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2009年8月

2009年8月31日 (月)

「フツーにキレー」の「フツー」って何!?

久保ミツロウ『モテキ』1,2(講談社)。彼女いない歴=年齢の30男の周辺の感情を、生々しいまでリアルに描いているマンガ。かっこいいヒーローもモテモテ美女もでてこないけど、いかにも現代に「ありそう」なエピソードが本音とともにちりばめられていて、引き込まれる。主人公のダメダメ男のつぶやきが、ダメな自分の心の中を代弁してくれているように感じることも多くて、共感しすぎて痛かった。

「人の何倍も頑張んなきゃ 俺みたいな奴ありのままじゃダメなんだ だから三十年誰からも好かれやしないんだった」

「あ~~死にたい 超死にたい」「なーんてウソウソウソ~~ こんなチンケな理由で死にたいなんて 本気で苦しんでる人に失礼だよなー うんうんわかってる わかってるよー でももう疲れちゃったよー どこか遠くに消えてしまいたいよー」

こういううじうじした思考回路そのものがいかんのだということは理屈ではわかっているんだけど、つい逃げ込んじゃうんだよねえ、そういう安易なところに・・・。

タイトルは、作者(女性)のあとがきより。名セリフ。

台風とともに8月も終わり。今月は醜態をさらした場面が多くて、自分の力のなさとかツメの甘さとかみっともなさを寒々しく突きつけられた。でもそんなこと、他人からみれば全くどうでもいいことばかり。自意識があるから苦しくなる。忘れて次。無我の境地を淡々とめざすことにする。

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2009年8月30日 (日)

ゴールは死。策も何も弄さず、だあっと

◇心にひっかかった言葉の備忘録。朝日新聞夕刊、「人生の贈りもの」by 仲代達矢さん。8月27日(木)夕刊。

「人間とは何者か、自分とは何者かを知った上で、一人前になってほしい。『人間っていいな、悲しいね、おもしろいね。でも人間はすてきだ』という芝居ができる役者になってほしい。ここを出たからには、自分でおもしろいことを言って、自分で手をたたくようなタレントにはなってほしくない」。

「俳優は鮮度が大事なんです。常に洗い直していかないと、キャリアと引き出しだけじゃ勝負できない」。

モノカキだって一緒だろう。息の長い、信頼される仕事を続けていくためには、常に「洗い直し」を意識的にしていかないと。

◇同欄、8月28日(金)夕刊。

「映画やテレビは、いわば『のぞき』ですよ。経験のない俳優さんに目をつぶらせて、カメラを回し、目を開いて『はい、カット』で、つないでいくんですから。演技力がなくても映像はなんとかなる。でも、芝居はそうはいかない」。

「鮮度を保つことを忘れない。おごらず洗い直して勉強して、『おもしろきもの』『めずらしきもの』を追い求める。(中略) ゴールは死。策も何も弄さず、だあっと思いのままに走る。落馬したっていいんです。これからがおもしろいじゃないですか」。

ゴールは死。この覚悟があのすばらしい仕事に通じている。ほんと、がんばっても、がんばらなくても、等しくゴールは死なのである。だったら、だれがなんといおうと、外野の評判なんて気にせずに、思いのままにいったほうが勝ちだ。落馬したって、外野のひやかしなんてほんの一瞬。知ったことか。だよね。

◇ENGINE10月号、河毛俊作さんのエッセイより。

「己を知らないままに、ハリウッドセレブの普段着を研究し、雑誌の薦めるモードブランドのセクシーであるらしい服を買い求める。ジムで鍛えたりスキンケアに精を出したりもする。トゥールビヨン搭載の超高級時計を購入し、更にリッチな人々はヨーロッパの超高級車も購入する。その結果、ホストのような医者やプロレスラーのような弁護士、ラスベガスでショーをやりそうな税理士などが誕生するが、真にセクシーな男は誕生しない」。

「江戸時代の諺に、『目病み女に風邪ひき男』というのがある。目を病んだ女と風邪をひいた男はセクシーであるということだ」。

「やるべき何かが終わって虚脱し、無になった瞬間、あなたは女性の目からセクシーに見えている筈だ。(中略)冷静でストイックな男が静かに崩れていく時にセクシーさというものが生まれる。結論を言えば世の中に派手な服や露出の多い服は存在してもセクシーな服などというものは存在しない」。

さすが河毛さん、ずばっと言っちゃいましたね~といった感。メンズファッション誌に関わっているスタッフやライターだって、心の中ではわかってるのではないかと思う。「セクシーといわれている服を着るだけじゃあ、セクシーにはなれない」ってこと。でもそれを「セクシー」っていうことにしないと、服が売れない→広告が入らない。でもって、誌面では理屈を展開しなくてはならない。矛盾だらけの仕事だと思うが、どんな仕事にだってそんな一面はあるだろう。矛盾に満ちた状況とたわむれたり、変わらぬ状況を突き抜けたりする理屈を考える過程も、それはそれで、なかなか楽しかったりはする。

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2009年8月29日 (土)

荒唐無稽なうそくささを支える、どろくさいヒューマンタッチ

早く来てほしいような、まだ来てほしくないような、この日がついに来てしまった。『20世紀少年 最終章 ぼくらの旗』初日。壮大で荒唐無稽な3部作がやっと完結した。

どこまでも先が読めない、驚きのエピソードが次々と展開して、2時間半、一瞬たりとも飽きさせない。おどろおどろしいSFに見えたものに、実は原初的でどろくさいからくりがあり、未来に起こるハチャメチャなことの根本的な原因が幼少期の記憶のなかにある、といった過去と未来のつながりを見せる編集がすばらしく、ここ数年で見た映画のなかではダントツにおもしろい。おもしろすぎる。

たとえば、ケンジとオッチョが協力してロボットを倒す場面で、幼少期の同じようなできごとの映像が重ねられるシーン。そうした過去と未来のつながりがドラマティックで、うそくささすれすれの話にヒューマンな厚みが出ている。

原作のマンガのラストでは今少し物足りないなと感じていた部分を、映画ではきめこまかくフォローして、新しい解釈を加え、物語をより濃密に、ふくらみのあるものにしている。観たあとに残るのは、驚き、哀しみ、興奮、やるせなさ、やさしさ、わけのわからないいろいろな感情が深いところでつながりあう、長い余韻。「ともだち」じゃないけど、「終わっちゃうの、いやだ~」状態である。

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2009年8月28日 (金)

高度な技術を通して感情を伝える

渡辺敬子さんのピアノ・リサイタル@青葉台フィリアホール。敬子さんは東京芸大卒業後、ローマにピアノ留学7年間、ペスカーラ国際コンクール最高位受賞はじめ、数々のコンクールで賞をとっている優秀で美しいピアニストである。次男のピアノの先生のお嬢様、というご縁。

モーツアルトのピアノソナタ変ロ長調ほか、シューマンの幻想小曲集、ショパンのバラード第一番、ラフマニノフの6つの楽興の時、など、難度の高い曲の数々で、圧倒的な貫禄のピアノを聞かせていただいた。

きびしく芸を積み重ねていくことの大変さとすばらしさ。高度なテクニックを通して時代や国籍を超えた普遍的な感情が伝わってきた。敬子さん、ありがとう! 

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2009年8月27日 (木)

華やかメンズと、大不況期

「uomo」ジャケット特集巻頭言のため、編集長はじめ編集部スタッフから取材を受ける@表参道ヒルズ「ビスティーズ」。

ファッション誌、とりわけメンズ誌は、毎年、同じ時期に似たような特集を繰り返しつつ前年との違いを出さなくてはいけないので、ほんとうに大変だと思う。でも作るスタッフが違い、世の中のことを敏感に(というか、なかば強引に)反映させると、毎年違う「物語」を生み出すことができる。

今年のメンズジャケットは、大胆なチェック柄など華やかなものが目立つのだが、大不況期30年代にも似たようなことが起きていて、その関連づけをしていく過程がなかなか楽しかった。ファッションのことをよく勉強しているスタッフの質問のしかたが絶妙で、議論をしているうちに、自分でも「思いもよらなかった」因果関係が見えてきて、かえってこちらが学ばせていただいた気分。感謝。

「ビスティーズ」はちょっとした穴場であった。ヒルズで打ち合わせというときは「トラヤカフェ」が多く、B3まで降りてみることはなかった。ワイン・バーみたいなこの店には、ひとりワイン、ひとりシャンパーニュしている客も多く、雰囲気もいい。

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2009年8月26日 (水)

贅沢の起源に、違法恋愛あり

ヴェルナー・ゾンバルトの『恋愛と贅沢と資本主義』(金森誠也・訳、講談社学芸文庫)読み終える。買ってきてから本棚を見たら、すでに以前に同じものを購入していることに気がついた。途中で挫折していたらしい。しおりを見たら第二章の「大都市」の途中にはさんである。洋もの翻訳学術書特有の堅さになじめなかったのだ(それでも、この本を「軽めで読みやすい」と言っている方が少なくないことをおことわりしておかなくてはならない)。

今回は資料として必要というせっぱつまった目的もあり、気合いを入れて読んだ。第三章「愛の世俗化」、第四章「贅沢の展開」を先に読み始めてから最初にもどると、文体にも慣れて、すんなり入っていけたようだ。非合法的な恋愛、そんな恋愛に対する欲望と憧れが、贅沢を広め、資本主義を発達させ、劇場やレストランのある大都市を発展させていく・・・・・・という骨子はなんとかつかめた。

現在、私たちが享受しているような都会生活のメリットや、シーズンごとに変わるモード、かわいい小物やおしゃれなインテリア。そんな「あたりまえ」にさえなった「奢侈」のそもそもの起源が、違法恋愛にある!というのがなんといってもおもしろかった。「恋愛における違法原則の勝利」という見出しがいい。贅沢の発達・都市の発展に寄与したのは、合法的な愛(結婚)ではなく、違法な恋愛である・・・というのは、現代における、愛人とのおでかけ情報誌の盛況などを見ていても実感することである。以下、とくに引っかかったことばの覚え書き。

「愛妾経済」

「優雅な娼婦が進出してくるにつれ、折り目正しい婦人たち、すなわち上流階級の婦人たちの趣味の形成も、娼婦的な方向に影響されていった」

「個人的奢侈はすべて、まず感覚的な喜びを楽しむことから起こった。(中略) 感覚の喜びと性愛とは、結局、まったく同じものである」

「富がつみかさねられたところ、しかも愛の生活が自然さながらに、自由に(あるいは奔放に)くりひろげられたところでは、贅沢もまかりとおることとなる。ところがなんらかの理由で性生活の展開がはばまれた場所の富は、消費されるのではなく、物質の所有、すなわち財貨の蓄積、しかもできるだけ抽象的な形をとって、まずは未精錬の貴金属、そしてやがては貨幣を蓄積するためにだけ使われることになる」

「奢侈が一度発生した場合には、奢侈をよりはでなものにしようという他の無数の動機がうずきだす。野心、はなやかさを求める気持、うぬぼれ、権力欲、一言でいえば他人にぬきんでようという衝動が、重要な動機として登場する」

「(メルシエの引用)次から次へと新奇なものをめまぐるしく味わったところで、ふきげんな気分だけをもたらし、愚かな出費がかさむばかり。これがモード、衣装、風俗、言語を問わず、すべてのことがただ意味もなくつねに移り変わっていく根拠となっている。裕福な人々は、やがて何も感じなくなる境地に達する。(中略)欠乏が貧者を苦しめるように、奢侈が彼らを苦しめているのだ」

「すべての奢侈を生む二つの衝動力―野心と感覚の喜び―は、他人にこれみよがしにみせつけようとする贅沢を発展させるさいに、手をたずさえてくる」

「奢侈の一般的発展の傾向 (a)屋内的になっていく傾向 (b)即物的になっていく傾向 (c)感性化、繊細化の傾向 (d)圧縮される傾向(時間的な意味で。テンポが加速される)」

「初期資本主義に女が優位に立つと砂糖が迅速に愛用される嗜好品になる」

「bijoux(小間物)は、当時は狭い意味での装飾品でなく、いわば金ピカの遊び道具、貴金属と貴重な労働でつくられた小さな宝であった」・・・つまり、現金はうけとらないけど、貴金属の小間物ならうけとるという恋人のために、紳士が買ってあげる贈り物がビジューだったわけである。<自分にごほうび>というビジューがやや切ない気がするのは、こういう起源による!?

「年寄りの独身者に見られるような情熱的な美食癖は、性衝動の一種の抑圧ではあるまいか。それなら男性の美食癖というのは、独身の老婦人がネコをかわいがるようなものではなかろうか?」・・・男ひとりでレストランを食べ歩いている美食家に、ぼんやりと感じていた違和感の正体は、これだったのか!

ルイ14世がヴェルサイユ宮殿を建てたのは、愛妾ラ・ヴァリエールへの愛情ゆえだった。多くのきらびやかなビジューは、男から女への愛の贈り物としてつくられた。モテる女は文化の発展・都市の発達・資本主義の進展の原動力だったのですね。でも、21世紀には家もビジューも自分で買えちゃうたのもしい女性が増えている。こんな女性が経済の「主役」になるにつれて、女から男への「現金に代わる贈り物需要」が増えてきたりなど、新しい奢侈文化が生まれてきそうな気配(ホストクラブなどではすでに常識?)。

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2009年8月24日 (月)

「おしゃれな店やブランドに詳しい」は、不必要

携帯サイト連載の最終章のための資料をまとめて読む。婚活とファッション、モテとファッション、エロスとファッションっていうのは、実際のところ、どういう関係があるのか、ないのか。婚活にもモテにもエロスにもまったく縁がない、地味~な書き手としては生活実感を欠いたところからスタートすることになるのだが、それゆえ逆に、「なまぐさく」なく、主観やルサンチマンに流されずに書ける、というメリットはあるかもしれない(なまぐさいのが好きな読者には物足りないかもしれないが・・・)。資料として読んだ本のなかで、直感的に気になったことを覚え書きまで。こうしてメモしておくと、頭のなかで勝手に「発酵」したり、ほかのデータと想定外の化学反応を起こしたりして、あとから思わぬところで生きてくることがあるんです。

○白川桃子・文、ただりえこ・漫画『結婚氷河期をのりきる本!』(メディアファクトリー)。モラトリアム王子と別れ、結婚に対する意識革命を起こし、結婚市場に乗り込み、さまざまな「婚活」をし、自分からプロポーズして「ゴール」にたどりつくヒロインの物語の進行にあわせ、具体的な方法のポイントが解説される。恋愛観・結婚観がひとむかし前とは確実に変わっているんだなあとわかる、楽しい本だった。

「最初のきっかけ作りは『女子から』が基本。狩りに行かなければ、恋人はできません」

「王子様は、ガラスの高い塔に閉じこもっています」

「男の沽券をはずした男子が買い!」

「(プロフィールカードには)男子が話を広げられそうなネタを書くこと。趣味=華道、茶道などは、今どきピーアールにはなりません。それよりも『サッカー観戦が好き』だとか、男子にもわかりやすいものを」

「(お見合いパーディーでは)スカートで行くこと。どんなファッションか迷う人は、こういう時こそ雑誌『Can Cam』がお勧めです。男受けファッションとは、ちょっとダサイぐらい、わかりやすいのがいいのです。もちろん足元はヒール!」

「玉の輿を射止めた女子がいました。『擦り切れたバッグを持っていた』ことが、セレブ男子の目に留まったとか(笑)。そう、お金持ちはケチなのです! (中略) あまりに高いブランド品を持つのも、得策ではないかもしれませんね」

「一緒に生活する男に必要ないのは、『学歴』『肩書き』。女子がキャリアなら『高収入』すら必要なし。『ワインに詳しい』とか『おしゃれなお店やブランドに詳しい』『プライドやコンプレックス』も、もちろん不必要」

「ワインがわかる人よりも、『火が起こせる人』『魚がさばける人』の方がアピールできます」

「結婚に至る出会いの基本は『囲いこみ』『時間の共有』『目的の共有』です」

「今は男女とも、『私に何をしてくれる?』と様子見をしています。それをやめて、先に『はい!』と笑顔で差し出す人が、結婚をつかむのでしょう」

○門倉貴史『セックス格差社会』(宝島SUGOI文庫)。所得格差が恋愛格差を生んでいること。高収入ほどセックスレスになりやすいこと。貧困と「できちゃった婚」、それによる貧困の再生産というスパイラル。中年童貞と負け犬が市場経済に及ぼしている効果。人口減少社会と国際結婚。などなど広範にわたり現在の状況の見取り図を示す。が、なんだかデータから結論にいたる因果関係分析の過程が、あまりにも一元的で短絡的過ぎて味気ない気がした。見取り図を示すには、このくらいの強引な単純化が必要だったんだろうか?

独身男性が結婚相手を探す際に重視するのが、女性の容貌→化粧品市場と美容整形市場が大きくなっている、という説明。

男性優位社会が崩壊し、性差の違いがメルトダウン→男性的アイデンティティからの逃避を背景にしたニューハーフの増加、という説明。

男性優位社会の崩壊→大人の女性が「女らしさ」を失っていく→「ジュニアアイドル人気」という因果関係の説明。

・・・そんな乱暴な。ちがうな~と反論する当事者もいそうな気がするのだが、それをいちいちとりあげるとこの分量の新書にはおさまらないんだろうなあ、ともぼんやりと思ったり。

○斎藤薫『されど”服”で人生は変わる』(講談社)。「彼との運命度はカジュアルの相性で決まる」とか「別れ話の服」とか「倦怠期に着るべき服」とか。こちらもやや短絡的な因果関係の説明はときどきあるものの、一理ある話ではあるよなあ、と興味深く読んだ。斎藤さんはとにかく有無を言わせずにぐいぐい読ませるのがすごい。

○山田昌弘&白河桃子『「婚活」時代』(ディスカヴァー携書)。ブームを生む契機になった本。いちばん最初に挙げた白河さんの本とかぶるところも多かったが、これはこれでキーワードの解説が多く、わかりやすかった。

「女性経験値が浅い人ほど、女性に対するビジュアルの要求水準が高い」

「高いビジュアルレベルを求める見た目重視社会は、カップリングの成立にマイナス」

「性欲よりもプライドが大事なガラスの王子様」

などなど、納得の決めフレーズも多。

それにしても、現実にべたっと密着した散文的な本ばかり読んでるとなんだかどっと疲れる。うそくさい本が読みたくなってくる・・・。

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2009年8月23日 (日)

マーケティング戦略よりも作家魂で

◇劇場で見るタイミングを逸していた「オーストラリア」をDVDで観る。

バズ・ラーマン監督、ニコール・キッドマンにヒュー・ジャックマン、というオーストラリア出身のゴールデントリオ、ロケは美しいオーストラリア、上映時間は3時間近く・・・・・・ときてこの薄さはなにごと?と驚いた。 あらゆる要素がこれでもかというぐらい詰まっているのに、というか、詰め込みすぎたゆえに、裏目に出たのか。てんこ盛りであっても、バズ・ラーマンなら、「ロミ+ジュリ」や「ムーランルージュ」で見せたB級チックなスピーディーな展開でまとめることはできたはずだと思うのだが、なにやら映画はカクカクさくさくとぎこちなく平板に進んでいって、上映時間の長さの意味がない。脚本に問題があったのかな。壮大な物語になるはずが、奥ゆきやふくらみを感じさせるニュアンスが欠けているため、マーケティングだけで当面の話題にはなるビジネス・自己啓発系のベストセラーみたいな印象になった。

とはいえ、ヒュー・ジャックマンが「ピープル」誌の「もっともセクシーな男2008」に選ばれたのは、この映画の効果だった。たしかに、ヒュー・ジャックマンの男くささ、やさしさ、いいところが全開。牛追いのシーンも迫力があり、見ごたえがある。

次回作では、「マーケティング」「話題性」みたいなことを狙わず、もっとバズ・ラーマンらしさを遠慮なく出し、かつ、少し丁寧に作ってほしいなあと願う(それが許される環境で仕事ができることを祈る)。

◇ママ友にして畏友サツキさんが「ビッグランチ」というか「ビッグディナーバーベキュー」を催してくれる。夕方から、北海道直送のサンマや、タイなどを炭火で焼きつつ、おいしいお酒を飲み、笑っておしゃべりして楽しい日曜の夜を過ごす。サツキさん、やさしく愉快なご近所の皆様、ありがとう!

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2009年8月21日 (金)

野蛮で優雅な三角関係

◇「ココ・アヴァン・シャネル」の試写@ワーナー・ブラザーズ。アンヌ・フォンテーヌという女性監督による映画で、シャネル役はオドレイ・トトゥ。孤児院時代~キャバレーでの歌手時代~最初の愛人バルサンの城での「囲われ(居候?)」時代~最初の恋人カペルとの出会いと死別~デザイナーとしての名声を勝ち取るまで、という「デザイナー、ココ・シャネルが誕生する以前」が描かれる。

オドレイ・トトゥの、引き込まれるような黒い瞳を生かした表情がすばらしく、最後はほんとうにシャネルの肖像写真とぴたり重なるように見えた。

20世紀初頭のファッションが驚くほどきめこまかく再現されていて、カメラもアクセサリーやレース、襟やタイやカフスのディテールまでねっとりとアップで写していく。有名な「らせん階段」のショウで使われたシャネルのドレスも美しく、衣裳・美術だけでも眼福ものである。

でもさすがはフランス映画というか。ファッションにさほど関心のない観客にとっても、シャネルとバルサンとカペルの野蛮にして優雅な三角関係は、見ごたえあるドラマとして映るだろう。友人バルサンからその愛人シャネルを「二日間借りる」というエレガントな申し出をしてイヤミではないカペルにはぶっとぶし、それを嫉妬しながらも許し見守るバルサンもわけがわからない(←ホメ)。二人の男の間で、スムーズに愛人の受け渡しが成り立ってしまう過程が、実はもっとも興味深かった。上品に淡々と描かれながらも(それゆえに)、3人それぞれが秘めた心の奥の荒々しい熱情が目に見えるようだった。他の国の映画ではなかなかこんな描き方はできないのではないか。

バルサンがたびたび、労働への軽蔑を口にする。シャネル以前は、ファッションは「労働とは無縁な」有閑階級のものであったのだ、とあらためて認識する。そういうサークルの中にありながら、労働労働、ひたすら労働によって身を立て、名をなし、ゴージャスな恋愛遍歴を重ねたシャネルは、どれほどの意志と魅力の持ち主であったろうか。

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2009年8月20日 (木)

本気にさせるボクが悪い

「ルパン3世 vs. コナン」。ずいぶん前に放映されて話題になっていたので気になってはいたのだが、DVDを発見し、すかさずゲット。どちらの世界にもはまった一ファンとしては、この上なく楽しい世界だった。一緒に見た長男が「蘭ちゃんはああいうことするキャラじゃないよな」とかぶちぶち小文句を言っていたことから推測するに、たぶんマニアにはいろいろ思うところがあるのかもしれないが。ルパン界の人たちは、やはりたまらなくかっこいい。終わっても、もうしばらくこの世界に浸っていたいのに~と名残り惜しかった。

不二子のバイクとコナンのスケボーのチェイスのあとの、不二子のセリフ。

「あら、おとなげなかったかしら。でも本気にさせるボクが悪いのよ」。

・・・・・・決まりすぎ。

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2009年8月19日 (水)

シャネルの誕生日に

シャルル・ルーの『ココ・アヴァン・シャネル』(ハヤカワ文庫)。新潮社から出ていた『シャネル ザ・ファッション』が文庫になって発売されました。シャネルの誕生日8月19日に刊行、というのがにくい。シャネルの先祖からシャネルの死に至るまでの、たぶん、シャネルの伝記としてはもっとも執拗な調査に基づいた本なのではないかと思う。上下巻にわたる長い物語。下巻の巻末に「ココ・シャネルの現代性」というエッセイを書いています。機会がありましたら、ご笑覧ください。

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2009年8月18日 (火)

天はニモツを与えた

文章がうまくなるという本を10冊読んでも、たぶん、文章はうまくならない。「成功する」本を100冊読んでも、成功には遠いまま。「モテる」本を300冊読んでも、ぜったい、モテない。話がうまくなる本を500冊読んでも、うまくなるわけがない。

6時間にわたる収録を終えて、沈没。高さ総計50センチになる資料を読みこんでいったにもかかわらず、そんなの、「おもしろい話」には関係ない。眠いのも加わって(言い訳無用)、主語述語の呼応がめちゃくちゃ。話し言葉にまったくなってない惨状にわれながらげんなり、呼吸しているのもいやになり、ピラニアの水槽に飛び込んで彼らのえさとなって消えてなくなってしまった(脳内)。

翌朝、立川談四楼さんの『もっと声に出して笑える日本語』(光文社)読む。プロフェッショナルなアナウンサーでもこんなおかしな言い間違いするんだ~というお笑いネタが満載で、げらげら笑いながら、ちょっと救われた。

「こんばんにゃ」とか「イカの次女焼き」(姿→次女)とか「波の高さは並の高さではありません」とか。「天はニモツを与えた」と読んでしまった高畑アナや、「ダンコンの世代」と読んでしまった女子アナには、なんだか勇気づけられた(御免)。

そんなこんなのヘマも含めて、経験経験。ひたすら謙虚に積むしかない。

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2009年8月17日 (月)

放射能を持った文章

開高健さんの『一言半句の戦場』(集英社)読み終える。単行本未収録の開高コラムや対談などを編集した587ページのぶあつい本。半年以上前からずっと枕元に置いて、眠る前にちょっとずつ読んでいた。お宝写真もちりばめられている。船の上でも酒場の片隅でも畳に寝転んでいても、どんな格好をしていてもカイコウケンで、いちいち愛嬌があってシブくて絵になっている。もっと生きていてほしかったなあ。新潮文庫の『開高閉口』に帯のコピーを書かせていただいたほどの大ファンなのである。『一言半句』も、読み終えるのがさびしい、離れるのがつらい、楽しい開高ワールドだった。

とりわけ面白かったのが、淀川長治さんとの対談。「いい顔ね、あんた」とほめちぎりつつ迫る(?)淀川さんの前に、さすがのカイコウさまもたじたじとなっているところが、おかしくてたまらない。淀川さんのカイコウ評もさすが、スパッと鋭いのである。

「この人、いつ原稿書くのか思うぐらいタフな人で、私は日本の男性でこのぐらいタフで、このぐらいサッパリしていて、このぐらいキザじゃなくて、このぐらい好色的なくせに好色的でなくて、こんなん珍しいと思います」。

好色的なくせに好色的でない。そうそうそう。そういうところが好きなのである。たしか帯のコピーにも「雲古、御叱呼を書いて清潔・・・」というようなことを書いた記憶があるが、不潔なのは対象をそのように見るコチラの目であって、対象そのものではない、ということをカイコウさんは教えてくれる。

巻末、谷沢永一さんが、カイコウさんの強運っぷりについて綴っている。天性の無邪気と才能と強運に恵まれていた人だったのだなあ、と納得させられる反面、「書けない」ときの苦しみ&それを乗り越える努力も半端ではなかったのだと知る。「その、開高健が、逝った。以後の、私は、余生、である」のラストのコピーが泣かせる。

「放射能を持った文章を書こう」

「父を疑え、母を疑え、師を疑え、人を疑え。しかし疑う己を疑うな」

「動機が問題になるのは結果がまずい時だけ」

「風俗は変わるけど本質は変わらない」

「読者と著作者はあわないほうがいい(ゲーテ)」

「小説家になるにはピアノ線のようでないといけない」

などなど名言も多。

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2009年8月15日 (土)

知識ではなく、知識に執着する人間の狂いこそが面白い

◇地震のときにこれが落ちてきたらぜったい重みでつぶされる、と感じた過去何年分かの資料のスクラップを一部整理。ほんの2~3年前の切り抜きですらまったく「使えない」情報と化していることにガクゼンとする。自分はおそろしく虚しいことに時間を費やしてきたのではないかという徒労感に襲われ、しばし落ち込む。気をとりなおし、ざっと目を通した上で30冊分ほどのファイルを捨てたが、「切り抜きを処分する前にいま一度覚えておきたい」と思ったことがらを、以下に記す。ジャンルは雑多だが。

・藤沢周さんが今はなき「ストレート」に連載していた「独酌余話」の第4回「反・蘊蓄」より――「知識があること。あるいは極言すれば、頭がいい、ということに対する恥じらいを知らない大人は、見苦しく情けない。不惑過ぎれば、嫌でも何かしら一家言持つであろうに、何も衒うほどのことでもなかろう。むしろ、それを隠す所作にこそ色気が生まれるのである。・・・(中略)・・・何より、人間の抱える知識や経験の豊穣に対する面白さは、そこに執着してしまうその人の狂いが面白いわけで、知識なぞ本にいくらでも詰まっている」。

・シチュエーショナル・インティマシー(situational intimacy)。恋愛関係にあるわけではないのだけれど、場所や行動をともにしているために、いやでも発生してしまう親密な感情のこと。職場の同僚とか、社長と秘書の間に発生する感情がコレ? 案外見過ごされがちな感情に名前があったり、感情に名前をつけたりすることは、なかなか面白い。

・2006年7月31日のAERAの記事。「ストーリィ」8月号と「NIKITA」8月号の表紙が同じ「ダイアン フォンファステンバーグ」の格子柄ワンピでかぶってしまったという記事。業界的には、かなり恥ずかしい失態として話題になっていた。でも、「上品奥様」と「アデージョ」(恥)がともに着こなせる服として、かえってブランドにとってはよい宣伝になったのではなかったか。たしかこの事件をあるファッション誌に好意的に書こうとしてダメ出しをされたのだった。ブランド的には二度と触れてほしくないタブーだったので。でも、時間がたって「歴史」となれば、ブランドにとってはよい効果をもたらしたできごととなっているはず。それにしても、「NIKITA」は笑える雑誌で、言語感覚もシャープ、毎号ほんとうに楽しみにしていたのに、「ヴァケーション」に行ってしまった。復活を強く望む。

・「恋愛サイクルMD」。たぶん「繊研新聞」の切り抜きだと思うが、掲載紙と日づけをメモしていなかった。9月は合コン強化月間として、キメ服であるワンピースを仕掛ける、というMDの話題。9月に本命をゲットし、10月から付き合い始めないと、クリスマスを一人で過ごすことになりかねないので、9月は合コン市場が拡大するんだそう。季節に応じたMDよりも確実なのかもしれない、と苦笑。

・2006年9月8日(金)朝日新聞の「ニッポン人脈記」。鷲田清一先生がモードについてお書きになっていた当初、恩師の一人にさりげなく言われた言葉が、「『世も末だな・・・・・・』」。「ファッションに無関心だという人ほど、たとえばドブネズミ色の背広といったその時代の流行服を敏感に着ている。『そんな皮肉の意味を解き明かすことも面白かった』」。私も「世も末」に似たようなことばを何度も頂戴している。「そんな仕事はカス以下」と吐き捨てるように言われたこともある。さらさらと受け流すことのほうが多いが、心のどこかに残り、ことばが蘇ってきては「そうかもしれないなあ」と力なく思う自分もいる。

・同記事の深井晃子先生。「モードのジャポニズム展」など国外で高い評価を得たすばらしい展覧会を開催しても、「国内での反響はいま一つだった。特に『服飾関連業界からの反応が冷たかった』という。ファッションは理屈や歴史で考えるものではない、との当事者の考え方が強かったからだ」。アカデミズムからはカス以下呼ばわりされ、ファッション産業からは冷ややかに無視される。それが日本におけるファッション学である。鷲田先生、深井先生はそんな厳しい状況のなかで世の尊敬を勝ち得てきた。並大抵のことではない。そこまでのレベルに行くために必要なのは、執着する「狂い」?

◇どこまで信用できる情報なのか定かではないが、駿河湾から神奈川にかけてイオン濃度が高くなっているとか。ガセの可能性も否めないが、最近2~3日おきに続く地震のこともあり、いちおう、ヘルメットなど用意しておく。ちょうど模試を終えてきた長男が、「明日の朝あたりデカいのがくるかもしれん」→「今日の晩飯は最後の晩餐になるかもしれんな。助かってもしばらくは非常食だな」→「後悔しないようにうまいもの食べておこうぜ」というおそろしく飛躍した論理を展開する。買い物行くにも暑いしなあとひそかに思っていた私も賛同し、近くのヘイチンロウに北京ダックのコースを食べにいく。白ワインも(ひとりで)1本あけて、「これで明日きても悔いなし」状態。これも「備え」のひとつ、ということにする。

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2009年8月14日 (金)

四分の四の人生でも

◇東理夫さんの『グラスの縁から』(ゴマブックス)読み終える。いつも持ち歩いて少しずつ読み進め、一か月ぐらいかかってゴール。時間をかけたのは、「この本の世界から離れるのがいやだ」ということもあった。シブくて、ジャジーで、ピリッとしていて、ハードボイルドなんだけどサービス精神たっぷりのシャイな愛にあふれている。好きだなあ。

ちょうど私が日経新聞に連載していた時期も期間もほぼ同じころ、東さんもこのコラムを連載なさっていたようだ。7年半とのことなので、半年間分、東さんが長い。連載中は、「グラスの縁から」と「モードの方程式」を楽しみにしています、とおっしゃってくださる読者の方がとても多く、東さんにはたいへん失礼なことだが、ひとり勝手に戦友のようなイメージを抱いていたのであった。

酒&ミステリー&アメリカ文化&映画がカクテルになったようなコラムのあとに、毎回「サイドオーダー」として本や酒瓶の写真とともに220字ぐらいのひとことコメントが紹介されている。これがまた楽しい。これだけの字数で読者をクスッとさせたりうならせたりすることはかなり難しいことなのだが、それをさらっとやってのけてくれる。うれしすぎる。

なかでもいちばん笑った「サイドオーダー」は「文豪の作ったカクテル」の回についていた文章。

「煙草をやめた時、これからは人生の半分しか生きないんだぞ、と友人に言われた。それと同じように、酒を飲まないのも、人生の半分しか生きていない、とも思う。となると、酒の本も酒そのものもない人生とは、倍の四分の一になってしまうのだろうか。かといって四分の四の人生でも、そう面白くないけれど」。

・・・・・シブく決めましたね。

「老後の酒」の回のサイドオーダーにも名言発見。

「紳士は身分ではなく、心意気だろうと思っている。どんなに高貴な生まれでも紳士でないやつもいれば、どれほど貧しい出自でも、紳士だ、という人がいる。田舎者、というのが地域のことを言うのではなく、その人の生きようをさしているのと同じだ」。

「生きよう」という表現がまたいい。センスがない人はここで「イキザマ」と書いたりするんだけど、そんな野暮な書き手ではないのである。

「なぜ酒を飲むのだろうか」の回は、酒飲みならばみんな深くうなずくであろうトマス・ラヴ・ピーコックのことばが紹介されている。

「『酒を飲む理由に二つある』と彼は、1817年に発表した風刺小説『メリンコート』で書いた。『一つはのどの渇きをいやすため』・・・(中略)・・・、『もう一つはのどの渇きを予防するため』。膝を打ちたくなってくる。そしてこうつづく。『わたしはたぶん、渇きを予測して飲むのだろう。予防は治療よりいいからだ』。その後がいい。『「魂は」聖アウグスティヌスは言った。「渇きの中では生きていけない」と。死とは何か。塵であり灰である。乾き以外の何ものでもない』」。

覚えておけば、酒飲みの言い訳として、申し分ない。

ただ、「シャンペン」の表記だけが、どうにもこうにも引っかかった。これは東さんの問題ではなく、慣例的に用いられている日本語表記そのものの問題だと思うのだが。「シャンペン」って字面で見ても、耳から聞いても、まったくへなへなの薄い酒のイメージしか浮かんでこないじゃないか。このお酒をこよなく愛する私としては、ぜったいこんなふうに発音したくない。せめて「シャンパーニュ」ぐらいにしませんか。これじゃあ、気どりすぎに聞こえる?

◇親族で墓参。毎年、暑さで汗だくの中の墓参りなのだが、今年はカーディガンを羽織る必要があるほど肌寒かった。この気候は異常だ。稲の穂もまだ短くて青い。農作物、大丈夫だろうか。

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2009年8月13日 (木)

期待を裏切り、寸止めし、お得感を持っていただく

池上彰さんの『わかりやすく<伝える>技術』(講談社現代新書)読み終える。大学で「グループ調査+プレゼンテーション」の授業をもっているのに、プレゼンテーションの技術をブラッシュアップすることに関しては、専門的な視点とことばがあまりにも足りないなあと反省していることもあり、プロの視点を知りたい、と思い手に取る。

さすが「週刊こどもニュース」の池上さん(もうとっくにご卒業なさっているのだが、私の中ではやはりこのニュースの「お父さん」のイメージが強烈)、とてもわかりやすく、参考になる助言も満載であった。

☆話すときには、「地図」を渡す。

☆書きコラムは「起承転結」の長方形だが、読むニュース記事は逆三角形(リード、本記、理由・原因、見通し、エピソード)。

☆接続詞はできるだけ使わない。短い文を重ねていく。論理的であればおのずと意味は通じる。

☆誰に向かって書いているのか、話しているのかを明確にする。取材先(警察なり政治家なり中央省庁なり)を意識しすぎて、「私はよく知っているんでですよ」とみせびらかすような原稿はダメ。

☆全体像が理解できていれば、大胆に切り落とすこともできて、「ざっくりと」わかりやすく説明することができる。逆に、わかりやすく説明しようと努力すれば、よく全体像を理解することができる。

☆「ざっと話したい要素を書きだす→リードを作る→目次を作る→一回書いてみる→どこを図解にするかいいか考える→パワポを作る→パワポにそった原稿に書き直す→その原稿を箇条書きのメモにする」。 ここまでやれば大丈夫。

☆しゃべり上手な人は、「ありきたりのことは絶対言わない」。「周囲が予想していた話とは、ちょっと違う視点からコメントする」(=期待を裏切る)。空気を読んで、期待を裏切る。すると意外感、余韻が残る。プライベートな人間関係にも使えるテクニック。

☆1.5秒、間をとる。20秒中の1.5秒は長い。この長さを我慢し、ぎりぎりタメることができれば、強い効果を発揮する。

☆からかうことで笑いをとり、そのからかいが「真意ではない」ことが伝わるようフォローする。

☆聞き手の中に「応援団」を作る。「『あなたに話してるんですよ!』という熱い視線を当てるのです。ウルトラマンのスペシウム光線を出すぐらいのつもりで」。反応してくれない人には、畳みかけるように話し、その人に思わずうなずかせてしまう(!)

☆「『ここにきたからこそこの話を聞ける』という『お得な気持ち』を持ってもらうことが、プレゼンテーションでは最優先」

☆無意味な接続詞―「そして」「だから」「ところで」「話は変わるが」「こうした中で」「いずれにしましても」「が」「実は」

☆「言い換えれば」は複眼思考を促し、有効。

☆つかみのよいキーワードをもとに組み立てる

☆それを言っちゃあおしまい、ということや、わざわざ言わなくてもいいようなありきたりなことは、絶対言わない。「政府には早急な対策を望みたいですね」みたいな「何も言っていない」コメントは言わない。その前で寸止め。

☆久米宏さんのすごさは、「計算しつくされていることを視聴者に感じさせない」こと。それが格の違いを生む。

☆自問自答を繰り返すこと、謙虚な気持ちを忘れず努力し続けることが、人の心をつかむ話し手になれるこつ。

しゃべりのプレゼンテーションに関する助言中心だが、書く場面で応用可能なアドバイスも多かった。無意味な接続詞の指摘に関しては、つい私も陥っていたことにはっと気づかされた。「お得感」を持っていただくのは、やはり表現することで報酬をいただく仕事に携わる限り、当然わきまえておかねばならない心がけであると再認識。

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2009年8月12日 (水)

忘却と時の試練

外山滋比古さんの『思考の整理学』(ちくま文庫)読み終える。20代のときに読んでいたはずなのだが、きれいに忘れている。というか、たぶん20代のときにはピンときていなかったことが、今であればこそしみじみ納得できるのだろうなあ・・・・・・というところがたくさんあった。

忘れることが「古典化」に不可欠という考え方が強く印象に残った。「忘れたくない」ので(笑)メモしておく。

「"時の試練"とは、時間のもつ風化作用をくぐってくるということである。風化作用は言いかえると、忘却にほかならない。古典は読者の忘却の層をくぐり抜けたときに生まれる。作者自らが古典を創り出すことはできない。 (中略) きわめて少数のものだけが、試練に耐えて、古典として再生する。持続的な価値をもつには、この忘却のふるいはどうしても避けて通ることのできない関所である」。

人の思考を「古典化」するためは、こんな自然の忘却のふるいを待っているわけにはいかない。人為的に忘れろ、どんどん忘れて思考を古典化せよ、と外山さんは説くのである。

「忘却は古典化への一里塚」「生木のアイディアから水分を抜く」など、思わず座右の銘にしたくなる言葉が満載。ほかにも名言あり。

☆「ひとつだけでは多すぎる」―複数のテーマを同時に進めたほうが、煮詰まることもなく、頭も伸び伸びと働き、思わぬセレンディピティを得られるなどの利点があることは、経験からもよくわかる。

☆「没個性的なのがよい」―素材たちに化学反応を起こさせて独創的なアイディアを得るためには、考える本人の自我や個性などが強く出ないほうがいい。今後、心がけたい最大の課題。

☆「ほめられた人の思考は活発になる」―中傷は心を「殺す」ことに等しい、とは経験からの実感。「どんなものでもその気になって探せば、かならずいいところがある。それを称揚する」というすすめに共感。

☆「思考を生み出すにも、インブリーディングは好ましくない」―インブリーディングとは近親結婚のようなもの。異質な要素がかけあわされてこそ新しい風が入る。

☆「発明するためには、ほかのことを考えなければ、ならない」―なにかほかに拘束されることがあって、心が遊んでいるような状態のときに、よい発想が浮かぶ。

☆「人間には拡散と収斂というふたつの相反する能力が備わっている」―読んだものを自由に解釈して、尾ヒレまでつけていくのが拡散。筆者の意図を絶対として「正解」に向かおうとするのが収斂。「読みにおいて拡散作用は表現の生命を不朽にする絶対条件であることも忘れてはならない。古典は拡散的読みによって形成される」。

一方、「拡散のみあって収斂することを知らないようなことばがあれば、それは消滅する」。

背骨に太い支柱を添えてくれるような1冊。迷ったら、また読み返したい。

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2009年8月11日 (火)

地震、台風、そして火事

早朝の地震にひやり。台風が日中に関東を直撃するかもしれないとの報道で、アウトドアのイベントの予定を変更して映画でも観にいくことにする。時間のタイミングとして「HACHI」が合ったので、とりあえずハンカチを手に(笑)鑑賞。

子犬から老犬にいたるまでの、秋田犬HACHIのけなげな表情としぐさに、ひたすらウェットに引き込まれる映画。ハチとリチャード・ギアとのコンビネーションもすばらしい。結末がわかっている、淡々とした展開の映画だが、ギア様と賢いお犬様を拝めるだけでありがたいようなところもある。制作者の苦労を思えば、これで充分価値ありとすべきであろう。

エンディングロールの途中でぶちっと映像が切れ、「火事です。火事です。1階が火事です。落ち着いてすみやかに避難してください」の非常放送が! なんとなく、映画が始まる前に非常口を確認してはおいたのだが、こんなことがあるのか。パニック状態の観客にまぎれないよう息子の手を握り、内心あせりつつも冷静に館外に出たのだが、煙ひとつでていない。係員は避難を誘導するはずが誰ひとりとして出てこなかったし、館外に出た後も、フォローの放送がない(@グランベリーモール)。いったいなんだったのか。いずれにせよ、本番(?)の火事のときにはぜったいに係員など出てこないしアテにもできない、ということがよくわかった。非常のアクシデントのときには、頼れるのはマニュアルでも係員でもなく、なにももたない自分自身しかない、ということをひしひしと実感。

映画のクライマックスで館外に追い出された客の不満に比べれば、とりあえずエンディングロールまで座っていることができたというのは不幸中の幸いか? いや、そんな問題じゃないのか。

地震と台風と火事に翻弄された日。今日のトラブルがこれだけで済むことを祈る。

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2009年8月10日 (月)

人間温暖化プロジェクト

◇「フラウ」9月号発売です。連載「ドルチェを待ちながら」で、イギリスで7月に行われた国民巻き込みイベント「ビッグランチ」の背景を探った記事を書きました。

仕掛け人が、かの「エデンプロジェクト」に関わっているPRマン&社会起業家であり、その発想の延長上に、「人間温暖化」計画としてこのイベントが企画されたこと、などなど。機会がありましたらご笑覧ください。

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2009年8月 8日 (土)

キルロイ伝説

◇「ボルト」。あまり期待しないで観たが、これがなかなかよくできていて、予想以上に楽しめた。ディズニーははずさない。

ある日突然、「敷居の外」へ追いやられた主人公が、旅の仲間とともに闘う過程で自分を発見しながら、一度死にかけた後、すべてを幸福にする大団円へ。そんなおとぎ話の王道を踏襲しながら、細部の描写が細かくて、飽きさせない。冒頭、おまけとして、「カーズ」の車たちが、改造車になり、ドリフトレースで東京タワーまで上る、というショートムービーがついていた。これがまたスピーディーな笑い満載。

◇向井万起男さんの『謎の1セント硬貨』(講談社)読了。マキオちゃんとチアキちゃんのキャラクターが国民的に愛されていることが基盤になったうえでの珍道中のおもしろさ&マキオちゃんの並外れた知的好奇心と実行力(メールを送りまくる)の迫力、で読ませる。

サウスウエスト航空の、仕事を「陽気に楽しむ服装」。トイレの落書き「キルロイは来たりぬ」伝説にまつわる謎解き。マクドナルドのトイレに関する「カービー理論」。お話のひとつひとつに、マキオちゃんとチアキちゃん、およびマキオちゃんとアメリカの善意の人々とのコミュニケーションの物語がある。そのプロセスそのものが面白い。

それにしても、自由に豪快にキャリアを追求する宇宙飛行士の妻に、こんな形で楽しげに「ついてくる」夫。卑屈になるどころかこうしておまけの果実まで実らせる。すてきなカップルである。

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2009年8月 7日 (金)

右から見ると2人、左から見ると1人

◇「プレシャス」(小学館)9月号発売です。ジュエリー特集で巻頭エッセイを書いています。機会がありましたらご笑覧ください。

◇「世界史発掘! 時空タイムズ編集部」(NHKBS)エリザベス2世の回にコメントをするため打ち合わせ。戴冠式の頃の王室の確執をめぐるVTRを見たが、おそろしくレベルが高い。知らなかった裏情報が満載である。マニアックな話ばかりで、世界史好きにはたまらないだろう。観る人も相当うるさいと想定されるので、かなり念入りな準備が必要と思われる。

◇BUNKAMURAで「だまし絵」展。平日の昼間なのに、大混雑。行列が3重にも4重にもなって、なかなか前にすすまない。が、なんとか観ることのできた絵の数々は、やはり強烈なおもしろさ。アルチンボルトをはじめ、パウルス・ロイ、ホガース、ロラン・ダボ、アレグザンダー・ポープ、歌川国芳、歌川広重、ルネ・マグリット、ダリ、エッシャー、マルセル・デュシャン、高松次郎、杉本博司、本城直季にいたるまで、世界中のトリックアートを堪能。

パウルス・ロイによる、「ルドルフ2世、マクシミリアン2世、フェルディナンド1世の三重肖像画」に釘づけになる。前から見ると3人、右から見ると2人、左から見ると1人。いったいどうやってこんなことができるのだ!?

そういう不思議な絵ばっかりだったのだが、なかでも絵の前から離れられなかったのが、パトリック・ヒューズの「水の都」。右と左から見ると、飛び出す3D絵画。正面に立ち、少しづつ移動すると、どう見ても二次元絵画で、視点に合わせて絵がゆらゆら動く。なんで? あまりの謎めいたおもしろさに、絵の前を何十回も行ったり来たりしていた。

久しぶりに充実した展覧会で気分よく、そのままドゥ・マゴでビール2杯。日の明るいうちにオープンエア感のある空間で飲む冷たいビールはほんとにおいしい。

◇今週、連載+飛び入り原稿、5本で計18000字ほど書く。お盆前進行で通常なら来週分の仕事が今週にかたまってしまったということもあるのだが。とりあえずお盆前仕事の大きなヤマはひと段落。

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2009年8月 6日 (木)

トム・ブラウン・ジャパン

岡山のクロスカンパニーがトム・ブラウンの株式を20%取得、来年にはトム・ブラウン・ジャパンを設立することを確認したという情報に驚く(WWD)。

トム・ブラウンといえば近年のメンズモード界でもっともその才能を称賛されているニューヨークの革命児である。足首まるだしのスーツとか、半ズボンスーツとか。男を子供みたいに見せるシルエットのスーツだなあと内心思っているのだが、これが一般のメンズにもじわじわと影響を及ぼしている。最近メンズフロアに増えているハーフ・トラウザーズ(半ズボン)は、もとはといえばこの人の影響であるようだ。

佐川急便のお兄さんが半ズボンで荷物を届けてくれたときにはぎょっとしたが、あれは意味がちがうのか。

たださすがに現在の不況でトム・ブラウン社も経営が厳しくなっていたらしい。組んだのがクロスカンパニーというのはやや意外だったが、ひょっとしたらおもしろい化学反応が起きるかも。成功を祈る。

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2009年8月 5日 (水)

「出来事は固まりとしてそこに放り出されている」

気になっていた言葉の覚書き。

◇高村薫さん『太陽を曳く馬』にちなんだ記事「言葉からの自由求め」より。朝日新聞8月1日(土)。

「生きていることの実感は、他者と向き合うことで可能になるが、それと他者を理解できることとは別の問題。現代に生きる実感はむしろ、理解できない他者と向かって生きているという実感だと思う」。

「現代では出来事は固まりとしてそこに放り出されている。あとはそれをどういうふうにどこから眺めて言葉にしていくかが問われる。(中略) 言葉にできない世界を小説という言葉で作っていくのは、彰之の『問い続ける』ことと同じで、一つ壁を立て、次に柱を立て、建築する行為そのものが小説になっていくのかなと思う」。

高村さんの写真がまたかっこいい。まっすぐで、虚飾なんか通用しそうもない迫力のまなざし。求道者のようでもある。

◇同日夕刊、89歳で作家デビューした九木綾子さんの談話「規矩ある生と出会う」より。

「塔を建てた番匠たちは『規矩(きく)ある生き方』をしたのだと思います。塔を建てるには何万個もの部材が使われます。それぞれの材木の性質を見極め、切り、削り、磨き、組み上げなければなりません。(中略) 同様に番匠たちは自身の人生においても、自らのコンパスとモノサシを使って、持って生まれたものを測り、なすべきことをしながら生きたのだと思います」。

取材に14年、執筆に4年かけて89歳でデビュー。世間の時間のモノサシではなく、自分の時間のモノサシを使って「なすべきことをなした」九木さんが、まぶしい。「規矩」。いい言葉である。

◇村山由佳『夜明けまで1マイル』(集英社文庫)より、直樹のセリフ。

「自分より才能のある女となんか、うまくやってけると思うのかよ」 (中略) 「それがもし、お前が欲しくてたまらなかったものだとしたら? それでもあきらめがつくか? 相手がどんどん先へ進んで、置いてかれるように思えても、お前は卑屈にならないでいられるのかよ」。

たぶん、多くの男性にとっての率直な感覚であるのかもしれない。村山さんは、20歳前後の男の子のあやうくて青いたたずまいを、なかなか魅力的に書く人だ。

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2009年8月 4日 (火)

リアリズムはフィクションだけでいい

気になりながら観る機会を逸していた「レボルーショナリー・ロード」をDVDで。アメリカの郊外でのぬるま湯のような生活のなかで、かつての夢が日々失われていくことにうんざりした倦怠期の夫婦が、そこから独立しようとしてますます歯車を狂わせていく。最後はとりかえしのつかない悲劇に。

夢破れたぬるま湯ライフの夫婦を描くという意味では「アメリカン・ビューティー」の系譜だろうか?  にしては笑いもまったくない、「ど」リアリズム映画。50年代のハリウッドでこういう映画がたくさん作られていたのではなかったか? なぜ、今? 美しいはずのディカプリオとウィンスレットが、ぜんぜんきれいに撮れてなくて(あえて、であろうけれど)、さびしい。ラブシーンも殺伐として乾いている。救いも笑いも美もなくて、観た後、なんだかどよーんと落ち込む。とはいえ、こんな重苦しい感覚をときどきフィクションを通して味わっておくことも必要だなあとは思う。というか、フィクションだけでイナフである。

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2009年8月 3日 (月)

「愛を知らない人が、装いを凝らす」

荒川洋治さんの『ラブシーンの言葉』(新潮文庫)読了。さまざまな官能のことばのサンプルを集めたエッセイ。それぞれに対する、荒川さんの短くもとぼけたコメントがなんともおかしくて、楽しい1冊だった。

鋭いなあ、と思ったのが、おしゃれと愛についての観察。だいたいにおいて、官能小説においてトレンディなファッション用語などでてこないのだ。服の描写が出てくるにしても、たとえば「ズボンのバンドをゆるめる」みたいに、どろくさくて、モードのかけらもない。虚飾とは遠い世界なのである。これについて荒川さんはこんなふうにさりげなく。

「一般におしゃれをするのは、そこまでしなくては異性にもてないという心のあらわれ。何を着ていてもいいの、あなたを好きよ、といわれたことのない人、まだ愛を知らない人が装いを凝らすのだ、と考えてみよう。この小説の男女は『自分たちは愛し、愛されているのだ』という気分のどまんなかに、構えている」。

痛い真実だ・・・。

昨年、40半ばで結婚したプレイボーイの同窓生(男)のことをふと思い出した。彼はカサノバ顔負けの「冒険者」だったので、一生結婚しないものと思われていたのだが、「最後の女」と出会ったとかで結婚。友人間でのお祝いの会でその女性をつれてきていたのだが、一同、心の中で少し当惑していた。これほど女にうるさい男のことである、どれほど洗練された絶世の美女なのかな・・・と構えていたら、あれっ?と拍子ぬけするほど、素朴な印象だったのである。もちろん、ふつうにかわいらしい人ではあったが。その彼女が「彼は私と出会ってようやく、愛し愛される喜びを知ったので、もう大丈夫です」というようなことを語っていらして、そのあまりにもどっしりとした自信に、一同、思わずひれ伏しそうになったのであった。愛とファッションには、巷で思われているほどの相関関係はないらしい。

同じような設定、同じような描写ばかりにも見える官能小説を、人が飽きもせずに読み続けるのはなぜか?という疑問に対する荒川さんの解説も、なるほどな鋭さ。

「こんなにいっぱい、ことばで性器を見たのに知ったのに、またまた別の小説の濡れ場で性器を『読み』つづけるのはなぜか。『確認』するのはなぜか、それは書かれていたことに興奮した自分をも、忘れてしまうからである。ここでもまた男の記憶は失われるのだ。まだ、ある。官能小説の濡れ場は、それがことばによるものであるだけに、フィクション。どんなこともフィクション。リアルに書いてあっても、ほんとうにそのようなものであるのかという疑いが、読者を苦しめる。かくして二重三重の忘却と疑念が、男を官能小説へ突き返すのである。(中略)わかったでしょ、といわれても、男はいわれた通りには生きられない。セックスの経験は蓄積しない。それでまた女体に向かう。その意味で官能小説は男の現実そのものだ」。

そうして同じように見えながらも差異はしっかりとある、豊かなことばがつむがれていく。

この本の単行本がでたのが、4年前。引用されていた本の作家の何人かが、すでにもう名前すら見なくなっているという現状に驚く。本の世界にも、芸能界とおなじように、「一発屋」みたいなのがある。書き続けていくことができるということは、ほんとうにレアなことであるようだ。

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2009年8月 1日 (土)

食品偽装といかにつきあう?

ビー・ウィルソンの『食品偽装の歴史』(高儀進・訳、白水社)読了。「フラウ」連載のネタにと思って読み始めたが、「ドルチェを待ちながら」こんな話題をふられたらぜったい食べる気なくすよな、っていう話のオンパレードで、コワ面白かった。とりわけアプトン・シンクレアの小説『ジャングル』(1906年)のソーセージ工場の描写ときたら・・・・・・。

1820年代、産業革命とともに問題になり始めた、食品偽装の歴史。偽装そのものはローマ時代からすでにあったのだが、大量生産時代に入り、「利益」が追求されるなかで、信じがたいような偽装がエスカレートしていったようだ。

偽装が必ずしも悪とかぎらない、と考えさせる視点も豊富で、「何が善で、何が悪なのか?」と頭がぐるぐる回り始めてくる。それがこの本の面白いところ。

有機栽培でつくられた原料をつかったものには必ず昆虫が一定の割合で混ざることは避けられず、昆虫の入らない製品を作ろうと思えばどうしても殺虫剤を使わねばならない。どっちがいいんだろうか・・・(涙)。

新しいことばもいろいろ学んだ。以下備忘録として、ランダムに記しておきます。

*「深鍋の中に死がある」――19世紀の食品安全運動のスローガン。ピクルスが銅で緑色になっている、胡椒には掃き寄せた床の屑が混ざっている、菱形飴がパイプ白色粘土から作られている、紅茶がリンボクの葉でごまかされている、というような、命にかかわる食品偽装を警告するスローガン。19世紀にはほかに、カスタードに風味を加えるために危険な西洋博打木の葉を使う、チーズの発色をよくするために染料を使う、パンを白くするために漂白剤を使う、というようなことがおこなわれていた。

流通経路が複雑に枝分かれすればするほど、どこに偽装の源があるのかわからくなってしまうのは、現代にも通じる話。

*「買い手危険負担」(caveat emptor)――もし消費者が偽装品を選んで買うなら、それは消費者の責任である、という議論。

たとえば、「現代の露天売り場で、売り手が<デザイナー>香水を信じがたいほど安い値段で売りつけてくれば、ちょっとでも考えると、それは盗品か偽物に違いないのがわかる。それでも買うなら、買い手は欺瞞の共謀者になる」

*「食品恐慌」疲れ――ある週は「油分の多い魚をもっと食べるべき」と推奨され、翌週は「油分の多い魚を食べ過ぎると水銀中毒になる」と脅される。そのうちに、人はそういう記事を読むと目がどんよりしてくる。これが食品恐慌疲れ。新聞は恐怖を商売にし、読者は、デマと真実を区別するのが難しくなる。

*「純正食品会社」――1881年、悪質な食品偽装に戦おうとして、ハッサルがおこなった食品改造計画。「純正」な食品だけを売り出したが、会社はつぶれた。モノは純正だったかもしれないが、まともな「食べ物」ではなかったのである。欺瞞を憎むあまり、おいしい食べ物の必要を忘れたという皮肉な結果が待っていた。(・・・正しさの追求は必ずしも幸せをもたらさないのだなあ・・・)

*「代用食品病」――戦争中、代用食品は、資源を保存する愛国的な手段として奨励された。灰はきれいな包みに入れられて「代用胡椒」。挽いたクルミの殻を入れたものを「コーヒー」と呼んで飲むのは、良き市民のしるし。飢えと不気味な代用食品を食べることが一緒になって生まれたのが、代用食品病。その代用食品の多くは「動物の消化不能の残骸」を含んでいた。(・・・こわすぎ・・・)

*モック食品――本物そっくりに見せる、見せかけ食品。戦争中に発達。モック・クリーム(ゼラチンを混ぜた無糖練乳)、モック・チョップ(すりつぶしたジャガイモ、大豆の粉、タマネギ)・・・・・・まともな味を出すよりも、本物に見えるような視覚効果が強調されるようになっていった。食卓での「幻想」が士気を維持するのによい方法。配給制度が何年も続いた結果、まやかしものの代用食品に人々が慣れてしまって、戦後、以前よりもそれを食べるようになってしまった。低価格で食品が自由に選択できるという幻想を、代用食品が与えてくれたから。1960年代には、果物屋で「すてきな熟成梨――缶詰と同じくらい美味!」という掲示が出るほど。(・・・缶詰みたいにおいしいフレッシュフルーツ、というものが売り物になる皮肉!・・・)

*オーソレクシア――ひたすら正しい食事をすることに取りつかれる病気。エコロジー的にもっとも健全な食べ物を食べたいと願うあまり、極端に限られた、社会的に孤立した食餌で生きていくことになる。自然食品は一切の分別を捨て、「有機」というブランドの純正を信じ込めと暗黙のうちに促す。しかし、分別を捨てるというのは、騙されたくなければ、最悪のこと。多くのすぐれた食品は自然食品である。が、すべての自然食品が優れているというわけではない。

欺瞞と戦い、食べ物の安全を守り、おいしさを楽しみ、分別を失わずにすむ正しい方法は? 著者はいちおう「正論」を提示してくれるが、その実行の難しさも同時に感じたのであった。

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