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2009年5月

2009年5月31日 (日)

二種の「愛し方」本は、ほぼ同じことを説いていた

森岡正博さんの「草食系男子の恋愛学」と杉本彩さんの「いい男の愛し方」を続けて読んだ。

「時代のテクスチュア」の次の章を書くための参考資料として、ひょっとしたら、「草食系男子」vs「肉食系女子」のわかりやすい構図になるかな、などと安易に想定しながら読んでいたのだが、どちらの著者も、自分のこれまでの人生を誠実に振り返ったその延長上に、「ひとりの人間」としての人との関わり方を説く、という同じ姿勢を貫いている。説いている要点も、案外共通点が多かった。きちんとしたことは連載原稿に書くことにして、ここでは響いてきたことばと直感的な感想だけ、ランダムにメモしておきます。

☆「草食系男子の恋愛学」

具体的な接し方を説いた箇所では、慎重すぎ?(だからこそ「草食系」なのでした)と感じたところもあったが、<生きにくい今の日本で、自分を卑下せず肯定して、人にあたたかく丁寧に接し、精一杯今を生き切ることによってこそ、恋愛もついてくる>というまっとうなメッセージが伝わってきた。以下、気になったことば。

・プロセスを楽しむ―今日の目標達成のことで頭をいっぱいにするのではなく、そんなことは頭から振りはらったうえで、いま目の前にいる女性とやりとりをしていくプロセスそのものを、楽しみ、味わっていく。

・あなたの話を聴くことによって、女性が本当に求めているものは、あなたという人間が持っているところの、ものの感じ方や、考え方、想像力の広がり方などを、よりよく知ることである。

・弱くなることによって、男と女はつながっていける。

・話をよく聴いてもらうことによって、愛情が生まれてくるというメカニズムは、性別の壁を越える。

・人間として成長したいと思っていたり、将来に対して夢をもっていたりして、全身からまっすぐに立ちあがる心意気があふれているときに、人間的な魅力が現れる。

・自分と他人をたえず比較して落ち込んでしまうという「心のはたらき」が、その人をモテなくさせている。

・真の自信とは、他人との比較をやめたあとに生まれる、控え目な自足のことである。

・ほんとうは、逃げ続けるのをやめたいと心の底で思っているにもかかわらず、いつも結果的には逃げ続け、そして逃げ続ける自分をいつまでも自己正当化できるようになっているのではないか。その矛盾に気づいていながらも、そんな矛盾などないかのようにふるまっているだけではないのか。恋愛できないことよりもむしろ、こういう自己矛盾の状況に追い詰められていることのほうが、いちばん苦しいのではないか。

・「夢をもつ」とは、自分が一生をかけて取り組んでも後悔しないような何かの活動を将来に行うことをめざして、いまを精いっぱい生きることである。(中略)そのように生きることをとおして、自分のまわりにいる大切な人たちに幸せがめぐってくることを願い、それらの人たちにこの社会を生き抜いていく勇気が分け与えられることを願うことである。

☆「いい男の愛し方」

杉本さんの、人生に対する凛とした美しい姿勢が伝わってきて、すがすがしい気持ちになる。やや「昭和」的な男性観(でもこれこそが今「肉食系」と呼ばれる女性が求めているものなのかも?)も感じたが、「迷った時には、人として美しい道、人としてカッコイイ道を選ぶ」という発想に深く共感する。<小手先のテクニックがどうこうという問題ではなく、人間として真剣に自分を磨き、男とともに成長し続けていくことができる女が、最終的にはすばらしい恋愛をつかむ>というメッセージを伝えている点、「草食系」と相通じるものを感じた。以下、ことばのメモ。

・心からあふれるサービス精神・・・これが気づかいの極意である。

・男に努力させる女の資質が、男を虜にする”いい女の条件”となる。

・人は、理解されることによって不安や緊張感を緩和することができる。

・絶対におろそかにしてはいけない”女の三種の神器”のような大切なものがある。それは、ランジェリー、香り、ピンヒール。

・フェロモンの有無は、男がランジェリー姿を想像できる女であるか否かにかかわっている。

・(男は)ランジェリーそのものにも反応するだろうが、本当に反応しているのは、そういうランジェリーを着ける女の欲求と官能的な内面に、だ。ランジェリーによって表面化した内面の一端、その奥をもっと覗いてみたい、と思うわけである。

・子どもっぽいと大人の可愛いは別ものである。

・ピンヒールでステキに歩くことで、肉体の美しさだけでない、高品質な機能の持主であることをひそかに語っているわけだ。

・計算されつくした自己演出の真の目的は、人と調和することだ。

・私は何かに迷った時、どちらが美しい行動であるか、どちらがカッコイイ行動であるかを考える。上辺だけのことではなくて、そこにともなう精神まで掘り下げて自問する。

・いい意味で人目を気にすることも必要だ。人の目を気にして、何か言われることを恐れ、自分に無意味な制限を設けるということではない。人の目に自分が美しい姿で映りたいという思いから、緊張感を保ち、自分を正すということだ。

・人間のキャパシティと実力が一瞬にして見えるとき・・・それはトラブルに直面したときだ。

・トラブルは、自分の能力や魅力を知ってもらう、いいチャンスなのだ。

・何が起こっても、そこで冷静に落ち着いて対処することで、必ず良い方向に空気は流れてくれる。(中略)対処の仕方さえ間違えなければ大丈夫。小手先ではない、相手を思いやるいつわりのない気持ちにしたがって、精一杯のエネルギーを費やせば、必ずよい選択が導き出せるはずである。

小さな悩みは、自分のエゴを捨てればたいていは解決するものである。自分の利益に執着しすぎたり、損をしたくないとムキになるから悩むのだ。そして、失敗したくないとか、良く思われたいとか、そういう欲をもつから臆病になって悩んでしまうわけだ。

・人間の可愛さとは、結局、素直な心が醸し出すものなのだ。素直な心とひたむきさに、人はけなげな本質を見出す。

・メッキはすぐに剥がれ落ちるのだから、小手先で勝負せず、いつわりのない心で真剣に勝負すべき。それに、そういうつくられたいつわりの可愛さは、まともな女たちにはすぐに見破られる。

・品性というものは、形で捉えるのではなく、その人からにじみ出る価値観や考え方であり、それが時々、形に反映されるだけ。

・上質な思考と、上質な技術が、上質な物を作り上げる。

・上品ぶった人間は、その知性や品性のなさが露呈することを恐れて、その本質を無意識に、あるいは意図的に隠そうと上品ぶるのである。

・エロスとは、敏感な感受性に宿るものである。

・心と体の扉は、あくまでも半開きにとどめておくこと。(中略)ほんの少し、光が漏れる程度に開けておくことだ。光の先が知りたくなるよう、その微妙なさじ加減が、エロスには必要なのだ。

・心以外の、ファッションや発言や行動にも、うまく恥じらいが調合されたとき、上級で上質なエロスは完成される。

5月も終わり。不快なトラブルに見舞われてつらいこともあったが、おかげで内省のよい機会を与えられた。仕事上ではよい出会いにも恵まれ、環境もリフレッシュできて、中身の濃いひと月をおくることができた。見守り、助けてくださった、多くの方々に感謝します。

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2009年5月30日 (土)

ここも休刊・・・

まさかあの雑誌までが?!と続々休刊の知らせが入ってくる今年だが、今日、またひとつ好きな「マガジン」が消えると伝えられ、ショックを受けた。ウェブサイト「ヴァラエティ・ジャパン」の関口裕子編集長から、5月いっぱいで更新中止、6月いっぱいでクローズの旨、メールでお知らせをいただいた。

アメリカの本社からの急な通告だったようだ。まだ1年と6か月で、これからというときだったのに。責任感が人一倍強い関口さんの胸中を思うと、やりきれない。「キネマ旬報」で連載をはじめた当初、彼女が編集者として担当してくださっていたのだ。新たなステージで活躍できる日が一日も早く来ることを祈る。

関口さんのメールで、匿名でせこい中傷されたぐらいで心を煩わされていた自分の小ささにはっと目が覚めた。他の編集部員のことや、今後のビジネスのことまで考えなくてはいけない彼女の大きな苦労に比べれば、とりあえず明日仕事をすることができるということはどれほど幸せなことか。自分の甘えた根性を心底恥じ、反省する。もう迷いはない。限られたエネルギーは、私を必要としてくれる人を幸福にするために、大切に使う。

ようやくリビングのリフォーム完了。20年分の汚れを落とし、不用品もすべて処分して、くたびれていた壁紙もカーテンも照明もテーブルも一新したら、なんだかすっきり、気持ちまで明るくなる。環境とともに心境も新しくしてがんばろうと思う。壁紙とカーテンは、「ふつう、日本人は選びませんが・・・」と忠告(?)された大柄ものを選んでしまったが、もう、いいんです、ふつうでなくて。

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2009年5月29日 (金)

5月28日は「バーバリーの日」

英国ブランド「バーバリー」がニューヨークのマディソン・アヴェニュー444にアメリカのヘッドクウォーターを開設するにあたり、ニューヨーク市長のマイケル・ブルームバーグが公式にこの日を「バーバリーの日(Burberry Day)」と定めた、と報じられた。

高層ビルの上に輝くBURBERRYの文字の高さは5フィート(約150センチ)。これが夜にライトアップされるとのこと。不況風なんのそのの、まばゆさであろうなあ。

…備忘録まで。

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2009年5月28日 (木)

雑誌は今年の折り返し地点に

「25ans」7月号発売です。連載の「リュクシーなモード」で今年上半期に話題を振りまいた三大女傑(いまなおこういう言い方してよいのかどうかわかりませんが)、アデル、べス・ディットー、スーザン・ボイルについてとりあげています。

「Vogue Nippon」7月号はマンガ+モード特集です。モードがマンガにどんなふうに接近しているのか、さらっとですが、解説しています(掲載しきれなかったこと、マンガ+モードから連想がつながっていったその他の現象などについては、携帯サイトの連載「時代のテクスチュア」に詳しく書いています)。

それぞれ、機会があればご笑覧いただけますと幸いです。

それにしても、雑誌はもう「7月号」。今年の折り返しに入ってしまいました。展示会は「秋冬もの」だし。夏を過ぎればあっというまに「新年号」の季節に・・・。

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2009年5月26日 (火)

定義がない、ことの豊かさ

「学問研究」らしいことの最初の対象は、イギリス文化だったのですが、なかでも大きな影響をうけて、私の書くもの全般に影響を及ぼしているのが「ジェントルマン論」です(こんなのは学問研究の対象ではない、という立場の方もいることを一応付け加えておきます)。

古今の多くの文人が、「ジェントルマンとはなにか」について膨大な量のことばを尽くしていて、そのそれぞれがほんとうに豊穣で楽しいのです。各人が、自分の視点からジェントルマン理念を述べるものだから、それこそ、「人の数だけ」ジェントルマンの定義があるのではないかと思わされるほど。

そんな豊かな世界が繰り広げられるのも、ほかでもない、「ジェントルマンの決定的定義がない」ゆえなのですね。

定義を定めれば、こぼれおちるものが必ず出てくる。定義を定めきれないからこそ、それをめぐり、ああでもないこうでもない、と多くの人が熱く議論を交わし続ける。

ああ、それが「学問」ということか・・・と自分なりに、腑に落ちた気がしたのです。

ギリシア時代、プラトンは、アカデモスのオリーブ園に弟子たちを集め、哲学を講じたといいます。「アカデメイア」と呼ばれたこの哲学教室に、アカデミズムの源としてのイメージを見ることができます。「愛とは」「友情とは」「生きるとは」「国家とは」・・・とほとんど結論に至りようのないことを延々と考え、議論し続けること。これが「アカデミック」ということ、と私はイメージしているところがあります(もちろん、私の勝手な解釈なので、専門家には専門家のご意見があることと思います)。

それが「虚しい」ことかといえばその真逆で、唯一絶対の結論に至らないことを知りながらも、それをめぐって、自分の経験ともてることばを総動員して考えつづけること。その行為にこそ、「(いずれ死んでしまうにもかかわらず)人が生きる」ことの意味(の少なくとも一部)があるように思えたのです。

なぜこんなつらい思いをしてまで生きなきゃいけないのか? 唯一の正解がないそんな問題に対しては、たぶん、必死で生きながら日々考え続けることそのことじたいを通して、絶望を読みこむことができれば救いを見いだすこともできる(つまり、「意味」を見出すことができる)。当然、経験の積み重ねやことばの蓄積の度合に応じて、毎日、その人にとっての「人生の定義」が変わってくるはずです。

おっと、話がでかくなりすぎた。

ジェントルマン理念は決定的な定義がないゆえ、今に至るまで議論され続けているのである・・・という話であった。

定義が石のように不動のものとして定まったとたん、議論は終わる。ということはそれについて、もはや他の人は考える必要はない、ということですね。考える必要がない話題は、もうその時点で、日々揺れ動く人間の心の関心の対象ではなくなる、ということでもあります。

ジェントルマンの定義を定めない、という暗黙の了解は、そんなことを知っているイギリス人の知恵ではないかと思っています。定義が定まらない、あいまいさを残した存在である限り、社会の構成員が変わろうと、「ジェントルマン」は延々と人々の関心と議論の対象であり続けることができるのです。

私が「ダンディズムの系譜」で議論と具体例を紹介したあとに「されど、決定的な定義はなく、時代や人に応じて定義は変わるだろう」という姿勢を示したのも、まさにこの伝統に敬意を表しているからにほかなりません。

「要点」と「法則」を黒太字で要約するようなハウツー本や自己啓発書を読みなれている方のなかには、「法則と定義を短く書いてくれ」とお思いになられた方も少なくないかもしれません。でも、「ダンディズム」というのは、「ジェントルマンシップ」と同様、<とりかえのきかない個人が社会のなかで生きること>と関わってくる問題であり、誰かが定めた定義に凝り固まってしまうようになれば、その時点で、「終わる」ものでもあるのです。各人が過去の例を参照しつつ、「おれの場合は・・・」と自らの経験を総動員しながら、日々、考え続けて議論を続けていく、そのことじたいに意味がある問題でもあると思うのです(もちろん、ほかにも考えるべきことが山積しているので、思い出した時には・・・という程度の話ですが)。

ダンディズムは、不動の決定的定義がないからこそ、19世紀という昔に生まれた概念でありながら、21世紀の今なお人々(決して数は多くはないかもしれないが)の関心の対象であり続けています。人間が関わることに、唯一絶対の解を押しつけてはならない。解は人の数だけあり、さらに日々変化していくこともある。このことじたいが、とてもヒューマンで豊かなことだと思い、きわめてイギリス文化的なこの伝統を尊重したい、というのが私の立場です。

他人が定めた定義を無条件に信奉する思考停止状態。北朝鮮の例をとるまでもなく、人類にとってこれほど恐ろしいことはありません。一元的価値を声高に売るハウツー本や洗脳系セミナーの隆盛に、そこにつながる不気味さを感じることがあります。

自分の頭で日々考え続けることを、止めるな。

決定的定義をすり抜け続けて生き続けるジェントルマンとダンディから、私がうけとったメタメッセージです。

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2009年5月25日 (月)

カフカな朝

目覚めたら、巨大な虫になっていた。というカフカみたいな朝だった。目覚めたら首が動かなくなっていた。関節に悪いところはなく、「ストレス」によるものらしかった。

「気にすまい」と心がけていた見当違いなしつこいネット中傷、結局、身体が受け止めていて、悲鳴をあげていたのだった。私は案外、外野の声に影響を受けやすいもろい人間だということが、よくわかった。

首を動かせない甲虫のまま、人の不当な悪意のよってきたる源を考えた・・・。私みたいな売れないモノカキなど、なんの嫉妬の対象にもならないだろうに。

命は短い。掘り続けなきゃいけない鉱脈は、まだまだ深い。こんな中途半端なところで、暗闇での卑小なテロ行為で甲虫にされたまま時間と体力を浪費するわけにもいかん。

WWDに掲載の見城徹さんのことばに背中を押される――「一生を終える時に、良い人生だったと思って死にたい。だから、僕の人生にとって今何をやるべきかと問いただす」。

人の心の闇や、自分の弱さについて、それこそ痛みを伴いながら考えるいい機会を与えてもらった、と感謝して、ここ抜け出して次、いくことにする。

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2009年5月22日 (金)

多謝。

WWDはファッション業界の最前線の情報や業界ゴシップが、文字通り隅々まで満載で、定期購読して毎週楽しみに読んでいます。

今日送られてきたNo.1528号は「それでも雑誌は生き残る!」特集で、話題の雑誌の編集長の考え方がよくわかる熱い誌面でした。とりわけ「ジンジャー」を強気で出した幻冬舎の見城徹さんの、

「雑誌をはじめクリエイティブな仕事は、ひとりの狂った人間、すなわち極端な何かをもった人間がいないと成功しない」

ということばは、思わず切り抜いてスクラップしたほど。

WWD編集長の山室一幸さんが書く「多事装論」というコラムも、ブランドに媚びない骨太のジャーナリスト精神が感じられて、毎回、感心しつつ読んでいるのですが。

いつものように、なにげなく読み始めたら、いきなり私のことが書いてあり、不意をつかれて驚きましたが、読み終える頃には、ありがたさが胸にしみいり、うるうる・・・。

正直なところ、今週はけっこう苦しい一週間でした。まったく見当違いの理不尽な悪意に遭遇してしまい、気にすまいと心がけても、魚の口に鋭い針がひっかかるみたいな感じで、心に金属がささって鈍い感覚がゆるやかに続いている、という状態でした。

そんな弱りきっているときに、同業者(というのもおこがましい限りなのですが)の、しかも日頃文章を通してリスペクトしている方から、思いがけず、少しでも認めていただき、励みになることばを書いていただくことができた・・・というのは、大きな救いになったのでした。山室編集長、ありがとうございました。

やはり文章を通して一目おいている小山薫堂さんもそうだけど、仕事が飛びぬけてできる人は、エールを送ることが、よい循環を生み出していき、めぐりめぐって本人にもさらなる幸運をもたらす・・・ということを知り、いやみなく実践している。

悪意を不当にまきちらすことに喜びを見出しているらしい方にも、それをとかしてしまうような幸福が訪れることを祈ります。

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2009年5月21日 (木)

世界の腕時計 No.99

もう数年も前になってしまうが、uomo創刊の最初の1年に時計の連載をもたせていただいたことがある。まったくのど素人に時計を語らせてみようという編集者のもくろみがあったようなのだが、結局、音痴は音痴。時計関係の本はほとんど読み、専門家にもたくさん話を聞いたのだが、なにかツボをえないまま幾星霜・・・。

でもその時間はまったく無駄だったというわけではなく、今につながるたくさんの貴重なつながりを得た。「世界の腕時計」もそのひとつ。豪華な腕時計の専門誌で、ためになるエッセイもたくさん載っている。

最新号99号でおもしろかったのが、斎藤融さんによる「大統領の時計」のエッセイである。オバマ氏の腕時計が「シークレットサービス」からの特別なプレゼント、という話は「ダンディズム」の本にも書いたのだが、それを製造している会社が「ヨルグ・グレイ」社であり、ムーブメントはシチズン関連の会社がつくっていて、そのブランド名は町の名にちなんで「ミヨタ」と名付けられている・・・という時計専門誌ならではのツウな情報は、このエッセイを読んではじめて知った! もっと早くに知っておきたかった。

今号の表紙の顔になった時計が、パネライの「リュミノール 1950 マリーナ スリーデイズ オートマティック」。例によって機能が細かい数字で説明してあるのだが(時計マニアはこの数字に萌えるようだ)、時計音痴の私にはそのスペックがどんなものなのか、さっぱり響いてこない。ただただ、深い静かな海を連想させる濃紺の、気負ったところがまったくないのに「今」を体現しているような、スポーティーな品格をたたえたフェイスに見とれる。

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2009年5月20日 (水)

メンズヘアのお手本はベッカムからペストンへ

英「インデペンデント」紙の記事。イギリスのメンズグルーミングのトレンドは、ベッカム的な自己耽溺系グルーミングから、控え目な洗練へと変わりつつあるとのこと。

このトレンドに寄与しているのが、BBCのビジネスエディター、ロバート・ペストン氏。

どんな方かな?と思ってBBCのウェブサイトを拝見したら、なるほど、メトロセクシュアル的なまばゆい感がかけらもない印象。とくにイケメンというわけではないけれど、頭良さそう、でも出過ぎるような感じもなく、穏やかで、万人に好印象を与えそうな人である。

髪は黒く、1:9ぐらいの横わけ(?)で、整髪剤不要のローメンテナンスでOKといった感じ。この髪形がいま「ザ・ペスト」と呼ばれて模倣されているらしい。

この髪をつくっているのは、デイヴィッド・バロンという「バロンズ・ヘアドレッシング」サロンのオーナーで、カットも30ポンド(5000円強?)とつつましいお値段(ちなみにベッカムのヘアはその10倍の費用がかかっているとうわさされている)。

不況期にはこんなお堅めな、費用もエネルギーもかからないヘアに人気が移るということもあるだろうが、やはりロバート・ペストンその人の魅力が大きいようだ。

ペストン氏は、2007年、ノーザンロックの資金難をスクープして以来、BBCで経済危機の問題を報じ続けて、知名度を上げている。49歳である。

「テレグラフ」ではペストンのヒューマンな側面を伝えるQ&Aが載っていた。これがまた愛とユーモアに満ちていて、すっかりこの人のファンになりかけた(笑)。いくつか抜粋します。

Q「あなたが信じていることを挙げてください」

A「人は本質的に善であること。人は誰もが自分自身をもっともよく生かす機会に値すること。人生には試験に通るよりもはるかに大切なことがあること。サッカーはほんとうに美しいということ。あやうくホールマークのカードに格言を書きそうになっていること」

Q「オンラインでの最大の発見は何でしたか?」

A「オンラインのスーパーマーケットでの買い物。というのもスーパーマーケットで買い物をするのが嫌いだから」

Q「過大評価されているのではないかと思う有名人は誰?」

A「みな、すばらしい仕事をしています」

Q「あなたにとって、<愛>の定義は?」

A「妻に対して抱いている感情」

Q「後世、どのような人として記憶されたいですか?」

A「まあまあいい父親(an OK dad)、として」

経済問題が重要問題であり続けるかぎり、ペストン氏の登場シーンはますます増えるのだろうなあ。たかが男の髪型ひとつ、不況と無関係ではありえない。

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2009年5月18日 (月)

タダの奉仕のほうが低報酬仕事よりも楽しい、という不合理な真実

翻訳独特の読みづらさもところどころあったものの、なんとか読了しました。ダン・アリエリーの「予想どおりに不合理」(早川書房)です。ビジネス書として人気が高いようですが、人間の行動や心理の不可解さを研究の底流テーマにしている私のような人文系人間にも興味深い指摘が多々ありました。備忘録がてら、メモしておきます。

●もっとも強く印象に残ったのが、4章めの「社会規範のコスト なぜ楽しみでやっていたことが、報酬をもらったとたん楽しくなくなるのか」の話。

 ☆人に何か頼みごとをされたり、もてなしてもらったり、手伝ってもらったりするとき。「ああ、申し訳ない、なんとかお礼をしたい」と思って代価を支払おうとすると、かえって人間関係が決定的に壊れてしまう! 

 ☆社会規範が優勢な関係においては、市場規範をもちこむことはタブーなのだ。

 ☆ボランティアとして働き、人に喜んでもらうのなら熱心に働くけれど、同じ仕事であっても、それが低賃金のバイトだったらとたんにやる気をなくす。

 ☆デートでもかかった金額を具体的に口にしたとたん、二人の関係は社会規範から市場規範に変化する。

 ☆ばりばり市場原理で動いているような企業であっても、社内で社会規範が働くことで、従業員に忠誠心を抱かせ、やる気を起こさせることができる!

●3章の「ゼロコストのコスト なぜ何も払わないのに払いすぎになるのか」のお話にも考えさせられるヒントがたくさん。

 ☆値段ゼロは単なる価格ではない。ゼロは感情のホットボタンであり、不合理な興奮の源である。値段ゼロの効果は、単独で独自のカテゴリーをつくっている。

 ☆何かが無料!になると、私たちは無料!であることに感動して、提供されているものを実際よりずっと価値あるものと思ってしまう。

 ☆ある一定以上の金額を買うと送料が無料!になるサービスがある通販の場合。ふたつめは別にほしいものでもないのに、無料!配送があまりにも魅力的で、つい要らないふたつめを買ってしまう(・・・私もよくやることだ・・・)。

 ☆あるビールは3キロカロリー、別のビールはカロリーゼロ。この場合、軽さはたいして変わらないはずなのに、カロリーゼロのほうが健康にいいことをしている気分をたかめてくれ、ついこってり料理を一皿注文してしまうかも(不合理すぎっ。笑)。

 ☆2と1の違いは小さいが、1とゼロの違いは莫大である。この点を理解するなら、客を大勢集めるのに「無料!」の力を有効利用すべき。「無料!」を利用して社会政策を推進することも可能。人々に電気自動車を運転させたいなら、登録費用を安くするのではなく、無料!にするとか。無料!は手持ちのエースであることに、ほとんどの政策参謀は、気づいていない。

一見、矛盾だらけで不合理に見える行動をよくよく分析すると、なるほど、そこにはヒューマンな真実が。これを意識化して心にたたきこんでおくことは、いろんな場面で身を守ってくれたり、役立ってくれたりしそうである。

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2009年5月17日 (日)

着倒れるひとびと

ラグジュアリー展のワンフロア上で同時に展示されていたのが、「都築響一 着倒れ方丈記」展です。本にもなってますが、写真を大きく引き伸ばした形で、コメントとともにゆったり見ることができます。これは「ええっ!?」の連続でした。

「衣食住」のなかの「食」と「住」の充実が皆無に近く、とにかく「衣」だけが生活のすべてになっているすごい人たち・・・。お風呂なしのアパートにグッチがあふれているとか、エアコンもなく扇風機がおいてある狭い部屋にエルメスがぎっしりとか、食べモノ厳禁の部屋に住みマルジェラとともに暮らすとか(ジュースを飲みたくなったらコンビニに行き、そこで飲んで、部屋には持ち込まないらしい)。ブランド側からもかなりクレームが来たようですが、いやしかし、これもたしかに日本特有のリアルな「ラグジュアリー」のひとつの姿なのかもしれないなあ・・・と強烈な印象を受けました。

風呂なしアパートにブランド服ばかりが足の踏み場もなくぎっしり、という光景には「ビンボーくさい」という批判がとんできそうですが、逆に、ブランド服コレクションにそこまでの徹底した情熱とエネルギーを注ぎ込むことができる人というのは、幸せなのであろうなあ、と持ち主の表情を見て思ったり。

服に埋もれて生きたい、愛するブランドに囲まれて死にたい、という着倒れな人生の数々。衣食住のバランスがとれてこそ・・・というのは正論なのでしょうが、展示された写真からは、ちんまりした正論を軽くふきとばしてしまう異様なパワーを感じます。コワくて愚かしくてこってりとおもしろい。「ラグジュアリー」とはなにかという問題を、下のフロアの展示とはまったく別の角度から考えさせれました。

南禅寺が近かったので、立ち寄る。三門の威容にも圧倒されたが、なんといっても美しく整えられた庭園の数々がすばらしい。とりわけ、小石を幾何学的に整えた庭を眺めていると、気持ちが澄んでいく気がする。花の存在をそぎおとした庭もまた、贅沢なのですね。

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2009年5月16日 (土)

ラグジュアリー展

京都国立近代美術館で「ラグジュアリー<ファッションの欲望>」展を観る。

世界一のコレクションをもつKCI(京都服飾文化研究財団)が、王道を行く展示を、それこそ贅沢に見せてくれました。ラグジュアリーに関する連載をもつ身としては、いったい「ラグジュアリー」の表現を考えるにはどういう視点があるのか?ということをサブテーマとして抱きながら観ていたのですが。

セクションは4つに分かれます。「1.着飾ることは自分の力を示すこと--Ostentation」「2.そぎ落とすことは飾ること--Less is more」「3.冒険する精神 --Clothes are free-spirited」「4.ひとつだけの服--Uniqueness」で、トータル80余点。

どのセクションもコンセプトが明確に際立っていて、これまでのKCIの展示で見たことがある服があったとしても、新しい視点から見直すことができました。とりわけ圧巻だったのが、「冒険する精神」のセクション。コム・デ・ギャルソンの服が、「もとはこんなにシュールな形だったのだ!」ということを力強く写した畠山直哉の写真と対峙する形で展示されています。世界を驚かせた日本のデザイナーによる、不思議なのに構築的な美しさをたたえる作品が、ずらりと並ぶさまには静かな感動をおぼえました。

「ひとつだけの服」セクションのマルタン・マルジェラの作品も、楽しい驚きの連続。王冠でつくった服、クリスマスツリーに飾るモールでつくった「コート」、貝がらみたいなアクセサリーパーツでできた「ジャケット」、3つの異なるウェディングドレスをつぎはぎしたウェディングドレスなどなど、笑いもとりつつうならせる超個性的な一点ものばかりです。

個人的に欲望を刺激されたのは、1920年代のフランスの靴会社がもっていたというヒールのサンプルコレクション。ラインストーンによるデコレーションが、ヒールにぎっしり。これ、今つくると流行ると思うんだけどなあ(ちなみに、いま、「アビステ」さんにデコ指示棒をリクエスト中です)。

ソニーのプレステ3によって作品の細部まで高画質で見ることができる、という新技術にも驚きました。生地の縫い目までリアルに拡大して見ることができる!すごすぎ。これも現実化してほしいものです、ぜひぜひ。

KCIのアシスタントキュレーター、石関亮さんについていただき、詳しい解説や学芸員ならではの苦労話を聞きながら観るというとても贅沢な鑑賞をさせていただきました(ありがとうございました!)。「なぜ、世界不況のこの時期にラグジュアリー展なのですか?」とあえて聞いてみたら、「世界のムードが暗いからこそ、美しく贅沢なものを見てよい気分にひたっていただきたいのです」とのことでした。たしかに、とても豊かな気持ちにさせてくれる展示です。東京展は10月から。こちらには別のサプライズがあるのかどうか、今からとても楽しみ。

せっかくの京都なのだから、ということで先斗町の「卯月」さんで食事。雨だったので川床はできませんでしたが、京都情緒はたっぷり堪能いたしました。

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2009年5月14日 (木)

「大人の実力」

まだ読んでない浅田次郎さんのエッセイだ・・・と思って中も見ないで購入。子どもの小学校の国語の教科書と同じ活字の大きさ、しかも過去の作品のなかからこれぞという描写をピックアップしたアンソロジー、とわかって一瞬、くらっとしたのですが。

編集者の力でしょうか。小見出しのつけ方がビジネス書や自己啓発本っぽくて、ああ、小説を使ってこんなエッセンスの抽出が可能なのか、となかなか勉強になりました(文学好きには鼻白むものなのかもしれませんが)。

「あわてず、動かず、奥歯を噛んで」

「人相風体はその人間の本質を語らない」

「ただの好い人ではない器量人」

「他人の痛みをわかり、自分の痛みは悟らせない」

「学問の喜びを身に纏う」

「傷ついた人間を見捨てない」

「選良は栄光と等量の責任を負う」

「本物は本物、写し物は写し物」

「芸術の実力は真心にある」

「真の努力をする者は努力の至らなさを知る」

「人生を背負ってくれる人に甘えない」

などなど、元になる浅田さんの小説はほとんど読んでいたとしても、こういう「教訓」までは言語化できなかった(笑)。このままトイレの標語(?)としてはっておきたいような、ありがたみのあるコピーは、頭に叩き込みました。意外な読み方を楽しめました。

それにしても、浅田さんレベルになると、なにもしなくても編集者が過去の自分の作品からこうして1冊の本を編んでくれるのですね。すごいなあ。

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2009年5月13日 (水)

ブラウン首相のメイク

イギリスの新聞は容赦ない。タクシーの中にゴードン・ブラウン首相が忘れていったマル秘「お助けグッズ(aide)」ことメイク用品とその使い方の手順のメモが暴露されてしまったようだ。

「愛されるモード」にも書いたけど、男性政治家のメイクは珍しいことではない。トニー・ブレアだって在任中に1800ポンドのメイクアップ費を税金からまかなっていたことが報じられていたし。

ただ、自分の容貌も意識的に演出していたブレア元首相とちがって、ゴードン・ブラウンは、外見なんか男が気にかけるものではないと信じているような、質実剛健のジョンブルというイメージがあった。だからよけいに、意外というか、かわいげを感じたというか…。

「メイクしてない」ように見せるヘルシーな男性政治家艶メイクがどうやってできるのか、以下のように報じられたのだった。

1 「トランスペアレント・ブラッシュ」のフォーム(泡)を顔全体に。

 泡状の、顔に透明感を与える下地のことでしょうか。

2 目の下、しわ、くぼみの気になるところにコンシーラーを微量、なじませる。

3 「クリニークのスーパー・バランスド・メイクアップ」(ファンデーション)を壁を塗るように顔全体に。耳にも忘れずに。目を閉じてまぶたの上にも。

4 「ゲランのテラコッタのパウダー」を顔全体に。

この工程をあのブラウン首相が繰り返しているのかと思うと、なにやら微笑ましく感じたのであった。政治家は見えないところでたいへんな努力をしなくてはいけないのですね。

クリニークとゲランの売り上げ、「ブラウン首相御用達」ということで上がるのかどうか。

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2009年5月12日 (火)

新・日本流

「次世代産業ナビゲーターズフォーラム」に参加。本日のメインの講演は、武田薬品工業株式会社 代表取締役社長の長谷川閑史さんのお話でした。

「新・日本流経営」と題された長谷川社長のお話からは、これからの日本が国際社会で存在感を示していくために、どのようなことが必要かといったことが(経済音痴の私にも)包括的にわかり、たいへん刺激を受けました。

国内の過当競争のなかで消耗戦になるばかりでは明るい未来がなく、グローバルな競争力をつけていくことが必要な時代であり、そのために企業はどうすればよいのか? といった主に経営者サイドの視点の話だったのですが、教育の現場とか、雑誌や本をつくる場でも応用可能なことばの数々がとりわけ印象に残りました。備忘録がてら、ランダムにメモしておきます。

☆成功している企業の経営者には共通点がある。すなわち、企業理念の伝導師としての役割をはたしていること。人材育成にコミットメントしていること。そしてよいコミュニケーター(内外に対して)の顔をもっていること。

☆今後も強化していくべき日本企業の美点(いくつも挙げられましたが、そのなかのひとつ)に、広義の「ものづくり力」がある。機械をわが子のように愛をこめて作るのは、日本人の特筆すべき長所である。(他国の労働者に比べ)遅刻や欠勤が少なく、定年を過ぎても働きたいという勤勉な国民性は、世界のなかでもユニーク。なにかを取り入れたら創意工夫をこらして差別化する能力は、日本人が並はずれて優れている(例:デパ地下のバリエーションの豊さはおそらく世界一)。

☆グローバルなリーダーシップをとれる人材育成は、急務である。「自然に育っていく」などとのんびりしたことは言っていられない。意識的に育てなければ。グロ―バルなリーダーに必要なのは、全体俯瞰能力+根本要因・本質把握力+公平公正・オープンにものごとをすすめられる力+ゴールへのステップを論理的・シンプルに説明でき、共通ゴールへと全体を導く能力。

☆そのために必要なスキルセットが、英語コミュニケーション能力+多様性・不確実性を受容し、それに対応できるスキル+異文化理解力+論理的思考力と分析力に基づいた交渉力。

☆グローバル企業になっても、無国籍企業になってはいけない! 国籍は日本。これを失っては企業力が損なわれる。

☆M&Aで世界の企業を買収していくことがあるとしても、経営者の品性や倫理感は絶対に必要。「うちがやらなければ次の誰かがやるだけ」といってひどいことを繰り返したアメリカはいきすぎてモラルハザードを起こしたが、最後は経営者の品格が問われる。現地企業の伝統や文化、自然と共生しながら強さを生かしていくのが真のグローバルビジネスのあり方であって、そうじゃないと生き残れないだろう。

☆グローバルにいかない「引きこもり企業」にもいいところがある(これはメンバーのひとり、今井通子先生のご指摘)。限られた地域で引きこもって作っているものに、アラブの王様しか買えないものすごい高額がつけられることもある。日本の織物とか、ヨーロッパの特殊な工芸品など。こういう産業はかえってオープンになってしまうと、低迷する。

ほかにも考えさせられたヒントがどっさり。実りの多い時間でした。

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2009年5月11日 (月)

不作法ギフト

「フラウ」6月号発売です。連載「ドルチェを待ちながら」のなかで、外交ギフトをめぐる話題を紹介しています。今年3月に米オバマ大統領と英ブラウン首相の間でとりかわされたギフトが物議をかもしたのですが(日本のメディアではほとんど報じられていませんでした)、その概要を書いています。ご笑覧ください。

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2009年5月10日 (日)

「もう小説を書いちゃいけないんだ」からの復活

伊坂幸太郎さんの「陽気なギャングが地球を回す」読了。待ち合わせまでの時間とか移動の合間にちょっとずつ読んでいたので、結局、2か月近くかかってしまった。でもかえって登場人物が長い付き合いの友達のように感じられてきたりして(・・・)。

とっくの昔から人気が定着している作品なのであれこれ書くのも野暮だが、巻末の村上貴史さんという方の解説で、軽快な作品の下にどれだけ作者の壮絶な苦労がひそんでいるかをはじめて知り、がーんと打たれるものがあった。

原型となる作品が、1996年のサントリーミステリー大賞で最終候補に残った作品。それが、「サントリーホールに大勢の人を招いて開催された最終選考会において、選考委員から徹底的に叩かれた。本人がもう小説を書いちゃいけないんだ、という気持ちになるほどに。」

その時の作者の気持ちがどれほどのものであったか、そこから復活する努力がいかほどのものだったか、想像するとほとんど涙ぐんでしまうほどである。大ホールのなかで、大勢の前で自分の労作をこきおろされること。この屈辱と無力感を思えば、品性卑しいネットでの中傷(作者もまたあなたと同じ、傷つきやすい人間です。子どもを育てるように時間と労力をかけ、大切に世に出した作品に、どこの誰かわからぬ人からまったく見当違いで理不尽な罵詈雑言を浴びせられたら、あなたの心身ならばどのような反応を示すでしょうか。作品や作者がお嫌いなら、嫌いなものに構う必要などありません。大人の態度で、ただただ、無視して通り過ぎ、ご自分の人生の貴重な時間を有効に使ってくださいますよう)になどいちいち傷ついてなどいられないというものだろう。

そこから飄々と、なんの苦労もしていないように軽やかに舞い上がって活躍している伊坂さんの作家としての姿勢に、少し勇気と元気をわけていただく。

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2009年5月 9日 (土)

うれしいお手紙

「プレシャス」でたまたま同じページに出たことで勝手にご縁を感じ、本好きの中江有里さんに「愛されるモード」をお送りしたら、とても美しい自筆のお手紙をいただきました。きちんと読んでくださったことがわかる感想まで丁寧に書いてくださり、なんだかものすごくあたたかい幸せな気持ちになりました。中江さん、お忙しいなかのやさしいお心くばり、ありがとうございました!

新刊をだすと、いちおう、知り合いにお送りするのですが(もちろん自腹です)、「届いた」というお返事をいただくのはそのうちの3割ぐらいでしょうか。最初の頃は、ちとショックでしたが、どうやら日頃のつきあいの程度に関わらず、スルーされるほうが普通であるらしいとわかってきた最近では、「それが人生だ。」と淡々とやり過ごすことにしていました。そこへきて、こんな中江さんのようなレスポンスに出会うと、それこそ「有り難し」の世界。面識すらないのに。こんな感激は一生忘れられません。私も人にはこういうふうに接するように心がけよう、とあらためて思いを強くする。

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2009年5月 7日 (木)

シャトー・メイネイ

サン・エステフ2003年。雅子さまが皇室に嫁ぐ前夜、大和田家で供されたワインとしてあまりにも有名。樽香、プルーン香、タンニンの気配、すべてがなにやら強めかな?と当初感じたが、実際に飲んでみると香りのわりに口当たりがものすごく軽くて滑らか。でもいったんのどをスムーズに通ったらあとからガツンとくる感じ。「本流の伝統を、がっつり」という感慨にひたれるワインでした。

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2009年5月 6日 (水)

ジェイコブス、ではなく ジェイコブズ、と書きたいのだが。

なにかと話題をふりまいてくれるマーク・ジェイコブ(Marc Jacobs)なので、よく記事のネタに取り上げます。で、そのつど、校閲さんから「ジェイコブ」に直すよう指示がくるのですね。日本の代理店も「ジェイコブ」と表記してるからってことで。

日本におけるブランド名がそういうふうに通っちゃっているならもちろん、日本の媒体での記事中の表記はそれに従いますが、でもいつもなんとなく気持ち悪さが残るのです。ニュースなどでは「ジェイコブ」と発音されるように聞こえるし、「固有名詞英語発音辞典」(三省堂)をひいても、Jacobsは「ジェイコブ」と発音するのが正しいことがわかります。

なんで日本語になるとこうなっちゃうのだろう? とずっと薄気味悪く思っていたのですが。 

先日、ピーター・バラカンさんと対談した時に(すいません、OPENERSでのアップが遅れております。もう少しお待ちください)いただいたバラカンさんのご著書「猿はマンキ、お金はマニ」(NHK出版)のなかに、膝を打つような指摘がありましたっ。

日本のミーディア(メディア、と書かないところにバラカンさんの主張あり)がまちがった発音やおかしな発音を伝えており、これが日本人の英語がなかなか通じない原因の一つにもなっている、と。

バラカンさんは、野球チームの例をあげます。ニューヨーク・ヤンキー(New York Yankees)と表記されるのが通例になってますが、これは当然、「ヤンキー」であるべきと。同様にDodgers は「ドジャ」、Tigersは「タイガ」と表記されるべき、と。

複数形のsの読みが「ス」と濁らないのは、その前の文字が無声音(c,f,k,p,t)のときだけ、というのは学校の英文法でも教えているはず。

わざわざへんな発音にして、日本のカタカナ語として定着させてしまうのは、「このことばはもう、英語じゃないから。日本語として日本の慣例にしたがってもらうのでよろしく」っていう日本語の意地?みたいなもんなんだろうか。

というわけで、私が「ジェイコブ」と表記しつづけるのは、このほうが正しいのではないかと思っているからです。とはいえ、実際にこのブランドを取り扱う日本の代理店が「ジェイコブ」と書け、というならそれは「ご本人代理」の方からの指示とうけとめて従います。その程度の正しさではありますが。

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2009年5月 5日 (火)

80年代リバイバル

メンズもレディスも80年代テイストが復活する気配。

メンズでは80年代にもっとも「旬」の威光を放ったフェラガモ、ヴェルサーチェ、ヨウジ・ヤマモト、ジョルジオ・アルマーニ風のゆったりフィットが復活。ネオンカラー、キャンディーカラー、グッチの革ジャケット、カルヴァン・クラインのストーンウォッシュ・デニム、ミッソーニのカーディガンみたいなのもまた人気が出てきたみたいだ。

レディスでも、ほとんど信じがたいことに、あの肩パッドが復活である。 マーク・ジェイコブズもグッチもマルタン・マルジェラもプロエンザ・スクラーまでもが「え?あなたもですか?」っていうくらい、古典的80年代のアズティン・アライアやティエリー・ミュグレー風に傾倒している。いわゆる「セレブ」なあの方もこの方も、マイケル・ジャクソンのステージ衣装を思わせるバルマンの肩パッド強調ジャケットで誇らしげに着飾る。

ビヨンセ・ノウルズも、5月末に始まるUKツアーのステージ衣裳にティエリー・ミュグレーの「モーターサイクルコレクション」(92年の作品だが)を使うようだ。ボディーの部分がカスタマイズされたハーレイ・ダヴィッドソンのような感じなっていて、肩の延長にバックミラーまでついている(笑)。ばりばりパワフルな80年代テイストの衣裳である。

ミシェル・オバマはヨーロッパ訪問でアズティン・アライアのベルトやカーディガンを繰り返し着用し、アライアの名はかつてないくらいとどろきわたっている。

というように、まごうかたなき80年代復活の兆候があちこちに。未曾有の経済不況とされるこの時期に、バブリーに沸いた時代のテイストが人気を得るとはどういうことなのか?

いろんな人がいろんなことを言っている。自信に満ち溢れた時代の気持ちを不況の今だからこそ思い出したいのだ、とか。虚栄に踊った時代へのリベンジだとか。厚顔無恥なほど強いテイストで過去との決別をはかろうとしているのだとか。楽しくて若々しい80年代ルックが、それを知らずに育った若い世代を魅了しているのだとか。

理由はあとからなんでもつけられる。モード界のこの80年代ブームがこれから大衆市場でどう化けるのか、日本ではどんなトレンドを生むのか(あるいはまったく無視されるのか)じっくり観察していきましょう。

「どう化けるのか楽しみ」つながりで、イタリアのトスカーナのグイダルベルト(テヌータ・サン・グイド、2006)を飲んでみる。「サッシカイア」の弟分にあたるワインらしい。軽い口当たりだが、あとからじわじわと余韻が華開いていく感じ。モード界の80年代ブームはこのワインほどのポテンシャルがあるのかどうか。

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2009年5月 4日 (月)

女帝編集長?

米ヴォーグ編集長アナ・ウィンター(「プラダを着た悪魔」のモデルになったといわれるあの人ね)が、ある新聞のゴシップ欄でエディトリクス(editorix)と呼ばれていた。

editor(編集者)とdominatrix(女帝)をくっつけたことばだと思うんだけど、女帝編集長?独裁女編集長? っていうニュアンスでいいのかな。まだ用例は少ないようだ。

キレのいいことばで、なかなか気に入りました。

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2009年5月 3日 (日)

浅田次郎さんのエッセイ + 知の三高峰

浅田次郎さんは小説も巧いですがエッセイも熟練の極みの技を見せてくれます。「ま、いっか。」読了しました。

日経新聞のコラムの連載をはじめたころ(もう10年近くも前になりますが)、毎週毎週どうやって読者を飽きさせずに書くんだ?!と不安と焦りでパニックになっていたときに大量に買い込んで読み込んだのが、ほかならぬ浅田さんのエッセイでした。

事実だけをストイックに描写して心情を伝える(というか、想像させる)。短い文章の積み重ねでリズムを生む。時折、おやぢっぽい「抜け」をつくる。まったく関係のなさそうな現象をさりげなくつなぐ。古今東西の文学のエッセンスになってきた普遍的テーマをそれとわからせずに骨格に入れる。常識や思い込みをひっくり返しながら、正論に落とし込む。全方位に気を配る。短いエッセイのなかにも一輪の花が咲いている(と感じさせる)。この人のエッセイから学んだことはほんとうに大きい。

で、新作の「ま、いっか。」は久しぶりに読んだ浅田さんのエッセイでしたが、円熟の度合いが深まったところに軽みも加わってすばらしく、拍手喝采すると同時に、私はこの10年でいったいどんな成長をしたのかとわが身を振り返って、ほとんど絶望すら覚えたのでした・・・。

仰ぐべき具体的目標があることは、すごく励みになり、とてつもなくありがたい。一方、そこに向かって登りはじめたとき、これほど時間と労力を費やしてもそこにたどりつくまでにはまだまだ遠大な距離がありすぎると知ることは、ものすごい自己嫌悪と絶望をもたらす。浅田次郎さんのエッセイのレベルは到達できたらうれしいなあという一目標でもあるが、あー、いつまでたってもその足元にも及ばない、と自覚して、がっくりする。

日経の連載を始めたころよりもさらに以前から、高く仰いでいた(今でも、だが)三大「知の高峰」もいる。荒俣宏さん、高山宏さん、鹿島茂さん(内二人は、なんと昨年以来、同じ大学同じ学部の「同僚」になった・・・・・・畏れ多すぎてとてもお近づきにはなれませんが)。仕事の質も量もずばぬけてすごいのはもちろんだが、このお三方に共通するのは、「<つなぐ>能力と技芸が図抜けていること」。

「専門分野」なんていう狭い領域も、時間も、空間も、飄々と超えて、まったく予想もしなかった複数のできごとや人物やモノやことばなどを、鮮やかにつないでみせる技。接点のなさそうな複数の現象が、どんどん掘っていくと実は巨大な地下水脈でつながっていたことを示してみせる力量。そんな驚きの世界を次々に大量に華麗に繰り広げる圧倒的なパワー。学問の醍醐味、というものを教えてくれる。

一読者としてはそういう成果に触れているだけで幸せなんですね。でも自分が(どんなにささやかなものであれ)なにか書き始めたときに、あのレベルが目指すべき高み(というか深み)、として常に脳裏にあるのである。なのに、どんなにがんばっても、その100000の1のレベルにも及ばない。これはキツイ。比べることじたいがそもそも間違ってはいるのだが、やはり、かなり打ちひしがれることでもある。

荒俣さんは平凡社に寝泊りして執筆をしていたという。とにかく時間とエネルギーをすべてそこに注ぎ込まないことには、誰もまねのできないすごい物は生まれないのかもしれない。ネイルサロンに行ったり、映画みたり、ショッピングしたり、ワインを飲んだりしているその時間にもっと勉強して書けよ、とも思うのだが、そういう「むだな」時間も私のギャル魂(?いい年して情けないことだが)の健康にとっては必要だったりする。それ以前に、主婦業や母親業にも、最優先事項としてエネルギーを注がねばならない。時間と力の使い方からして、知の高峰たちに追いつきたいなんて言えるレベルではない。

そんなこんなの諸事情と折り合いをつけつつ、できることをやっていくしかないのだが。

ってことで、今週の一本、ムルソー(ドメーヌ・ラトゥール・ジロー 2006)を開ける(おいっ、ですね。すいません)。この前から赤ワインの話ばっかり書いてるけど、日常ワインはだいたい白が多いんです。翌日残りにくいので。でも、特別の白、となればムルソーかモンラッシュですかね、やはり。実はムルソーを自分用に買ったのははじめて(おつかいもの用の白としては、とても喜んでもらえます)。厚みのある白のゴージャスな品格をずしりと感じつつ、がんばってもがんばっても巨匠たちの足元にも及ぶことができない自分の無能っぷりに、ちょっとだけ落ち込む。

☆☆☆(以下翌朝記)

二日酔い、というわけではないけど、ふわふわした感覚がしばらく残っていた(リポビタンDにビタミンCを入れて飲んだらすぐすっきりしましたが)。

やはり物書きとして読者に提示すべきは、一見無関係な表層の諸現象をつなぐ、巨大な地下水脈、と再確認した。あきらめずに、くさらずに、淡々と掘り続けてみることにする。

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2009年5月 2日 (土)

ミシェル・オバマの100日

ワシントンポストのファッションジャーナリスト、ロビン・ギヴァンによる「ミシェル・オバマの100日」というフォト記事に目が釘づけになった。

就任式から100日を経たアメリカのファーストレディの活躍を、ファッションで追っていくのである。就任式、公式写真、ホワイトハウス案内、G20訪問、エリザベス女王に謁見、カーラ・ブルーニとの「対決」、スクール訪問・・・各シーンで賛否両論を巻き起こしたが、いずれにせよ意図的な服装戦略がとられていることがわかる。ミシェル・オバマは明らかに「ファッションの歴史」に名を残す人だ。

ヨーロッパではフランスのカーラ・ブルーニ・サルコジと、スペインの皇太子妃レティシア(離婚歴のある元ジャーナリスト)のファッション対決(とりわけ二人並んだ後姿がうっとりもの・・・ほんものの美女は後姿に意識を注ぐ!)が華麗にことこまかに報じられ、こちらもたっぷり目の保養をしつつ、フランス・スペイン関係がどんなものか、さわりだけでも学ばせていただきました。

こうやって注目を浴び続ける当の本人たちはたいへんな苦労をしていることとは察するが、でもちゃんと世界に向けて、絶大な国のパブリシティをおこなっている。遠い国の、私のようなミーハーな人間は、ファッションを通して、「ああ、こんなことが起こっているのか」とぼんやりとでも時事を知ることができる。

ファッションがそんなふうに政治欄にも食い込んでくるような国では、ファッションジャーナリストも育つ。ワシントンポストのロビン・ギヴァンはピューリッツア賞をとっているし、インターナショナル・ヘラルドトリビューンには名物記者スージー・メンケスがいる。タイムズではリサ・アームストロングが独特の着眼点で記事を書くし、テレグラフにはおなじみヒラリー・アレグザンダーがいる。(フランス語圏とスペイン語圏のことはよくわからないが)

ファッションをとやかく言っちゃいけないような無言の圧力のある日本では、政治や外交の場に出ていく女性は(男性もだが)、自分の服装ができるだけ話題にならないような(としか見えない)無難な装いが多く、骨太な社会派ファッションジャーナリストが育つ土壌もあんまりない。それはそれで日本的な美点かもしれないとも思うのですが。

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2009年5月 1日 (金)

恩師のお誕生日

メーデーっていう覚えやすい日であることも、よかったのかもしれません。5月1日は、小学校の(!)恩師の誕生日で、今日もお祝いメールを送りました。

私が12歳(・・・そんなときもあったんです)だったころ、師はたしか大学を出てはじめて教師になった年で、つまり教師一年目にうけもった生徒のひとりが私だったわけです。今は堂々たる中学校の校長先生ですが。

かつて20代半ばであった先生も、今は60歳に近く。でも、生徒たちより早く登校したり花を植えたり、ぜんぜん偉ぶったりしないで、生徒と同じ目線で、はつらつと楽しそうです。この先生をはじめ、私はほんとうに師に恵まれてきました。小・中・高・大、ぜんぶ公立で、予備校も塾も行ったことはなかったんだけど、とにかく出会った学校の先生方が圧倒的にすばらしい存在で、大きな影響を受け、教えられ続けています。

個性的な先生ばかりなのですが、すべての恩師に共通する点があります。

「生徒(学生)に対し、壁を作らずオープンな心で接してくれ、基本的に生徒の存在を(いかに異端であれ)120%肯定的に受け入れてくれること」

これがどれだけ難しく、それゆえ、どれだけ生徒の意欲を引き出すか・・・! 

恩師のバースデー祝いと称し、「シャンボル・ミュジニー」(ドメーヌ・アンリ・フェレティグ 2005)を開ける。なんだかんだと毎日飲んでいるような気もしないでもないが(笑)、ま、連休中も仕事で、どこ行くわけでなし。これはとんがった主張なく、とてもやさしく穏やかな気持ちにさせてくれるワインでした。

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