風に変わるそう。チャールズ皇太子としては、収益を自身のチャリティ基金のほうへ、より安定した形で回したいという思いがあったようだが。母のエリザベス女王ならけっしてロイヤルブランドを収益目的で使うようなことはしなかっただろう、という批判的な意見もちらほら。今後どういう展開になるのか、見守っていきたい。

◇パトリック・スウェイジの訃報にショックを受ける。日本では「『ゴースト』の相手役俳優」というような位置づけで伝えるメディアが多かったが、アメリカとイギリスの新聞の多くは「ダーティーダンシング」のスターとして報じていた。いずれにせよ、作品名を挙げただけで世界中の多くの人がその顔を思い浮かべることができる出演作品が少なくともひとつある、ということは俳優として幸せなことのようにも見える。でも57歳というのは、あまりにも若すぎる・・・・・・。ご冥福を祈ります。

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2009年9月14日 (月)

メンズファッションにも、「透明性」

◇ニューヨーク・ファッションウィーク関連で目につくニュースが、ヴィクトリア・ベッカムのコレクション。ヴィクトリアが着たら似合いそうな超ボディコンシャスで大胆なドレス(要コルセット)が多いが、今のところ、批評家ウケも悪くないようだ。

それにしても彼女はどこまでいくのか。ポップスター→世界一有名なサッカー選手の妻→三児の母→アルマーニの下着モデルになるほどのファッションアイコン→ファッションデザイナー・・・・・野心も大きいが、それをかなえるエネルギーといい、ストイックなほどの努力といい、ここまでくるといかなるやっかみも寄せ付けないレベルである。あっぱれ。

◇先日、消費のトレンドとして「透明性の勝利」というキーワードがあると書いたが、来春夏のメンズファッションでも、「透明性の勝利」としてくくられそうなものがちらほら。ヒューゴ・ボスのナイロンコート、カルバン・クラインのスケスケのシャツ、アルマーニの半スケのカーディガン、ガリアーノの「アラビアのロレンス」風巻きもの、などなど。

いや、この場合、透明性に重点があるというよりもむしろ、一枚透明なヴェールを通してその奥に視線をさそうことにポイントがあるように見える。上品に透けていたら、どうしたってその奥を想像したくなる。こんなメンズスタイルは、ひょっとしてあれかな、近頃の自称「草食系男子」の、「受け身を装った誘惑」というずるいテクニックと連動するのかな。

断るまでもないが、この場合の透けは、「ランニングが透けてます」の場合の透けとは、ぜんぜん意味が違う透けである。

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2009年9月12日 (土)

「顔は、想像力とか思考の産物」

「フラウ」10月号発売です。連載「ドルチェを待ちながら」で、「虫つき有機野菜と農薬を使われたきれいな野菜、どっちをとるか?」の問題をめぐって、最新の「反・有機」のニュースなどを取り入れつつ書いています。ほか、ジャケット特集でもコラムを書きました。機会がありましたら、ご笑覧ください。

今月の大特集は「顔」で、表紙の後藤久美子はじめ、米倉涼子、中谷美紀、松たか子、土屋アンナ、小雪、といった迫力美女が自分の顔について思うところを語っているのだが、それがなかなか興味深かった。

「人間の顔って、やっぱり想像力とか思考の産物だと思うんです」(小雪)

「とことんブサイクなら面白いけど、中途半端なブサイクだと見る方も気持ち悪いじゃん?(笑)」(アンナ)

「自分が思っているものと、表に見えているものに少し誤差がある。それは楽しいこと」(中谷)

後藤久美子の美しさと強さと語る言葉はもう別格で、ただただ感心するばかり。生まれつき美と強運に恵まれている雲の上の人といった感じ。スーパーモデルのジゼル・ブンチェンも、ついこの間、産休中の気晴らしのサッカーくじで1億円ほどあてたとか。日頃の年収はその20倍以上だったりするから、本人にとってはたいした額じゃないのかもしれないが。こういう「神々」レベルになると、美が強運を呼び、強運がますます美を高めていくんですねえ・・・・・。

女神の話はさておき、一般人の参考になる(かもしれない)話としては、茂木&椿姫対談の次のひとことがおもしろかった。

「顔の美醜じゃないんだよね。アイコンタクトしたときの目の合わせ方、そらせ方でわかるんだよ。その女性の心にゆとりというか隙間があって、自分に関心をもってくれる余裕があるかどうか、そこに入りこめるかどうか。『どうせ私なんて』とやさぐれていると、男性からすればバリアを張られているように感じるんだよね」(茂木)

これは男性についても言えることですね。もっと話してみたい、と思わせる人は、美醜関係なく、「入りこめるゆとり」みたいなものがある(これが過剰だと引いてしまうが)。男女間の関係ばかりじゃなく、友情とか、師弟関係とか、仕事上の信頼関係なんかも、適度の「隙」をもっていたほうが始まりやすい気がする。

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2009年9月10日 (木)

ブレインストーミング

「プラチナサライ」のカツラくんとブレインストーミングを兼ねたランチ@ニューヨークグリル。快晴でパークハイアット日和である。52階からは東京タワーも眼下に見える。

カツラくんとは「ラピタ」(淋しいことに休刊)にいらしたときからのご縁。反トレンドの方向で骨太な雑誌をつくりたいと考えている、仕事熱心で礼儀正しい編集者である。まだ若いのに。というより、若いからか。前回会ったとき、「こんな雑誌をつくろうと思っている」という話をじっくり聞いていたら、それから半年ほど経って、「ルート (ru:t)」という、「永く愛する」ことをテーマにした、寿命の長い個性的な雑誌を世に出した。

今回も、アイディアが頭にあふれるほど渦巻いていたようで、私はもっぱら聞き役である。話しながら考えがまとまっていくタイプらしく、時折、こちらが引き出し総動員で「こういうことでは?」と聞き返していくと、話がまとまり、発展していくみたいである(書きながら考えがまとまっていく私とはまったく違う資質である)。話はほんとうに上手で面白いので、大学の後期の講義に一度ゲストスピーカーとして来てもらうことにしたほど。遠からずまた、独自性のあるものを世に出してくれるだろう、と期待する。

カツラくん的には、私に聞き役になってもらって、助言と後押しを得られれば、自信にもつながるようだ。私にとっては、最新未加工の情報や斬新な発想に対する自分の感性を試されるいい機会となる。時折、こういう役回りをしていると、若い芸術家を支援していた18世紀のサロンの女主人の気持ちがうっすらわかったような気になる(彼女らのような影響力はぜんぜんないけれど)。

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2009年9月 9日 (水)

「人類の発展を阻害してもいい」

堀井憲一郎さんの『落語論』(講談社現代新書)読み終える。ディープに落語について書かれた本ながら、日本文化の見方をめぐるヒントや、広くパフォーマンスや表現に関する考え方のヒントが得られて、学ぶところが多い面白い本だった。

落語は花火と同様、その場を共有するライブとしてのみ存在しうるもので、文字や映像などのメディアを通して伝えられたものは落語ではない、ということ。落語に「深い意味」「核となる真実」などない、という点では、近代の原理に無言で抵抗する芸であること。場を共有することで成立するという意味では、「オレオレ詐欺」に通じるペテンのようなものであること、などなど。さらに以下、心に引っかかった点のメモ。

・落語には本来、タイトルはない。「符牒」があっただけ。仕事でしかたなくつけられた呼び名でしかない。意味ありげな長いタイトルをつけて人とは違うんだと力がはいってる作者なんて、子供にめちゃくちゃな名前をつける親のようなもの。「タイトルは道具であり符牒である」。

・登場人物にも名前がない。ニックネーム、呼び名があるだけ。人の内面とはつながっていない。統一性もなく、共通項を見つけ出す必要もない。これは「キャラクターを持たなきゃいけない病」とも連動することだが、一方向に統一性をもつことを示し続けなくてはいけないなんて、幻想だし、そんなのはもはや人間ではない。「落語は”厄介な存在である人間”をそのまま反映したものである。矛盾しているし、言ってることとやってることが違っている。言うことは変わるし、場面によって行動も違ってくる。それが落語である。そこに『統一性のあるキャラ=特徴的な性格と行動』を持ち込むと、落語が持ってる場が崩れる。ただのわかりやすい単純喜劇になってしまう」

・「サゲは合図でしかない」。「ここで落語が終わった、はい、あなたたちは現実に帰りなさい、という合図として、摩訶不思議な世界を作って案内したものが示しているわけである。ふつうの落語にしても、サゲがあるほうが、終わった感じがしていい、ということだ。サゲにはそれ以上の意味はない」

・落語にはストーリーもあらすじもない。落語は体験である。

・落語はペテン。「架空のもので人を騙すためには、なるたけ狭い所に大勢の人を閉じ込めて、生の声で語りかけるのがいい。ヒットラーは、夕刻から屋外で演説を始め、徐々に暗がりになっていくなかでライトを自分に集中して当てさせ、意味はよくわからないけどなんだかすごい、とおもわせることに成功した」。こういう基本的なペテンは、映像を通すと効き目が弱まる。

・「本当は客全体に『好かれたい』のであるが、みんなに好かれようとすると、なぜか嫌われてしまう。雑多な意識の混合である客全体に『好かれる』のはとてもむずかしい。だから、『誰にも嫌われていない』というのが理想の状態なのである」

・「客との和を以って貴しとなす。落語家の心得第一条である。ただ、形而上的な理想的な“和”をめざさなくていい。善である必要はない。その場かぎり、身過ぎ世過ぎとしての”和”である」

・「客との和を以って貴しとなす、ということは、客に彼我の区別をなるたけ感じさせないほうがいい、ということである。つまり、演者と客であるという距離をなくす。自他の区別をなくす。自他を感じさせないというのが、落語の究極の目的である」

・落語は近代的発展とは無縁のもの。「停滞期」のもの。現在、落語がブームになっているが、それも「20世紀的経済活動の発展が頭打ちになったからだろう。19世紀半ばから150年をかけて、日本人が駈け上がってきた頂上がこれだったのか、そうか、おつかれさんでした、という空気が、落語への流れをつくっているのだとおもう」

・ただ、「停滞」そのものも西洋さんのもんで、東洋は、もう少し無理をしない。ぐるぐるまわるだけで、上に向かっていない。

・「細かに分解し、全体像を捉えられなくなっても、核と法則を見つけ出そうとするのが近代的思考である。(中略) うちは猿と一緒にやっていける。だから、物事を芯まで剥かなくても生きていける」

・「落語が見せるのは『人として生きる全体像の肯定』である」

・落語は近代が主張する普遍性を拒否する。広げるな。「人は、さのみ、広がらなくてもいいだろう、という主張である。インターネットで世界につながり、飛行機で世界中へ飛べ、いつでも携帯電話でどことも連絡をとれようとも、人間一人の大きさは変わらない」

・「この顔を人前に晒して、それでおあしをいただいてるんだ、というのが顔に出てればよろしい」・・・それが「顔ができてる」ということ。「顔は看板である。大事な商売道具だと自覚しておかないといけない。顔のできてない芸人は、芸もまずい」

・「落語は集団トリップ遊戯」

・「その和は、その場でさえ納得できればいい。人類の発展に何も寄与しなくていい。人類の発展を阻害してもいい。いま、そこにいる人たちだけの和を貴いものとする。そしてその考えかたは、おそらく日本の芯とつながっている」

講義や講演のときにも応用できる考え方である。「何を話すか」もさることながら、「どう話すか」のほうが圧倒的に重要という点、落語がお手本になることも多い。場数を多くふんでいくしかないのだけれど。

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2009年9月 8日 (火)

「3週間後」が次々にやってくる

クレアトゥール@表参道店でカラーとヘアエステ。ここ数日、微プリン状態が気になって出かけるのもおっくうという状態だったので、ちょっと一息つく。

たかがモノカキの見た目なんてだれも気にも留めてはいないことは重々承知しているのだけど、年を重ねていればいるほど、ほんのちょっとのケアのひと手間をかけるかどうかで、人に会うときの安心感や余裕、ひいては相手に対する思いやりの温度にまで差がでてくることがある。ばかばかしいことだが事実なのだ。ジェルネイルが一本崩れていた場合、恥ずかしくてコーヒーもおちおち飲めないことがある(くどいが、ほんまに、ばっかみたいだと自分でも思う)。

末端のケア時期はほぼ3週間サイクルで訪れる。ヘアカラー、ジェルネイル、フットケア、アイブロウ、まつげ、デンタルクリーニング。この期間を過ぎると、急速に末端は、ばばっちくなり始める。末端が汚いと、人は一気に「老け」の印象を強めていく。「老い」は粛々と受け入れるけれども、「老け」の印象にはできるだけ抵抗したいという思いがある(20代でも、怠惰な考え方と生活からか「老け」ている人もいれば、80代で頭髪などなくても決して「老け」てはいない人もいる)。

おそらく、10年後、20年後には、(無事生きていればだが) ここに内臓や骨や関節や血管などのケアが加わることになるのだろう。次から次へと訪れる「3週間後」に、「同じ位置にいるために、常に走り続けなくてはいけない」回転輪っかのハリネズミになったように感じることがある。

こんなふうに忙しくしていれば、「考えてもどうしようもないけど、今は直面したくはない」本質的な問題から、とりあえずは目を逸らしていることができる。いいことでは決してないとはわかっているが、目を逸らすことで、「少なくとも不幸ではないかもしれない」状態が当面はかろうじて維持できる。この状態がどこへ自分をもっていくのか、「降りる」ことができるのはどんなときか、せめて「自分の中の、他人の目」を失わないよう、観察し続けてみる。

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2009年9月 7日 (月)

「友愛ファッション」に期待

「WWD」9月7日号(vol.1542) 最後のページの「鳩山新総理に着てほしい『友愛ファッション』はコレだ!」が、おもしろかった。

鳩山さんの顔写真と、4種類のハデハデなファッションの写真が合成してあるのだが、それがもう、似合いすぎて素敵すぎて・・・。(こういう合成写真は、肖像権上だいじょうぶなのかな?とちらっと心配になったが)

パーティーでドルチェ&ガッバーナのピンクのタキシード、スキー場でモンクレールの赤青ライン入り真っ白のスキーウエア、ジャパンをアピールするスタイルとして東コレブランドのヨシオ・クボの赤&黒スーツ、ジョン・ロレンス・サリヴァンのゴールドの「宇宙人」ジャケット。鳩山さんなら、なるほど、ぜったいに着こなせるな~と半ば真剣に期待してしまう。

鳩山夫妻の、海外での公式行事のファッションがなんだか楽しみになってきた。

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2009年9月 6日 (日)

「好きな服を着てるだけ、悪いことしてないよ」

腑に落ちたことばのメモ。

◇山崎正和さんの「リーダーも熱狂もないまま揺れたポピュリズム選挙」(「朝日新聞」9月2日)より。

「(ポピュリズムの定義として)ここでは『ある問題を、主として否定することをテーマに、大多数の人がムードに乗って一気に大きく揺れること』としましょう。人々が互いに過剰に適合しあって、雪だるまのように世論が形成されていく、そういう状態です」

「あるいは、シェークスピアの悲劇『ジュリアス・シーザー』が教えてくれます。古代の民主制ローマで、民衆がわーっとあつまって『殺ってしまえ』と叫ぶ。しかし、演説者がかわると次の瞬間、逆の方向を向いて『あいつを殺ってしまえ』となる。まさにこういう動きです」

「ポピュリズムは、人間はどう振る舞ったら良いかが暗黙の了解として存在している時には発生しません。不安な時代、あるいは既成の秩序がゆるんだ時に起きやすいのです」

「たとえば携帯電話で見るニュースは非常に速いものの、断片的であることが特徴的です。何が起きたかはわかっても、それはなぜなのか、背景や構造は教えてくれません」

「娯楽や芸能の世界でも同じことが起きています。すぐ面白い、すぐわかる、そういう速効性が求められ、面倒くさいドラマはテレビの世界でも減っています。長期間訓練し、ある構造を持ったドラマを演じるような役者が減り、筋書きなしになんでも出来るタレントが増えています」

「即反応、即断定、二者択一。そうした性向を持った多数の人々が、時代の『空気』を読んで行動したら、その集積は巨大な変化を生むでしょう。私は『世論形成の液状化現象』と呼んでいます」

時代のムードを正確に言語化した、論理的で明快きわまりない文章。山崎さんの文章は20代のころにずいぶんお手本にしたが、今なおますます健在の筆力で、頼もしい。

◇川上未映子さんの「おめかしの引力」(「朝日新聞」9月3日夕刊)より。

「似合わなさって他人と自分のどっちを主軸にした感覚なのか。頭にりぼんつけてる人を見るに付けて『自分にも当然出来るおめかし』だと信じて疑わなかった自分っていったい何だったのか。今回のりぼんに関しては単に『似合わない』だけじゃない、何か『世間に申し訳がたたない』感じも確かにあって、極控え目に言ってショックだった・・・」

「『好きな服を着てるだけ、悪いことしてないよ♪』なんて歌もありましたが、悪くなくても、無理なことって、遠慮した方がいいことって、あるんだね! りぼんで諸々における時の過ぎたるを知ってしまったインサマー」

なにを書くか、っていうより「どう書くか」っていうことが問題ということをあらためて教えてくれる快文。一文を無作為に抜粋しただけで、あ、あの人の文章だ、と誰にでもわかる。それを若くして極めている川上さんは、とても幸福な作家だと思う。

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2009年9月 5日 (土)

フットボウラーのように果敢に

◇秋冬シーズンの女性モードで顕著なのは、すでに報じられているとおり、「80年代風」のビッグショルダーである。

・・・が。BGMに流れる音楽が80年代なのでそっちにひきずられがちだけど、よく見ると80年代の肩ではない。当時の方は、「幅広」という印象だったが、今年の肩は、どっちかというと、水平方向あるいは垂直方向に、とがったようにせりだしているのだ。決して「幅広」ではないのである。むしろ、やや幅を狭くしたアメリカンフットボウラーの肩、といった印象。

この、スリムなのにとがったような肩に近いのは、80年代ではなく、40年代ではないか。当時もまた、経済的には厳しい状況だった。逆境に対し、フットボウラーのように果敢に立ち向かおう、というのが当時と現在に共通するファッションのムード・・・・・・と見たくなる。

◇1日と今日のアクセス数が異様に多くてなにごとかと驚いたら、テレビ番組が放映された日だった。うちにはBSが映らないので自分でまだ見ていないのだが、視聴者の方にとって時間のムダではなかったことを祈りたい。見苦しい点があったら、なにとぞご寛恕ください。それにしてもテレビの影響がこれほど大きいとは。どれだけ多くの活字を書いても覚えてもらうことは至難のわざだが、一瞬の映像のほうに、人は反応する。なんだかな。

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2009年9月 3日 (木)

透明性の勝利

これもこぼれおちたネタ。政治でも、会社や学校の経営でも、商品の販売においても、芸能人のプロフィルでも、透明性を高めたほうが信用につながり、客が集まる、という「トレンドウォッチグ・ドットコム」のリポートがおもしろかった。名づけて、透明性の勝利(transparent triumph)。

商品のレビューサイトとか、質問がきたら即対応するカスタマーサービスの体制とかもそうか。なんだか買う前から、行動する前から、先が見えているようなスケスケ感に現代人は安心するんだろうか。

私は何かを見たり買ったりするときに、レビューサイトは努めて見ない。「みんなの意見」の「みんな」にだいたいはあてはまらないあまのじゃくということもあるが、まったく情報がない状態でモノや作品に接するほうが、自分のほんとうの反応と向き合う冒険(というとことばがデカいが、未知のものに向かうワクワク感という程度のニュアンス)にもなるし、自分にとっての価値を問う訓練にもなる気がするのである。いろんな人の意見を読んだり聞いたりするのは、「あとから」のほうが、がぜん面白い。

政治や会社や学校を選ぶときは、もちろん、ある程度事前情報が多い方がいいと思うが、それにしても、透明性に悪乗りしたとしか思えない、偏狭すぎる感情的な情報まで同じ「情報」として並列されるのはいかがなものかと思うことがある。

だから逆に、情報をすべて丸飲みせず、そこからノイズを排除していく読解力を高めていかなくてはならないことになるはずだが、それを面倒と感じる人が多いのか、ノイズばかりかノイズでないものまでカットされた、シンプルすぎるスローガンがもてはやされていく。「ユウセイミンエイカ」とか「セイケンコウタイ」とかもその一例。タイトル以上のことは何も語っていない「ベストセラー」とか。

透明性が勝利し、たくさんの情報が質にかかわりなく量として集まりすぎる時代には、皮肉なことに、単純きわまりない一つの「透明すぎる」スローガンに大衆は群れる。こんなんでいいのか。

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2009年9月 1日 (火)

マルゲリータミックスにひたしたパンって

「フラウ」連載原稿用に探していた時事ネタ候補から、こぼれおちたものをメモ。いつかどこかの機会で生かせることを祈りつつ。

☆KIPPERS (Kids In Parents' Pockets Eroding Retirement Savings)

英「タイムズ」の記事。イギリスにおいて、20歳から34歳の男性のほぼ三分の一が両親と暮らしているのだそう。そういう層を、キッパーズと呼ぶ、と。両親の老後の貯蓄を切り崩しているキッズ、の意。長引く経済不況で、独立したくてもできない息子が増えてきたことが背景にあるようだ。問題も指摘されていて、キッパーズのほうが暴力的であったりうつ病になりやすかったりするらしい。

☆Philanthropic hedoism

これも英「タイムズ」。クールなチャリティーパーティーの流行を称して。慈善快楽主義。現在流行中の「社会貢献」、サンフランシスコ発の「キャロットモブ」のメンタリティもここにあると感じたので、これらをつなげて、その関連をきちんとした原稿に書いた(来月発売の「フラウ」)。ベタでなんの恥じらいもないフィールグッドな慈善活動の流行に、すっきりしない引っかかりを感じている。

☆ficando

だいぶまえ、5月の「タイムズ」。マドンナと、新しい「愛人」のブラジル人の関係を、ポルトガル語の「フィカンド」と表現。ラヴァーでもなく、ボーイフレンドでもなく、フィカンドである。「キスしたり、それ以上のこともしたりするが、互いに誠実である義務はないし、深い関係にも陥らない」のがフィカンドだそう。ま、マドンナならばどんな関係だってアリだ。

☆bread soaked in margarita mix

ひとりで食べるとき、何を食べるか? 他人が見ていなかったら、何を食べるか? これをセキララに調査した本が出たそうだ。What We Eat When We Eat Alone. 「マルゲリータミックス(ピザソース)にひたしたパン」というのはその一例。これは英国版だが、日本で調査したらぜったい面白い気がする。おそろしげな食べ物がぞろぞろ出てくるのではと思うのだが。はたして調査に協力してくれる人はいるだろうか。

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