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2009年6月

2009年6月30日 (火)

「虎林」の文章芸

コリン・ジョイス「『ニッポン社会』入門」(NHK出版)読了。もっと早く読んでおくべきだった。「英国人記者の抱腹レポート」と副題にあるとおり、意外な盲点を鋭くつかれて思わず笑ってしまうところも多いのだが、それ以上に、泣ける本でもある。

たとえば「日本の日常」という章。山手線の車内。混雑した通勤電車。居酒屋のトイレ。近所の公園。駅のホーム。テレビのワンシーン。プールの休憩時間。エスカレーター。近所のスーパー。アパートの布団干し光景。これといった感動的な叙述はなにひとつなく、ひごろ、文字通り見過ごしているなんの変哲もない光景が、たんたんと積み重ねるように描写されるだけである。それなのに、最後の一文、「ああ、これこそ日本。」に思わず胸がつまり、涙が流れる。感動を狙わず、感情を描かず、ありのまま、見えたままの平凡な事実をしずかに叙述して泣かせる。かなり高度な芸である。もの書きとして見習うべきところが多い本である。「虎林」のハンコが見てみたい。

6月も終わりで、一年の折り返し。あいかわらず焦点の定まらない雑多なことに終始するばかりだったが、とにかく無事に生きのびることができて、仕事を与えていただけることに感謝する。

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2009年6月29日 (月)

挑発するなら遠慮は無用

25ans 8月号発売です。連載「リュクシーなモード」で今秋の冒険的なモードについて触れています。

自分の書いているページが「リュクシー」(ヘルシー+リュクス)ということばを意識しすぎてなんだかきまじめでつまらないなあ、なんとかせねば、と思っていたところ、25ans本誌のほかのページが本来の「らしさ」炸裂で刺激を受けた。

とりわけ「サステナ女」(魅力が持続する女)と、「港区ハワイ」(気軽に通うハワイで港区と同様の生活・社交をする)というコンセプトには、驚き、笑い、パワーをもらった。この大胆不敵な挑発。とりわけ「港区ハワイ」のコピーなんて反感を買うことも目に見えているが、だからこそ、強烈なパンチ力がある(断るまでもないが、ファッション誌は、フィクションの度合が高くて濃いほど面白い)。世の中が「このご時世」とかいって遠慮しあっているときだから、いっそう、効いた。「ダンディズム」の本では挑発をねらったにも関わらず、中途半端に遠慮がはいってビミョウになったところも多く、反省していたのだが、やはりどうせ挑発するなら遠慮は無用。笑いをとるほど突き抜ける覚悟をもたねば。反感をおそれて中途半端になるのがいちばん反感を招く。鉄則をあらためて学ばせていただいた。

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2009年6月28日 (日)

安価なジーンズにひそむ闇

ミカ・X・ペレドのドキュメンタリー映画のDVD「女工哀歌(CHINA BLUE)」を観る。

「安い!」ことが絶対の価値であるかのようにモノを買う人は、どうかこれを観てほしい、と思う。信じられないほど安い服が存在するのはなぜか? 理由があるのだ。多くは暗い理由が。製造・流通のどこかの段階で、誰かが不当な目にあっている。

「ウォルマート」の製品を請け負う中国のジーンズ工場で、出稼ぎとして働いている少女たちの、あまりにも過酷な労働状況が描かれる。一日18時間以上、ときには貫徹の、休みなしの労働、時給7円(!)以下。残業代ゼロ。眠らないよう、まぶたに洗濯ばさみをはさまれる。ただでさえ安すぎる賃金から、食事代(粗末きわまりない)だの水道代だの管理費だのが天引きされる。初任給は、退職を防ぐための「デポジット」として支払われない。夜間の外出は禁止になることもあり、それでも禁をおかすと罰金が課される。当然、帰省すらままならない。インターナショナル査察官にはウソを申告させられる。奴隷労働以下であるが、まともな教育も受けていない少女たちは、そんな状況が「労働基準法」に反する不当なことであることさえわからない。工場長も、「ジーンズ1本あたりの価格を下げて国際競争に勝つ」というプレッシャーのもとでは、それだけやらないと利益を上げられない。

この非人間的な搾取の上に成り立っている、明らかに適正ではないレベルの「安い服」を、それでも「安いから」という理由で買っていいのだろうか? マスメディアも、「激安!」ということだけで、手放しでホメていいのだろうか? 

雨宮さんにインタビューしたとき、デモ隊に参加するプレカリアートの多くは、299円のTシャツを着ている、と知らされた。ネットカフェの近くに、自動販売機で「シャツ、パンツ、靴下」のセットが300円で売っている、とも。(材料調達、製造、梱包、流通、販売の手間を想像すれば)ひとりの労働者の最低限の時給以下の価格で衣類のセットが売られている、そのことじたい、異常なことであるはずだ。

でも、不当にこきつかわれているフリーターや派遣労働者の多くは、古着をもらうことを除けば、異常なほどに安い服を買うという選択肢しかない。選択肢そのものがない。生きることにめいいっぱいで、値段のしくみまで考えている余裕はない。それは痛いほど理解できる。で、その安い服を作らされているのは、彼らよりもさらにひどい搾取の上に働かされている海外の労働者なのだ。不当に搾取されている労働者が買える唯一の服が、さらに酷く搾取されている海外労働者が作った服であるという哀しみ。理不尽きわまりない悪循環で、どうにもやるせなくなる。

せめて、選択肢がほんの少しだけでもある消費者は、「安さ」の理由の奥を知って、そのうえで何を買う(=一票を投じる)か買わないか、考えて決める義務があるように感じる。

って、すまん、エラソーで恐縮だが。でもやはり、ひどすぎる条件にも負けず、夢を抱いてひたむきに働いている10代の少女たちの姿に、「働き者で勇敢な中国人たち~♪」という歌が皮肉に重なるラストあたりでは、悲しいのをとうに通り越して、涙も枯れ、自分にできることはなにか、と問い始めている。

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2009年6月27日 (土)

「こんなものを読んで何の役に立つのだ」 & 「無痛の刺激」

◇気になって切り抜いていた新聞記事から、断片的に備忘録。6月10日(水)朝日新聞夕刊の、白石嘉治さんの「なぜ大学はタダでなければならないか 金銭になじまぬ認識・感情」より。

「なぜ大学はタダでなければならないのだろうか? ・・・(中略)・・・ なにより理解すべきは、大学であつかう認識や感情の表現が売買できない性質のものであることだろう。・・・(中略)・・・大学の無償性の国際的な合意を根本で支えているのは、そうした認識や感情にかかわる営為を金銭の論理によってコントロールすることへの違和感にほかならない。」

「今年の2月からフランス全土におよんだ大学のストライキで、その象徴となっていたのは恋愛小説の古典『クレーヴの奥方』(ラファイエット夫人)である。発端は『こんなものを読んで何の役に立つのだ』という、新自由主義的な『改革』を迫るサルコジ仏大統の発言だった。・・・(中略)・・・ 金銭の論理に対峙しつつ賭けられているのは、書物をひもとき、ゆっくりとものを考え語り合うための共同性を営む権利である。」

この記事をなんども味わい深く読みつつ、大学時代をなつかしく思い出した。「役に立たない」学問にたっぷり触れることができた、豊かで貴重な時間だった。気がついたら私自身もまったく「役に立たない」ことを書く「役に立たない」人間のはしくれになろうとしていて、そうあることが快いと思っていた。でも、シビアな現実を生き抜かなくてはいけなくなったとき、そんな贅沢なことばかりも言っていられないことを、身にしみて知る。今も、どっちの方向にもそれなりの意義があると思い、大きくゆれている。

◇6月26日(金)朝日新聞夕刊の、森直人さんによる「トランスフォーマー リベンジ」評、「快楽もたらすド派手さ」。

「・・・世界観が壮大になればなるほど、荒唐無稽な印象が増す。また作り手も観客を知的に説得する気はないようだ。・・・(中略)・・・ 瞬間的な快楽をもたらす”ネタ”でびっしり埋めていく。この怒涛のつるべ打ちを痛快と取る向きもあるだろうが、実際の体験の質は、感覚の麻痺に近い。実写とCGが見事に混在した破壊と暴力のスペクタクルは、全体が玩具的で、こちらの生々しい感情を呼び覚ますものではない。ただハイスピードの展開に脳も肉体も支配され、”無痛の刺激”が均等に続いていく。映画を見ている間は、麻酔薬を打たれたように現実の時間を忘れることができるのだ。」

この種の映画を見ているときにいつもぼんやりと感じていた、ことばにならない感覚を、なんと的確に表現してくださっていることだろう。刺激の連続に見えて、たしかにアレは「無痛の刺激」である。

それが悪いというわけではない。森さんもちょっと皮肉まじりに「これは現在の最先端を示す一本と言えるだろう」と結んでいるが、なんだかこの種の、思考停止状態に陥らせてくれる「無痛の刺激」に心身をゆだねたくなることも、たしかにある。

「無痛の刺激」という名言から連想したのは、アミューズメントスペースの最新型メダルゲーム。あれもまた「無痛の刺激」の宝庫なのだなあ、と。写真はこどもにつきあわされた某ゲームでシルバージャックポットをあて、1185枚のメダルがふってきた瞬間。Photo_2 エルガーの「威風堂々」が大音響でかかり、強い刺激のシャワーの連続でなんだかとても興奮させられたように錯覚するのだが、感情はぜんぜん動いていないのである。

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2009年6月26日 (金)

ゴスロリは、「治外法権」

お手本にしていたこともあるコピーライター、眞木準さんの訃報のショックから立ち直れないというのに、マイケル・ジャクソン、ファラ・フォーセットの訃報が続く。20代の頃アイドルとして仰いでいた人たちが、こんなにも早く・・・。ひとり心の中で「お別れの会」をする。ご冥福を心よりお祈り申し上げます。それにしても、人の命は短い。短かすぎる。自分はあと何年生きていられるのか、その間にいったいなにができるのかできないのか、うつうつと、考える。少なくとも、人の評価を気にしすぎて遠慮しているヒマなどないし、匿名で足引っ張る他人にかかずらっている余裕などない。

気持ちを切り替え、雨宮処凜さんにインタビュー@目黒雅叙園。

海外メディアがゴスロリ服を「ジャパンクール」の象徴と紹介している一方、実際にゴスロリを着る日本の女性はまったく違う文脈で着ている。そのギャップをかねがね「へん」と感じていたが、雨宮さんの話を聞くうちに、「女工哀史」以来変わらぬ日本の構造が浮かび上がる。生々しいお話を豊かな語彙で聞かせてくださった雨宮さんに、心から感謝。とりわけ「ゴスロリをまとえばそこは治外法権。何を言っても免責される」という話ががつんと興味深かった。アパレル産業の過酷な労働搾取の実態も知り、日本のファッションブランドの「格」がついぞあがらない理由も、うっすらとわかった。さらに調査のうえ、詳しくは「時代のテクスチュア」に書きます。

Photo それにしても、目黒雅叙園。「千と千尋の神隠し」の舞台のモデルになっただけあって、めでたいというか壮麗というか、とにかくびっくりの建物でした。赤い「橋」がかかり、天井画までついている豪華なトイレに呆然。(写真は、廊下に飾られている婚礼用衣裳)

感情のアップダウンの激しい一週間だったが、なんとか体調を壊さずつつがなく乗り切れたことに感謝する。お力を貸してくださった多くの方々に、心よりお礼申し上げます。

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2009年6月25日 (木)

「そう、」とは書かない

文体なんてひとそれぞれなので、どんなものがあってもいいと思うのだが、反射的に「気持ちわるい」と感じてしまう、ということばとか書き方が、正直言って、ある。

「生き様」(うわー書いちゃった)ということばは、絶対に活字では使わないことにしている。

それから、前文を受けて、「そう、・・・・・・なのだ。」ともっともらしく続ける書き方もダメかもしれない。なにが、「そう、」なのか、陶然と納得しないでくれ、と心の中で反発している自分がいる。数箇所これが続くと、どんなすばらしいことが書いてあっても、どこか興ざめしてしまう。

しかし、10年ほど前に書いた自分の本を見たら、とくとくとこういう書き方をしているところを発見して、本を破り捨てたくなるほど恥ずかしくなった。やっぱり若気の至りというか指の勢いというか、無意識のノリのような形で、やっちゃうのである。もう二度と書きません、と心に誓う。他人から見たら「ダメ」な表現はまだまだたくさんありそうである。文筆業は(ほかの多くの仕事と同じように)、終わることのない修行である。明日が少しはマシになっていますように。

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2009年6月24日 (水)

旅DVD

UOMO (集英社)8月号発売です。「旅にもっていきたいDVD」特集でちょこっとだけ、コメントしています。旅といっても最近は仕事がらみの移動ばっかりだったりするので、色気も素っ気もないですが。

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2009年6月23日 (火)

アメリカ人とイギリス人

「欧米では、」などと雑にひとくくりにされることが多いが(私もめんどくさいときにはときどきやります、はい)、イギリス人気質とアメリカ人気質はまったく違う。そのあたりのモヤモヤを笑いとともに明確にしてくれた本に出会い、うれしくなった。

コリン・ジョイスの『「アメリカ社会」入門 英国人ニューヨークに住む』(NHK出版)。

皮肉とユーモアにあふれた観察力と描写力がツボにはまる。私が心底好きだった(最近ではイギリスもアメリカナイズされてきたので、なかなか出会えない)イギリスならではの、スパイシーでひねくれた、でもまっとうなヒューマニズムの香りがふんだんに漂う。感覚を共有できる友人と出会えたような幸せを味わう。

ニューヨーカーの「見知らぬ他人に対する親愛あふれるオープンネス」が、実は相当気持ち悪いことである、ということを、ストレートに書かずにやんわりとおもしろおかしく伝える技芸にはうなった。こういう、いじわるでユーモラスなイギリス的文章芸は、かねてから「身につけたいものだ・・・」とひそかに目指している芸でもある。

「平等」をたてまえとするアメリカは、実はものすごい偏狭な階級社会であり、人々がその格差や差別に対して平気である、というそのことじたいがイギリス人を驚かせる、という指摘にも、「なるほど」と感心。

なかでも最もはっとさせられたのが、アメリカ人が(そしておそらくアメリカ好きの日本人も)熱心な、「ネットワーキング」の気持ち悪さに対する指摘である。

「交友関係が仕事に役立つというのは、友だちづきあいのあくまで副産物でしかない。しかるに、アメリカ人はおおっぴらに、自分にとって役立つ人と友人になろうとする。その人が有用だから、親しくなろうとするのだ。ぼくには、そんな振る舞いはあまりに功利主義に染まったものに見え、ぞっとするほど不誠実だと感じられた。」

このくだりには思わず膝を打った。うさんくさいベストセラー本などでまことしやかに奨励されている「役立つ人脈の作り方」「いらない交友関係の整理の仕方」みたいなのがどうしようもなく不気味だ、と常々感じていたのだが、そうそう、こういうことなのだ。コリンがすっきり代弁してくれた。ありがとう!

翻訳の谷岡健彦さん、イギリス的気質を踏まえたとてもすばらしい訳をなさる方だと感心しました。

コリン・ジョイスの前著(読んでなかったのが恥ずかしい)もさっそく購入したことは、言うまでもない。

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2009年6月22日 (月)

秋葉原にヴォーグ効果

今日のファッション文化史の講義が、18世紀ロココから19世紀初めの新古典へと向かう時代の話だったのだが、話しながら、なんだか今の日本はちょうど革命前のフランスみたいだ、という気がしてきた。「シャネルが買えないならH&Mがあるじゃない」といえる人々と、住む場所もなく飢えのあまり犯罪に走らざるを得ない人々・・・。後者の増加が、社会に不穏なエネルギーを増やしている。これが爆発する前になんとかしなくてはいけないとは感じるのだが、いったい自分になにができるのか。何の力もない自分を歯がゆく思ったり、でもそんなことを考えることじたいが行き過ぎたことに思えたり。ただせめて、常に関心を抱き、声を聞き続けることだけはやめないでおこうと思う。

大学に、秋に開催される「秋葉原エンタまつり」事務局の方がお見えになる。なんと「ヴォーグ」を片手に。7月号のマンガ+モード特集の解説をご覧になり、このようなことをシンポジウムやショウを通して秋葉原でやりたい、と。オタクの聖地アキバに「ヴォーグ」なモード。5年前に誰がこの結びつきを予想できただろうか。ありえなかった両者のつなぎ手として自分が巻き込まれていくことに対しても、不思議な思いがする。

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2009年6月20日 (土)

ルーキーズ

表現がわかりやすくデフォルメされているという点で、アニメのような感覚で楽しんだ。

たぶん、ドラマからずっと追っかけてきた人には、最後の「グラウンドでの卒業式」シーンがたまらない格別なものになるんだろうなあ・・・・・とはもちろん想像できたものの、映画から入った観客には、あのお涙ぼろぼろシーンはちょっと蛇足にも見えた。スクリーンの中の人は泣かずに、スクリーンの外の観客を泣かせる、という演出がほしかった気もちょっとだけします。

タイプのちがうイケメンがぞろぞろ、という楽しさもある。それぞれのキャラクターが互いに互いを引き立てあっているという点にこそ最大の魅力があるので、、誰がどう、という問題ではないのだが。安仁屋役の市原隼人、新庄役の城田優、赤星役の山本裕典はとりわけ強く印象に残る。あ、平塚役の桐谷健太もマンガになりきっていい味出していました。

それにしても、今っていうのは、まっすぐに「ベタ」なものが好まれるのでしょうか。ストレートに「感動してくださいっ!」と迫る映画やドラマがヒットしたり、「友愛」「正義」の鳩山ブラザーズに人気が出たり。80年代後半のひねりカルチュアの洗礼を受けた身には、やや戸惑うところもあり。

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2009年6月19日 (金)

ジュエリー界の現在 & 2000 エシェゾー・グラン・クリュ

帝国ホテル「孔雀の間」にてナガホリ(株)さんの創美展。半年に一度のジュエリー大展示会&大商談会といった趣きの熱気あふれるイベントで、ここ数年、うかがうのを楽しみにしている。なんにも購入しなくて申し訳ないかぎりなのだが、「ジャーナリスト」のような立場で招いていただいている。恐縮しつつ、感謝。

定番のオーソドックスな宝飾品から、世界で活躍する日本人ジュエリーデザイナーの作品、およびスカヴィア、レポシといったヨーロッパの一流ブランドの大胆なデザインの新作までがずらりと揃い、ジュエリーデザインの動向が感覚的につかめる。7~8ケタの数字が並ぶジュエリーが「売約済み」となっていることもあり、商談の様子を遠目に観察できるのも、ひそかに楽しい。2日間で億単位のジュエリーが売れるという。貧困問題を考えた翌日にこのきらびやかさをまのあたりにして落差著しいことだが、これもまた、現在の日本の一面である。

スカヴィアのデザイナーは赤いサスペンダーの似合う陽気なイタリア人なのだが、今年は、ティーンエイジャーの「4代目」を連れて来ていた。映画「ヴェニスに死す」を一瞬思い出してしまったが、優雅なイタリアの雰囲気もまとう、かわいい男の子である。

Photo_2 会場入口に飾られていたクラシックカー、「ロールス・ロイス・レイス」が圧巻だった。1939年のもので、当時の所有者はモナ・ビスマルク夫人。現在はジュエリーアーティスト梶光夫さんが所有しており、25周年記念作品としてデザインしたというカーマスコットオブジェ「宇宙の女神」がついている。黄金の女神が地球をもちあげ、その上に巨大なダイヤモンドがついている。このロールスにこのマスコット。ゴージャスで、まばゆい。

その後、帝国ホテルのロビー階ラウンジで「プレシャス」編集部の方々と、ジュエリー特集の巻頭エッセイを書くための打ち合わせ。「自分で稼いで、自分で買う」読者に支持されるジュエリーとはどんなものか、お話をうかがう。

ここ2~3年、読者が好むファッションにも変化が見られるという。数年前はかちっとしたキャリアスタイルが好まれたのに、最近では、甘さ、かわいらしさを加えた、「男の部下にも怖がられず、親しみをもってもらえる」ようなスタイルが求められるという。「バンク・オブ・イングランド」による「女性被雇用者は口紅とヒールで装うこと」の服装指南はじめ、世界の都市部のキャリア女性の服装の変化とも相通じるものを感じる。「女性らしさを慈しむ」ことが女の権威につながることは、世界的な傾向らしいと感じる。

よいものを見たあとの心地よい気分をこわさないよう、「2000 エシェゾー・グラン・クリュ」をあける。先週の成城石井のワインくじ、やはり2日目もやってしまったのであった(いいカモになった私はやっぱりバカである・・・)。でも2等のこれをあてたので大満足。すばらしく深みがあるのに、なんのひっかかりもなく滑らかにまろやかにのどを通っていく、優雅なワインでした。

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2009年6月18日 (木)

貧困とブランドの接点は

一週間ほどかけて、雨宮処凜さんの本を4冊続けて読む。『雨宮処凜の闘争ダイアリー』、『雨宮処凜の「生存革命」日記』、『「生きる」ために反撃するぞ』、『排除の空気に唾を吐け』。

重複する話も多かったが、貧困の問題を、ひとごとではない切迫した社会問題として直視させる迫力に満ちていた。現状が変わらぬ平和よりも、一発逆転を望める戦争を望んでしまう絶望人生。自分を殺すか、無差別に他人を殺すか、とまで人を追い詰める、五重の排除。自分が餓死するか、子供が餓死するかという崖っぷちで綱渡りをするように生きざるをえないシングルワーキングマザーのぎりぎりめいいっぱいの状況は、「明日のわが身」に思えてきて、思わず電車の中で涙を落としてしまいそうになる。

これもまた日本の今のまぎれもない現実なのか。このままでいいはずがない・・・。

・・・と、ここで日本の未来をぜひとも考えたいのだが、その前にまず、来週のことを考えねばならぬ。雨宮さんの本を集中して読んでいるのは、ほかでもない、来週、彼女にお話をうかがうことになっているためである。

「時代のテクスチュア」連載も終盤にさしかかり、やはりこのあたりで、ファッションがそもそも「それどころではない」話として一蹴される社会のことも考えないと、本物の、裏も表もある「時代のテクスチュア」にはなりえないんじゃないかと思ったのだ。

・・・にしてもあまりにも接点がない。ビジョンが無謀だったのだろうか。お話をうかがおうと思ったことじたいが僭越だったのだろうか。「ブランドものが労働の動機でありえた」労働者が健在だった20年前と、「ブランドを見たら火をつけてやりたくなる」労働者があふれる現在。どうつなぐ!? 今年上半期最大の試練となりそうであるが、なんとか建設的な接点を見出せるよう、考える。

○仕事柄、たくさんの映画の試写状をお送りいただく。とてもありがたいことと感謝しているものの、最近は、忙しすぎたり、ふつうに映画館で子供と一緒に観てもいいようなものだったり、「DVDでもいいかな・・・」という先の見えそうな映画が増えたりで、よほどのことがないと出向かないようになってきたのだが、この一枚には目が釘付けに。

パスカル・ロジェの「マーターズ」。観たあと確実にトラウマに見舞われる問題作らしいのだが。どんな程度か、思わず予告編をチェックしてしまう。怖そう。酷そう。ホラーやスプラッターはできれば敬遠したい。でも人間が想像する怖さの極限がどんなものなのか、それも見てみたい。揺れる・・・。

ちなみにこれまでいちばん怖い思いをした映画は、ドイツ映画の「エス」。やはりヨーロピアンが追求する恐怖って、血とかお化けがそれほど出てこなくても、底が深い気がする。

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2009年6月17日 (水)

埋もれゆくささやかな自慢の仕事・・・

イッセイ・ミヤケつながりのお話。

前述の新フレグランスは三宅一生さんプロデュースだが、現在の「イッセイ・ミヤケ」ブランドのクリエイティヴ・ディレクターは、藤原大さんである。

藤原さんは、「行動力ある哲学的デザイナー」とも呼びたい方で、「服を着ること」を通して人間の行動のさまざまなアスペクトを考えさせてくれる。

その藤原さんと、互角の、というか、どこか共振しあうインテリジェンス&想像力&創造力の持ち主であるなあと思っている人が、ほかならぬ佐藤卓さんである。

で、プチ自慢たらしくなって恐縮だが、尊敬するこのお二人と、一緒に仕事をするという幸運に恵まれたことがある。2年ほど前の、藤原大さんによる<インディゴは色移りしますキャンペーン>のとき。藤原さんがコンセプトを出し、私がコピーを書き、佐藤さんがグラフィックをデザインした。

お二人はボキャブラリーが抜群に豊かで、「本質を見抜き、それをムダのないデザインで際立たせる」という力量が圧倒的にすぐれている。デザインは「感性」が大切というのは真実だけど、その感性を、より高いところへ連れていくのは、やはりことばの力なのだなあ・・・とこの二人の議論や仕事ぶりを見ていて実感したのであった。

このキャンペーンで作った贅沢なフライヤーは、ほんとうにもったいないほどさりげなく、当時のイッセイミヤケのデニム製品に、価格タグと一緒につけられていた。私のひそかな自慢の仕事だったのですが、はたして何人が気づいてくれたやら・・・。 どんなにがんばった仕事でも、日々の喧騒にまぎれ、やがて忘れられていく。C'est la vie.

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2009年6月16日 (火)

イッセイ・ミヤケの新香水

Issey_miyake_1_3 2000年以来、9年ぶりとなるイッセイ・ミヤケの女性用フレグランスの発表会。青山のクリアギャラリーにて。

a scent by issey miyake という名の、ムダなし、本質追求、テクノロジー駆使、という点できわめて「イッセイらしい」香水でした。

Issey_miyake_2 パッケージをデザインしたのは佐藤卓さん。ボトルのデザインは、イスラエル人のアリック・レヴィさん。50ml、100ml、150ml、という容量の違いを、工業製品のようなアクリルのボトムの厚みで出す(正面から見ると同じに見えるのに)、という工夫が、おもしろい。ボトルの内側に佐藤さんデザインのロゴが彫りこまれている。ゆえに、ボトルの表面にいささかのひっかかりもなく、手触りがピュアな感じ。

開発にかかわったフランス人、アルノー・マルタンさんのお話を聞く。というか素朴な質問をしてみる。

中野: ムダなくナチュラル、ピュアでシンプルといった点では、従来の「ロー・ド・イッセイ」の伝統を踏襲しているように感じますが、従来の香水との大きな違いは何ですか?

マルタン: エッセンシャリティとシンプリシティを追求しているという点では、同じです。今回の香水では、よりフェミニンな印象を強めました。

中野: でも、フレッシュな感覚で、男女共用で使えそうですね?

マルタン: ノンノン(笑)! 最初は確かにヴァーベナ系のフレッシュな印象が全面にでてきますが、徐々に、力強く、花々が開いていきます。最後に甘く残るのが、ジャスミンです。ジャスミンはフェミニンな要素を決定する香りで、メンズには決して向きません。

中野: バラはすっかり男性香水の分野でも使われてますが。そうですか、ジャスミンが最後の女の砦なんですねっ!

マルタン: はい。それと今回カギになった香りは、ガルバナムです。 ゴムの樹脂で、ウッディな香りなんですが、これだけではけっこう、くさかったりするのです。それで21世紀のニューテクノロジーを駆使し、よい香りだけを抽出することに成功しました。

Bd_1_flacon_face 中野: 自然とテクノロジー。21世紀にふさわしいキーワードですね。これもまた、「ロー・ド・イッセイ」と同じように時代を象徴するフレグランスになりそうですね。

マルタン: そう願っています。ありがとうございました。

中野: こちらこそ!Bd_3_flacons_cote

☆発売予定日は、9月9日だそうです。サマーフレグランスとして快適な香りなので、夏に間に合うように発売してほしい・・・と思いましたが。

「ロー・ド・イッセイ」は男女どちらでも行き来可能な、トランスセクシュアルな時代を感じさせた名香でした。「ア・セント・バイ・イッセイ・ミヤケ」は第一印象はトランスセクシュアル、でも「最後に残る、女らしさの砦」を表現していることが印象的。仕事はばりばりできても、女性らしさは、ゆずれぬ砦として、慈しむ。そういう時代がきていることを、あらためて感じます。

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2009年6月15日 (月)

「ファッション学」にはどんなアプローチがあるのか

フレデリック・モネイロンの『ファッションの社会学』を読む。白水社の文庫クセジュに入っていて、手軽に持ち歩けるのがありがたかった。

「ファッション学」「ファッション研究」にはどのようなアプローチがあって、それはいかに発展してきたのか、というような、「ファッション学」の学徒はおさえておいたほうがよいといったタイプの概説書で、研究書ガイドブックとしての一面もある。

先人はこんなアプローチを試みてきた。それをすべて踏まえたうえで、ならばあなたはどう行くか?と問われているような感じになる。

大学に、某テレビ局から「激安ファッションのコーディネイトのファッションチェックを」という依頼がきていて(あちこちの本でわざわざ「ファッションチェックはできません、そんな才能はありません」と書いているのに・・・もちろん、読んでもらっているとは夢にも思わないが)、世間で広く受け止められているところの「ファッション=おしゃれで好感度の高い今時の着こなし」の期待に添えなくてまことに申し訳ないとは思ったが、やはり地道に少しずつ誤解をとき、面白さや奥深さを広める努力をこつこつと続けていくしかないのだな、と思う。

それにしても。「激安でかわいい」ばかり強調する報道はなんとかならんものでしょうか。もっと豊穣で崇高な世界に心を導いてくれるような報道を見たり読んだりしたいなあと思うのですが。それが難しいとしても、「激安」の裏に過酷な低賃金労働の苦しみをつい想像してしまうのですが、そこのところのもやもやをクリアにしてくれる報道はできないものなのでしょうか。

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2009年6月13日 (土)

人が人を殺すとき

マーティン・デイリー、マーゴ・ウィルソン著、長谷川眞理子・長谷川寿一訳の『人が人を殺すとき』を読む。1999年の本。進化生物学から殺人の動機を解明しようとした大著。

第6章の「殺しの動機は口論と名誉」に考えさせられる。人が人を殺す動機は、「よほど深刻でやむにやまれぬ理由のため」と思いこんでいたのだが、実はそうでもないことがわかってガーンときた。男が男を殺す動機でいちばん多いのは「ささいな口論」で「メンツをつぶされた」ため――。

そ、そんなくだらない理由でっ!

でもたしかに、紳士の伝統、決闘がまさにそれ。「名誉を汚された」ってつまり「メンツをつぶされた」。

自分の名誉を汚すものの生存を許さない。常に他人と比較し、自分より前へ出るものの存在を許さない。

この種の殺人が、近年、減少しているのだという。

身体を大きく立派に見せるスーツが廃れ、メンズファッションがフェミニンな方向へ向かっていることと、この種のマチスモの衰退は、無関係ではないように見える。より詳しいことは、携帯サイトの連載に書きます。

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2009年6月12日 (金)

2001 シャトー・ド・マル

成城石井の「はずれくじなしのワインくじ」誘惑に、つい負けてしまう。

6300円。最低でも6590円のワインがはいっていて、特賞は1本だけ、1998年のシャト・ラトゥール(86500円)。まさかこれは当たらないだろうな~と思いつつ、でも当たるかも? とか、2等のエシェゾーでもいいな、とか、最悪5等のカルボーニュルージュでもすばらしいじゃないか、とかあれこれ頭の中がワインワインでいっぱいになって、これはもう、一度買ってみないことには収まらなくなった。今週はバースディーウィークだったことだし、思い切って買ってみる。

あてたのは3等、2001年のシャトー・ド・マル。ふだん7990円で売られている極甘ソーテルヌであった。

・・・・・・正直いって、「甘いもの」が超苦手です。あんこもクリームも縁がなくていい(甘党の方、ご不快でしたらすみません)とひそかに思っているし、ましてやお酒の「甘口」はなによりもダメ。これならまだ5等のほうがよかったかも、とがっかりしつつ、あまり期待しないで開けてみたのだが。

単純に「甘口デザートワイン」と片付けることなど到底できないすばらしさ! 蜂蜜やアプリコットが成熟して腐をとおりこして昇華するとこういう香りになるのか・・・。苦いのもすっぱいのもすべてとりこんだ暁の、何もかも深くのみこんだ後の潔い大人の甘さ、といった、未体験の深いおいしさを味わった。やはりこのレベルのワインになると、甘さの格も違うのだなあ、とあとあとまで余韻にひたる。

そのまま売っててもぜったい買わなかったであろうワインに、こういう偶然で出会えたことはうれしいことだった。明日もう一度このくじに挑戦したくなってきた(夢はラトゥール)。いかん、成城石井さんの思うツボ。 

今週は、自分などさらさらと流れ行く環境の分子が一時的に淀んでいる状態にすぎない、という生物学的観点ほか、さまざまな「大きな視点」や「やさしい見方」にふれることができた、濃いバースディーウィークだった。今週、出会い、ことばを交わすことができた多くの方々に、感謝します。

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2009年6月11日 (木)

世界は、動き続ける渦巻き

思いもよらなかった視点を提示され、世界の見え方ががらりと変わる・・・という経験はやはり読書の最大の楽しみである。おそまきながら、福岡伸一さんの「動的平衡」を読んで、「おお」と世界が違って見える面白さを味わった。とくに印象に残ったことば、内容などを、個人的な備忘録としてメモしておきます。

・直観が導きやすい誤謬を見直すために、あるいは、直感が把握しづらい現象へイマジネーションを届かせるためにこそ、勉強を続けるべき。それが私たちを自由にする。

・胃の中は「身体の外」! 食べ物が「体内に入った」ことになるのは、消化管内で消化され、栄養素が体内の血液内に入ったとき。だから、消化されていない食べ物は、胃の中にあっても、「体外」にあるのと同じ。つまり、胃は体外。子宮も同様。

・合成と分解との平衡状態を保つことによってのみ、生命は環境に適応するよう自分自身の状態を調節することができる。これはまさに「生きている」ことと同義語。

・サスティナブルとは、常に動的な状態のこと。一見、堅牢強固にみえる巨石文化はやがて廃墟と化すが、リナべーションを繰り返しうる柔軟な建築物は永続的な都市を造る。

・コラーゲンが食品から、皮膚から、そのまま吸収されることはありえない!私たちには「身体の調子が悪いのは何か重要な栄養素が不足しているせいだ」という、不足・欠乏に対する強迫観念があるが、こんな「イン」と「アウト」をつきあわせただけの線形思考からは、生命のリアリティはみえてこない

・世界のあらゆる場所に、容易には見えないプロセスがあり、そこでは一見、混沌に見えて、その実、複雑な動的平衡が成り立つリアリティが生じているはず。

・生命は、何らかの方法でその欠落をできるだけ埋めようとする。バックアップ機能を働かせ、あるいはバイパスを開く。そして、全体が組み上がってみると、なんら機能不全がない。生命の持つ柔らかさ、可変性、そして全体のバランスを保つ機能――それを、動的な平衡状態と呼びたい。

・カニバリズム(人肉食)がほとんどの民族でタブーとされてきたのは、私たちを病原体から守る働きのある「種の壁」を無視する行為だから。ヒトを食べるということは、食べられるヒトの体内にいた病原体をそっくり自分の体内に移動させること。その病原体はヒトの細胞にとりつく合鍵をもっているのだ。だから、ヒトはヒトを食べてはならない。

・私たちの身体は分子的な実態としては、数か月前の自分とはまったく別物になっている。分子は環境からやってきて、一時、淀みとしての私たちを作り出し、次の瞬間にはまた環境へと解き放たれていく

・流れの中で、私たちの身体は変わりつつ、かろうじて一定の状態を保っている。その流れ自体が「生きている」ということ

・可変的でサスティナブルを特徴とする生命というシステムは、その物質的構造基盤、つまり構成分子そのものに依存しているのではなく、その流れがもたらす「効果」である。生命現象とは構造ではなく「効果」なのである。

・サスティナブルは、動きながら常に分解と再生を繰り返し、自分を作り替えている。それゆえに環境の変化に適応でき、また自分の傷を癒すことができる。このように考えると、サスティナブルであることとは、何かを物質的・制度的に保存したり、死守したりすることではないのがおのずと知れる。サスティナブルなものは、一見、普遍のように見えて、実は常に動きながら平衡を保ち、かつわずかながら変化し続けている。その軌跡と運動のあり方を、ずっとあとになって「進化」と呼べることに、私たちは気づくのだ。

個体というのは本質的には利他的なあり方。生命は自分の個体を生存させることに関してはエゴイスティックに見えるけれど、すべての生命が必ず死ぬというのは、利他的なシステム。これによって致命的な秩序の破壊が起こる前に、秩序は別の個体に移行し、リセットされる。

・アンチ・アンチ・エイジングこそが、エイジングと共存する最も賢いあり方。

・私たちは今、あまりにも機械論的な自然観・生命観のうちに取り込まれている。インプットを2倍に増やせばアウトプットも2倍になるという線形的な比例関係で世界を制御することが至上命題となる。その結果、私たちは常に右肩上がりの効率を求め、加速し、直線的に悩まされる。それがある種の閉塞状況を生み、様々な環境問題をもたらした。

・自然界は、渦巻きの意匠にあふれている。巻き貝、蛇、蝶の口吻、植物のつる、水流、海潮、気流、台風の目、そして銀河系。渦巻きは、生命と自然の循環性をシンボライズする意匠そのもの。

社会のあり方、個人のあり方、人生観まで考えなおさせ、アンチエイジングブームに警鐘をならし、「なぜ人を食べてはいけないのか?」という問いにまですっきりと答えをくれる。いろいろなヒントに満ちた、よい本でした。

☆「クロワッサン」(マガジンハウス)から著者インタビューを受ける。「愛されるモード」をとても気に入ってくださり、丁寧に読みこんでくださっていた。スケールの大きい福岡さんの本を読んだあとでは、「(自分の書くものなど)足元にも及ばないなあ・・・」と思っていただけに、次はもっとがんばろう、と少しだけ元気がわいてきた。まだまだ先は長いのだが。編集部に心から感謝します。

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2009年6月10日 (水)

最強のナンパ力

昨日、講演内容をメモしたような次世代産業ナビゲーターズ・フォーラムをオーガナイズしているのは、宮内淑子さんという美しいビジネスウーマンである。宮内さんは、私がもっとも「お手本にしたい!」と思っている、ある傑出した能力をもった女性なのである。

その能力とは・・・・・・ナンパ力である。

ことばのイメージが悪くて恐縮だが、いやあえて、とりあえずここでは、ナンパ力、と呼ばせていただきたい。宮内さんのことを知る多くの経済・産業界の重鎮の方々はふかーくうなずいてくださると思うが、ある人は品よく「宮内マジック」と呼ぶ。

有能なビジネスウーマンの例にもれず、彼女も多くの組織に関わっていらっしゃるのであるが、その人脈力が、並大抵のものではない。しかも、その築き方が、日本人離れしているというか、宮内さんにしかできない特殊技芸というか・・・・・・。彼女がオーガナイズするさまざまの会に名を連ねる錚々たるメンバーの多くは、彼女が「知らないおじさんだけど、なんだかすてきな方だなあと思って声をおかけしたら、やっぱりすばらしい立場の方だったので、連れてきた」(!)という方々なのである。

たとえば、昨日新メンバーとして「宮内さんに、連れてこられた」方も、ある有名な大企業の管理職にある方なのだが。福岡へ向かう飛行機のなかで、たまたま座席が隣りあった方なのだという。「難しそうな本を熱心に読んでいらしたのだけど、ちょうど富士山の上にきたとき、雲ひとつなく噴火口の中までみごとに見えたんですよ。あまりにも美しく感動したので、『ご覧になりませんか?』と声をおかけしたんです」と宮内さんは楽しそうに語るのである。包み込むような母性を感じさせるあたたかな雰囲気と、物怖じしないストレートな度胸を前にしては、どんなコワモテの方も、ふわっと心を許すのであろうと思われる。

財務省の事務次官にしても、経済同友会の会長にしても、相手が何者かを知らないままに、「すてきな方だなあ」という直感にしたがって声をかけてみたら、来てくださった!という、凡人にはにわかに信じられない経緯でつながっている。

私にしても、3年ほど前、ニュースキャスターの村尾信尚さんにお招きいただいたあるパーティーで、知人もいなくて手持ち無沙汰にしていたところ、すっと横からビールを注いでくださったのが、宮内さんであった・・・という経緯で出会っている。このとき、宮内さんに声をかけていただかなければ、経済や産業界の動きなどに関心をもつこともなく、狭い井戸の中で煮詰まっていたことだろう。それを思うと、より広い世界に視点を導いていってくれた宮内さんには感謝してもしきれないくらい。

ちなみに、村尾さんはUOMOの連載で取材させていただいたのがきっかけで招いてくださった。こうやって人や仕事の縁はつながっていくのか・・・ということを体感したことであった。

宮内さんに学びたいことはほんとうに多い。直感の声に耳を澄ますこと。心に垣根を作らず、この人は、と思った相手の心の扉をまずはこちらからたたいてみること。「はしたないと思われるのではないか」と気にするような自分のエゴや思い込みにとらわれず、目の前の相手や、場全体のほうに、集中というか気配りすること。場をなごませるコメント力もすばらしいのだが、その秘密はまたおいおい学ばせていただくことにして。

「出会いがない」とか、「人脈がなくて」とか、「チャンスがない」とか「変化がない」という嘆きを聞くと、私は宮内さんのおおらかな笑顔と行動力を思い出す。出会いとかチャンスとか人脈っていうのは、向こうから飛び込んでくるものではなく、力んでマニュアルに沿って無理やりつくるもんでもない。心を360度オープンにして、肩の力をぬいて、生活の一瞬一瞬を楽しみながら直感力と観察力を研ぎ澄まし、自分のほうから物怖じせずに素直に周囲に働きかけてこそ恵まれるものなのだ・・・ということがよくわかる。

それをスマートに実行に移すのがなかなか難しいのですが。宮内さんにはいずれぜひ「ナンパの極意」を説く本を書いていただきたい・・・とひそかに願っているのです。

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2009年6月 9日 (火)

顧客の言うことを、聞かない!

次世代産業ナビゲーターズ・フォーラムに参加。今回はメンバーズプレゼンテーションとしてベタープレイス・ジャパン(株)代表取締役の藤井清孝さんの「正解のない時代の処方箋」というお話と、財務省財務事務次官の杉本和行さんの「日本の未来は?」という講演でした。

どちらも、私にはよくわからない専門用語も多々あったものの、全体として、次の時代の日本のことを考えるための、より大きなフレームを与えてくれる刺激的なお話でした。たぶん、完全な理解はとうていし得ていないとは思うのですが、今の段階の私に響いてきたことば、印象に残ったこと、役立てたいことなどを、個人的な備忘録としてランダムにメモしておきます。

★藤井清孝さんのお話

・日本産業の強みに、「オペレーショナル・エクセレンス重視」がある。オペレーショナル・エクセレンスとは、あたりまえのことをあたりまえにきちんとできる、ということ。この点は日本が世界の中でダントツに強い。自己規律的な国民性も強み。

・弱みとしては、企業の事業に対するフォーカスが弱いこと。大企業がニッチに参入してしまい、なにやらいろんなところでやみくもな過当競争が起きていて、みんながみんななにかの事業に参入しているけどフォーカスはしない、という型が蔓延している。人材市場が硬直化していることも、弱み。

・日本産業の再生の処方箋としては、事業フォーカスされたグローバルナンバー1の企業作りを目指さねばならないだろう。過当競争をなくす業界構造の再編成も必要。また、愚直なものづくりだけではこれからは不十分であり、アジアにおける「ものづくりの雄」になる鍵として、「日本のクオリティ+中国のコスト+韓国のスピード」のいいところどりが求められる。現場の強みを収益に反映させる戦略も、必要。

・顧客から見たら「自分だけに対する特別なカスタムサービス」と見えるが、実はそれは裏から見たら汎用化されたシステムに基づくもの、というような見せ方ができるものがあれば応用範囲は広い。たとえば、フォーシーズンズ・ホテルはフロントで3回、顧客の名前を呼んで話しかける。「ミスター○○」と。客から見れば「自分だけに対するサービス」、でもサービス提供者にしてみれば汎用化されたシステム。

・イノベーション力を強化するには、顧客の言うことを聞かない製品開発が必要だ! ある水着メーカートップは「選手に嫌がられてでも新しい発想の水着を開発する姿勢が必要だった」と語っているし、ルイ・ヴィトンの製品開発哲学には、「お客様をあっと言わせ、ワクワクさせる製品を作るには、お客の言うことを聞いてはいけない」というのがある。CS(顧客満足)なんて言ってアンケートなんかとっているばかりでは、ほんとうに客に感動を与えるすごい製品をつくることなんてできないのだ。

・グローバルに通用するためには、コンセプトをプラットフォーム化することが必要。たとえば、世界で売れる「ザガット」や「ミシュラン」は、誰がどういう基準で採点しているのか、コンセプトが明快。だが、日本だけで人気のある「大人の隠れ家」「東京いい店うまい店」といったガイド本は、「日本村のかわら版」として人気が高いが、誰がどういう基準で載せているのかわからず、トータルでみたときに何を目指そうとしているのかわからないため、グローバルにいくことは難しい。 「格が上」とみなされるためには、コンセプトをどこでも通用するようにプラットフォーム化することが必要である。

・業界の狭い枠を超えた、ちがう絵を描こう。LPレコードがCDになるときに、音響機器業界はその周辺をフォローすることだけに躍起になっていて、コンピュータで音楽をダウンロードするという絵までは描くことができなかった。結局、大きな違う絵を描いていたアップルに、いいところをもっていかれてしまった。業際的にものごとを組み合わせて「トータルに大きく見ると、違う図」を描くことが大切。

・・・・イチもの書きにも通用する汎用性の高いお話でした。よし。これからは読者の注文を、聞かないことにしよう(笑)。たしかに、お客様の想像のレベルをドカンと超えるくらいのものを提供するんだという心構えじゃないと、驚きや感動なんて与えられないのである。

★財務省 財務事務次官 杉本和行さんの講演。

とにかく私にとっては「財務省の財務事務次官」っていうだけで、雲の上の人だった。いったいどういう人なんだろう!?という人間的興味が最優先。

おだやかでやさしげな口調と風貌ながら、めちゃくちゃ頭がきれてそつがなくいやみなく手ぬかりなし、といった頼もしい印象でした。「うわっ、日本の財政をこんなあたまのよい方にお任せしてるって、たのもしー!尊敬っ!」と感激(ミーハーです、はい)。近年の国際金融状況・世界経済をめぐるフェーズの変化と、それに対して日本政府がとってきた財政政策を、こまかなグラフや数字を駆使して詳しく紹介してくださいました。細部の動向の話にはさっぱりついていけなかったものの、この2,3か月で上向きに持ち直している、ということはわかった(・・・)。

最後に、メンバーからの質問に答えるときに、ちらっとヒューマンなお話を披露していただいたことが印象に残りました。

日本では、「叱られるばかり」。これがよい結果をもたらすはずはない、という話。たとえば官僚はフレッシュマン時代に、「何のためにこの仕事を?」と聞かれたとき、「公の利益のために仕事をしたい」と答える。そういうよき希望を持った人が大半である。

それが途中で方向がゆがんでしまうことがある。たてわりの組織の力でやっていかなくてはいけない中、政治家に叱られ、マスコミにたたかれ、としているうちに委縮してしまうことがある。委縮すれば視野が狭くなり、庭先しか見なくなる。それが結果として、国民の利益にならない成果につながってしまうことにもなりかねない。

日本にはほめるカルチュアがないのが問題。ねたみそねみひがみやっかみ・・・・の七味トウガラシばかりで、仕事をやろうとしている人の足をひっぱっても、なんのいいこともない。正当に批判すべきことがあればもちろん批判すべきだが、ほめるべきときにほめて、激励していくことが、結果として日本全体にいい結果を及ぼすことになる。

この話は、最近の匿名中傷などのこともあって、すごく響いた。人はけなされると、たとえそれが不当なもので、無視が妥当であると頭で理解しても、まったくモチベーションを失うのである。雲の上の人に見える官僚だって、私たちと同じ、デリケートな心をもつ人間だ。日本社会に根深くはびこる「七味トウガラシ」カルチュア、日本人がほんとうに自分の利益を考えるなら、まずはこれを撲滅しないと、と心底思う。真剣に努力している人は、ほめよう。そうすることで、のびやかに能力を発揮してもらえれば、よい結果がめぐりめぐってくるはずである。官僚のみならず、公のためを思ってがんばっている人をけなすばかりでは、彼らのすぐれた能力を委縮させ、結果として国益をそこなうことにもなりかねない。

梅田望夫さんが「日本のウェブに失望」というような発言をなさっていたが。中傷や罵詈雑言ばかりがあふれていて、ほんとうのトップの人が萎縮して敬遠し、ウェブの良い点を生かしきれていない、というのはたしかに日本にとって残念なことに感じる。他人に七味トウガラシをまぶして悦に入っている匿名の人は、結局、トータルに見れば自分の利益も損ねていることになる。管理者も、感情の垂れ流しで人を不条理に傷つけるような書き込みに対しては、もっと高い意識をもって責任をもつべきではないのか。それが公益に、ひいては、自分自身の利益につながる。

国の財政に関する大きな話を聞いたのに、聴き手の専門性が低いために、なんだかすごく卑近なレベルの話しか残らなかったみたいだが。でも、財務事務次官という立場の人の責任感や仕事、人柄に少しでも触れることができたのは、ものすごく貴重で、幸運な体験でした。

「100年に一度」とされる経済危機の時代に財務次官になったことを、「運が悪かった」とは考えず、「運がよかった」(試練がたくさん与えられるため?)と考えるようにしているという杉本次官の仕事に対する姿勢には、高貴な品位を感じました。たいへんな時期ですが、日本の明るい未来のために、どうかがんばってください!

個の小さな問題を離れて、大きな枠、違う視点でものごとを考える具体的なヒントのシャワーを浴びるという、お宝のような時間を過ごすことができたことに感謝。

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2009年6月 8日 (月)

G.T.K・・・。

池田小事件、秋葉原事件、と凄惨な事件が起きた日として記憶されている6月8日なのだが、そんな日が誕生日なのである。創刊当初から連載その他で細々とおつきあいの続くUOMO(集英社)の、現在の編集長の岩瀬朗さんも同じ誕生日である。岩瀬編集長は私よりひとつだけ上。日ごろ超多忙で音信不通でも、毎年この日の前後には「池田小の日が来ましたね・・・」などと神妙にしつつ、エールを送ったり送られたりする。岩瀬さんから連絡がくるのはたいてい1日ずれとかのジャストの日ではない。こういうところ、ベタが苦手な双子座の共通点なのかな、と「同志」感覚でニヤリとする。

大学にいくと、ゼミの学生さんたちが、サプライズでバースディーケーキを用意して祝ってくれた。Great Teacher Kaori とチョコで書いてあって、「やっぱりマンガ学部……」とみんなで笑っていたけど、ありがたくて心のなかで泣けた。人生の一瞬一瞬を楽しもうとしている学生さんたちに出会えたことに感謝する。彼らの将来の夢を聞きながら、若い人が夢や希望をもてる世の中を用意し、年を重ねることは悪くないと感じてもらえるよう努力し続けることが、私たち世代の役目かなあ、とひしひし感じる。

公開授業を含む3コマをこなし、へとへとになって帰ったら、近所のママ友のサツキさんが、「疲れてるでしょうから、ウチ来て食べて!」と息子ごと拉致してサプライズパーティーをしてくれた。やっぱりしみじみうれしくて疲れが芯から溶けていくようだった。心やさしくバイタリティもある友人や隣人に恵まれたことに、心から感謝する。

バースディーウィッシュ。エゴを離れて、周囲の人を幸せにするために行動すること。そうすることで自分の小さな悩みから解放されたい、とか、他人の幸せがめぐりめぐることでより大きな幸せにあずかりたい、というのもまたエゴの一種なのかもしれないが。

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2009年6月 4日 (木)

デイヴィッド・キャラダイン 冥福を祈ります

「キル・ビル」のデイヴィッド・キャラダインが72歳で没。

新作映画「ストレッチ」撮影中だったとのこと。英「インデペンデント」によれば、クローゼットの中で半裸状態でカーテンコードを首と性器にまきつけて亡くなっていたのをメイドが見つけた。自殺ではなく、事故死では、と同紙はほのめかす。なにがあったのか、詳しい調査を待つしかないが、タランティーノによるキャリア復活の「キル・ビル」ではほんとうにかっこよかった。冥福を祈ります。

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2009年6月 3日 (水)

スーザンの入院

英メディアのスーザン・ボイル報道が目立つ。「ブリテンズ・ゴット・タレント」決勝で負けたあと、ロンドンのホテルで「異常な行動」をとるようになり、救急車でプライオリ・クリニック(精神病院)に運ばれ、入院したとのこと。

ブラウン首相までもが番組プロデューサーに彼女の容態をチェックするよう電話したとか、文化相も動き出したとか、もはや国家的関心の的のようである。

決勝でいちばんいい思いをしたのは、賭け屋。ほとんどの人がスーザンが勝つことに賭け、結局胴元がいちばん儲けた。

スーザンは生まれた時の酸素不足が原因で、LD(学習障害)だったことも報じられた。恋愛経験のひとつもない地味な47年間のあと、一夜にして世界的有名人になり、メディアに連日あることないこと報じられ、多大な期待と賞讃の声を寄せられ、莫大な金額の賭けの対象にまでなり、あげくのはて、そんな視聴者が選んだのは自分ではなかったと知る・・・。こんな、歴史上の誰も経験したことのない短期間の激しいアップダウンに見舞われれば、誰だってメンタルヘルスに異常をきたすだろう。

コントロールできないほどのストレスでダメージを受けてしまったスーザンの心中を思うと胸が張り裂ける思いがする。彼女をめぐる報道をつい読んでしまい、反応してしまうミーハーな自分もまた間接的に騒動拡大に加担している一端になるのかと思うと、情けなくいたたまれなくなり、自己嫌悪に陥る。でも、多くの人が、彼女からあきらめずに生きる勇気と希望を得たはずだと思うと、無視することもできない。さまざまな矛盾に、答えが出ない。スーザンの回復を願い、一週間禁酒することにする。

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2009年6月 2日 (火)

ラクロワ、破産

クリスチャン・ラクロワが破産の申し立てをしたと報じられた。

大胆で過剰な色づかいや、ぱきっと構築的なシルエットは大好きだった。3月に訪れたシンガポールの美術館では、ラクロワの舞台衣裳展をやっていて、舞台衣裳家としての才能にも敬服していたのだが。浮世離れした華麗な服は、不況の大波押し寄せる時代には生き残れなかったようだ。現実はきびしい。でも、稀有な才能、またいずれ浮上してくれることを祈る。

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2009年6月 1日 (月)

舵輪

「GRAZIA」 7月号発売です。巻頭のエッセイ「私の部屋の美しいもの」で、子供時代のことを書いています。

「SPURLUXE」7月号、茂木健一郎さんとの対談が載っています。

機会がありましたら、ご笑覧ください。

6月になりました。誕生月でもある今月の目標は「解脱」。厳しい修行をつまなきゃなかなか至れない境地だとは思いますが、少しでも近づけることをめざして、日々ちょっとずつ。

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