2010年7月30日 (金)

床下の小人さん達とともに見る夢は

「借りぐらしのアリエッティ」、ワーナー系の映画館で。床下に借りぐらしをする小人さんたちと、心臓手術をまじかに控えた少年との、ささやかな心の触れ合いと別れの物語。

ほのぼの温まりすぎて、物語が美しすぎて、どうしようかと思った・・・。お金を払って映画を見に来ている観客の胸の内をしぼるとるべきドラマにはやはり、残酷さとか壮絶さとか極端なドラマ性とか、そんなキョーレツな負の要素がちょっとはほしいという気がしたのであった。ジブリのなかでは、かなーり無難なほうの映画。

他の映画の予告編の数がやたら多かったのだが、ぼおっと見ていてひっかかったこと。「世界を変える」「奇跡」ということばが連発される(=売り物になる)映画がとても多い。

世界を変えたい。奇跡を生む出会いをしたい。これって、現代人に共通する深層心理なのかもしれないな、と思う。

ラウンジの巨大なパネルのひとつ。歴代名画のポスターやワンシーンがちりばめられ、映画好きにはたまらない世界が広がる。

Monroe

| コメント (0) | トラックバック (0)

「それにもかかわらず!」と言い切る自信

29日(木)に、佐藤優氏の講座、「マックス・ヴェーバー『職業としての政治』(岩波文庫)を読む@衆議院第一議員会館」に参加したときの、メモ。公的な記録はあとから書籍にまとまるそうなので、そちらで。ここでは、政治的知識に関しては「ど」素人の、ひょっとしたらどこか誤解もまじっているかもしれない、あくまで個人的に印象に残ったことがらの備忘録。

参加者が順番にテキストを音読しながら、佐藤氏が解説を加えていく。中学校以来の、テキスト音読+先生の解説、という講義形式。新鮮で、あっという間に過ぎた、濃い二時間だった。

佐藤氏の知識の質・量がともかく圧倒的に膨大で、ヴェーバーのテキストもそうだが、佐藤氏のお話も、「当然、知っておくべき教養ないし前提」のレベルがおそろしく高い(というか私のレベルが低すぎるのだろう)。だから正直、お話の内容の半分は十全に理解できていなかったのではないかと思う。でも、わからないなりに、テキストと話の、表層の迫力そのものに引き込まれた。そんなことって、あるのだ。以下、整理できたことのなかから、面白いと感じたこと(の一部)をランダムに。

・二種類の政治家がいる。平和を掲げ、格差や貧困をなくすことを目指す、理想追求型の政治家。鳩山さん、阿部さんが、このタイプ。一方、夢やユートピアを政治に持ち込むのはおかしい、政治家は現実的にやれることだけやるべきで、最小不幸社会の実現を目指す、と考えるタイプ。ゲーテでいえばメフィストフェレス。菅さんはこちらのタイプ。

・負の感情の連帯で、民族はまとまる。「ドイツ国民に告ぐ」のフィヒテ、ナショナリズムの父と呼ばれたフィヒテが、この手法でドイツの民族感情をあおった。悪く扱われた点だけを羅列していって、負の感情をあおり、民族を連帯に導いた。一種の、いんちき。(今でも健在ですね・・・・・・負の感情をあおって、連帯を呼びかけるやり方は)

・世界に悪はあるのかどうか?に関して、考え方は二つある。悪は善の欠如にすぎず、したがって悪は根絶できる、という考え方。一方、悪はそれ自身として自立している、という見方。

・プロレタリアートという言葉に関し、日本では誤解がある。正確には、生産手段をもたず、労働力のみによって生活の糧を得ていくのがプロレタリアート。したがって、高給取りであっても、労働力しかもたないサラリーマンであれば、それはプロレタリア。資本主義の構造にとって、プロレタリアートは「装置として必要」。

・心情倫理と責任倫理がある。心情倫理とは、「正しいことをしている」という純粋な心の中の価値基準にのっとった発想。その倫理に従った結果、どうなろうと、天命を待つばかり。一方の責任倫理とは、行動の結果を予測して、最善の結果をもたらすために今どういう行動をとるべきかを考えること。後者のほうが、成熟した政治家に求められる倫理とも見えるが、ケース・バイ・ケースで、どちらがいいとも悪いとも言い切れないところがある。ただヴェーバーは、こんなふうに書いている―「心情倫理と責任倫理は絶対的な対立ではなく、むしろ両々相俟って『政治への天職』をもちうる真の人間をつくり出すのである」。

・ヴェーバー、最後の締めに力強い名文。「政治とは、情熱と判断力の二つを駆使しながら、堅い板に力をこめてじわっじわっと穴をくり貫いていく作業である。もしこの世の中で不可能事を目指して粘り強くアタックしないようでは、およそ不可能なことの達成も覚束ないというのは、まったく正しく、あらゆる歴史上の経験がこれを証明している。(中略) 人はどんな希望の挫折にもめげない堅い意志でいますぐ武装する必要がある。そうでないと、いま、可能なことの貫徹もできないであろう。自分が世間に対して捧げようとするものに比べて、現実の世の中が―自分の立場から見て―どんなに愚かであり卑俗であっても、断じて挫けない人間。どんな事態に直面しても『それにもかかわらず!』と言い切る自信のある人間。そういう人間だけが政治への『天職』をもつ」。

一週間前に完成したばかりという衆議院議員会館の、議員の部屋も見せていただく。ひとりあたり100平米と広く、セキュリティも万全。ライトアップされた国会議事堂を見下ろす眺望もすばらしい。でも家具は一律、支給品だそうで、秘書の方は「刑務所で使われているものと同じで、ちょっと安っぽい」と不満そうでもあった。税金が使われているので、国民の反感を買わないためには、そのあたりのバランスをとることも大事なんだろう。

くしくも同じ時間、民主党の両院議員総会がおこなわれていた。ヴェーバーの最後の文章を議員の皆様に届けたかった。

ガラス越しなのでちょっとぼんやりした写真だけど、眼下に議事堂。

Photo_2

| コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月29日 (木)

闘牛は文化的遺産か、動物虐待か

カタロニアの議会が闘牛を禁止する、という記事。「ガーディアン」28日付。

2011年末をもって、バルセロナからカタロニアの北東部にかけて、闘牛が見られなくなる。闘牛は動物虐待、という時代の勢いが、ついにここまできたのか、という感じ。

この決定に反対する人の声も多数。闘牛は残酷なスポーツなどではなく、芸術である、と。

自由に対する侵害である、という声も。子供たちや若い人は、怒れる牛に対する対処の仕方を学ぶ。見に行くか、行かないかは個人の自由であって、一方的に禁止するのはおかしい、など。

長い歴史をもつ文化的遺産か。断ち切るべき野蛮な慣習か。「倫理的」であらねばならない時代の流れにあっては、闘牛に対して後者の見方をとる人が圧倒的に多かった。

見られなくなる前に、ぜひ一度見ておきたいと思うが。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月28日 (水)

英国男子もイタリアの服を着る

イングランドのサッカーチーム「チェルシー」が、選手の公式スーツと「私服」のデザインを、イタリアの「ドルチェ&ガッバーナ」に依頼したというニュース。「インデペンデント」28日付。服装だけではなく、スタジアム内のスペースも改装し、「ドルチェ&ガッバーナ・ラウンジ」と呼んでいるという。

ドルチェ&ガッバーナはすでに二回、イタリア代表チームのデザインをしているし、「ACミラノ」の選手たちのスーツも作っている。が、外国チームのデザインは初めてになる。

濃紺の艶っぽいスーツで、シャツがダークカラー(白とかブルーではなく)であることが目立つ特徴。そこはかとなく「遊び人」っぽいムードを醸しだす。

ドル&ガバの得意とする、「男の自信を誇示するような男らしさ」が、サッカー選手に好まれているということか。少なくとも、イギリス的な「アンダーステートメント」(控え目表現)はそこにはない。

男の服ならイギリス製が格上、と思いたかったが、もうそんな時代でもなくなったのかもしれない。サッカー選手が自由で色気と勢いのある服をグローバルに求めたら、ドル&ガバにいった、という印象。

それはそれでいいことだと思うが、サッカー選手のライフスタイルが憧れと模倣の対象になることを思うと、英国男子もイタリア男のようになっていく風潮が強くなっていくのかな……(18世紀にもイタリアかぶれの「マカロニ」男子などが、いたわけだが)。

| コメント (0) | トラックバック (0)

2010年7月27日 (火)

加害者と被害者の境界は

朝日文庫になった、吉田修一『悪人』上・下、帰途の新幹線の中で読み終える。

三面記事にしたら「出会い系で会った底辺の男女たちの殺人と逃避行」みたいな話として片付けられそうな事件だとしても、その当事者ひとりひとりに、かけがえのない人たちがいて、生きてきた歴史があって、深い心の傷がある。だれが被害者で誰が加害者かなんて、ばっさりと決めつけることなんてできない。人と人との関係を繊細に、正確に掘り下げて、紋切り型の答えなんか与えず、読後もずっと胸をしめつけ、考えさせる。タイトルも秀逸。傑作だと思う。原作者本人が脚本に参加している映画化版も、楽しみ。

| コメント (0) | トラックバック (0)

«大阪は、アツかった。